12月10日

- -  1978年12月10日(日)


 疲れた。今日は良くない一日だった。

 父と衝突してしまった。


 朝起きて、父と共に朝食をとった。昨夜のぎこちなさはもうなくなっていたように感じたが、今思えばそれも最初から錯覚だったかもしれない。

 食卓で父は僕に、「近頃のおまえは休日も家の敷地で忙しくしているようだが、今は冬なのに庭木の手入れがそんなに大変なのか」という旨のことを、かなり不思議そうに尋ねてきた。僕はこれを聞いて緊張した。僕は今日に至るまで父に、この家の所有域にがたが来ていることを報告していなかったのだ。所有域を見て回る際はいつも「庭木の手入れ」とだけ言い置いていた。それは病身の父に余計な心配をかけたくないという思いからくる隠し事であったが、僕はいよいよ自分のその態度を不誠実だと感じた。今後ますます進行していくであろう老朽化に本腰を入れて対応するためにも、ここは親子で現実を共有した方が良いと思い、軽い嘘を吐いていた(庭木の手入れも多少はしていたから全てが嘘というわけではない)ことを詫びて、あちこちの建造物や庭園が最早崩れて朽ちかけていることを伝えた。

 しかし父の反応は、僕の想定の斜め上を行っていた。


 彼は「この聖なる領域が崩れる筈がない。冗談でもそんな事を口にするのはよしなさい」と言ったのだ。


 昨日は見上げた父の老いた顔が網膜にこびり付き、今日は父のこの言葉が僕の鼓膜にべったりと付着して離れなくなった。夜が更けた今でも壊れたレコードの如く、延々とこの声が耳の中で再生され続けている。二日にわたり、視覚と聴覚とを父に塞がれたようなものである。「この聖なる領域が崩れる筈がない」という言葉を聴いた瞬間の、高い所から足を踏み外したような感覚と言ったらなかった。目の前が真っ暗になる、という慣用句が現実的な質感を伴ったものとして感じられたのは今日が初めてだった。

 これは自分に言い聞かせるために書くのだが、人工物はいつの日か必ず壊れるはずだ。いくらそこに崇高な祈りが込められていようと、それが化学式で表せる物質である限り、風化を免れるすべはない。よしんば特殊な条件が揃って何万年も原形を留めたとして、最後にこの星が膨張した太陽に呑み込まれでもしたら、そこで全て終わる。そのはずである。ああ、やはりこうして文字として紙の上に書くと、僕の正しさが僕自身に浸透していくような気がする。僕は間違ったことを言っていないはずだ。そう信じたいのだが、父の様子を見ていると自信がなくなってしまう。


 父は「人工物は壊れるものだ」ということすら、決して認めようとしなかったのだ。他の街の建物なら壊れるかもしれないが、僕達が住んでいるこの領域に関してだけは絶対に何も、一つも壊れるわけがないと彼は言い張った。ここは聖なる場所なのだから、の一点張りだった。おまえもこの聖域の後継者なら、外の世界の法則などに惑わされずにもっと深い信心を持ちなさいと厳しく叱られた。あれほど語気の強い父を見たのは一体何年ぶりだっただろう。最後にここまで父に怒られた記憶は、もしかすると僕が未就学児の頃にまで遡るかもしれない。

 僕も頭に血が上ってしまい、思わず母の墓標の近くの石垣が崩れていたことを父にばらした。垣の何列目と何段目が崩れて幾つの石が地面に転がっていたかまで、仔細に報告してやった。この目で見てきたことなのだから生々しく語れる。これで通じるだろうと思った。しかし、そこまでやっても尚、父は「嘘を吐くのはよしなさい」と首を振るだけだった。


 考えたくもなかったことだが、あの人の視力の消えかけた眼には、本当に全てが信心の問題に見えているらしい。


 そんな押し問答を、結局昼過ぎまで続けてしまった。父は興奮して喋っているうちに血圧が上がってしまい、途中で頭痛や息苦しさなどを訴え始め、僕はそこでようやく我に返った。病身の父を気遣ったつもりがとんだお笑いだ。僕はいつも父に対して、裏目に出ることしかできない不孝者だ。慌てて謝り、すべて僕が間違っていたと頭を下げ、父を寝室まで連れて行って休ませた。幸い父の体調はすぐ持ち直したが、流石にいつも通りの調子で話すことはお互いにできなかった。やり取りの内容が内容だっただけに僕は家の外に出るのも憚られ(あそこで外に出ていたら、父はやはり僕が聖域の力に対して不信感を持っている不届き者だと受け取って怒っただろう)、仕方なく自室に篭もって読書でもしている他なかった。

 また翻訳小説を読んでいたが、やはり一つも共感できる部分がなく、脳が腐るかと思うほどつまらなかった。


 僕はどうすれば良いのだろうか。この一帯の管理は僕に懸かっている。しかし、この一帯の所有者である父は、管理をする必要がそもそもない(ここは特別な〝聖域〟なのだから)と主張する。両者の考えは平行線であり、そして、どうあっても折れるのは僕の側でなければならないのだ。だが現実問題として、今のままでは僕達の物質的生活が立ちゆかない。

 何故そもそも、この領域は現存しているのだろう。父と僕以外の住民はとっくに消えてしまったというのに、何故未だに領域として維持されている必要があるのだろうか。

 僕の父はこの閉じた場所で頑なに祈りを捧げ続けて、何を待っているのだろうか。


 疲れた。ひときわ酷い乱文になったが、今日はここで切り上げる。

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