12月14日

- -  1978年12月14日(木)


 呆れたことに僕はまだ機嫌が良い。今朝、薬剤を散布して一晩経った「元庭園」を見回ってきたが、成果は疑いようもなく上々であることが確認された。たったの24時間前には寒さの中でも青々と生気に満ちていた常緑樹や苔などが、見事なまでに皆枯れて死んでいた。よく見ると自然に枯れたのとはやはりどこか風合いが違い、庭園全体が黒く腐蝕した、とでも言うべき病的さを纏った様相であった。だが問題はないだろう、僕の他に誰がこれを目にするというものでもないのだから。父には見えない。見えなくて良かった。薬剤を用いる方法で最も懸念していたのは、実を言うと臭いの発生だったのだが(父は視覚が欠けつつある一方、元から嗅覚が並外れて鋭いのだ)、それも心配なかった。僕の抱いていた不安や焦燥を補って余りあるほどに、ことは上手く運んだようだ。素晴らしいではないか。よもや誰も我が家の庭園が、極めて人為的な方法でもって唐突にその命を絶ち切られたとは思うまい。

 あとはまた後日、植物の組織の脆弱化と乾燥を速める薬剤を調合して散布し、枯れ木を更に軽く脆くしておこう。調合が狙い通りにいけば、細身の木々なら素手で触れただけですぐ崩れて粉末状になってしまうような状態まで持っていけるはずだ。そうなれば、僕がそれ以上手を入れるまでもなく、雨が降っただけで庭園全体がボロボロと勝手に風化していってくれるはずである。楽だ。我ながら優れた考えだと思う。

 僕さえ慎重に黙っていれば、一つも不都合なことは生まれない。この聖域も安らかなままに閉じてやれるような気がしてきた。無論、まだ最初の一歩をやっと踏み出したばかりだ。油断は禁物であるが。


 そういえばここ最近の忙しさに紛れて迂闊にも忘れていたのだが(などという所が既に油断であり反省せねばならない)、もう月も半ばなので、父の月に一度の定期診察が迫っている。夕食時に父と二人して「そういえば」と思い出し、確認したところ、次の往診の予定はあさって16日であった。先月僕がそのように予約を入れたのにすっかり忘却していた。これではいけない、気を引き締めねば。

 父が今の医者にかかるようになってから2年半になる。あの医者は我が家の「協力者筋」から派遣されている人材だから、我が家が小さな街を丸ごと一つ所有域(或いは聖域)としていることを承知し、外から通ってきている。が、具体的にどこの協力者筋からどういった縁で採用されて入ってきた医者なのかは分からない。去年、僕一人で秘密裏にあの医者の素性を探ってみたことがあったが、手応えはさっぱりだった。あの医者の経歴は途中でぷつりと霧の中に入ったかのように途切れており、確か41歳より前の情報は遡ることが出来ず諦めたのだったか。彼は現在還暦を少し過ぎた程度の年齢で、寡黙で能面のような表情を崩さない人物である。左右で耳の形が大きく違い、左の下の奥歯は2本銀歯になっている。と、ここまで思い出すのは容易いのだが、彼の吸っていた煙草の銘柄は何だったか。僕としたことが、珍しく忘れてしまったようだ。明後日それとなく見ておこう。

 何にせよ医者としての腕はいいと思われるので、別段不満はない。

 いや。

 腕がいいのは結構なことだが、今となってはどうか父の視力を劇的に回復させることだけはよしてほしい。何故なら僕がもう庭園を潰してしまったからだ。父は父の中にある、美化された家の記憶のみを眺めていてくれないと困る。最早後戻りはできないのだ、彼に現実の視覚を取り戻されては駄目なのだ。ああ僕はなんと浅ましい息子だろう、父親の快癒を祈れなくなってしまったようだ。


 まあ、僕一人がいくら浅ましきに落ちたところで。いざとなれば僕には、庭園の植物を枯らしたあの薬剤を一気にあおるという手段もある。もしも自分がいよいよ見るに堪えないほどの醜い悪へと変じてしまったらその時は、僕は己を断罪する覚悟である。生まれ育った聖域を風化させるならば、僕もそこで共に風化しようではないか。母の遺骨のように。


 そうか。僕もこの地に骨として埋まれば、その時ようやく亡き母と、真の意味で親子になれるのではないだろうか。


 また色々と散漫に書いたが、日々が少し落ち着きを取り戻し始めたように感じている。今、僕は心穏やかだ。このまま何事もなく日付が進めば善い。そう願って、今日はここで切り上げる。

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