12月7日

- -  1978年12月7日(木)


 今日は大学に行っていた。表向きは普段と変わらず振る舞っていたが、内実は昨日の疲れが自分で思っていたよりも大きかったらしく、一晩寝ても体の重さが今ひとつ抜け切らないような感覚があった。僕は確か年齢が十代に差しかかった辺りから、自分のことを常々無感動な人間だと思って生きてきたが、まだ全てが無感動に侵され切っているわけでもなかったようだ。家の朽ちていくことや父の老いを見て、翌朝に響く程度の動揺をする心がまだ僕には残っている。それは喜ぶべき感受性の新鮮さだろうか。それとも。

 昨日の日記を見返したら、思いのほか自分が感傷的な態度で書いていて驚いた。元より自分のためだけに書いている日記だが、これでいよいよ他人に見せられなくなってきた。己の未熟な痛々しさが文字になって後に残るというのはある種の、それなりに大きな危険ではなかろうか。世の人々は文字に残った未熟な自分が他人に閲覧される可能性があることを、許せない、とは思わないのか。あるいはその羞恥や葛藤を抱えつつも、なお自分の記録を手元に置いて愛おしむのだろうか。

 僕はいつも俯瞰的なことを考えようとしていながら、人の心のことが全く分かっていないようだ。


 法学研究については、発表までの残り日数も少ないが無事に目処が立ちそうだ。班員の一人である女子学生が非常に積極的に進めてくれており、助かった。この手の発表などは大概僕ばかりが仕切り役を務めることになるのだが、今回は例外的に、僕と対等かそれ以上の視点を持ってくれる人物が現れた。これは助かる誤算だった。班内での方針の対立などもなく、順調に行きそうだ。

 だが、円滑とはいえこのままでは準備時間が足りないため、今週は土曜日も大学に出向くことになった。父のために前もって土曜日の昼食を作り置いておかなければ。本当は週末も家の老朽化の点検に費やしたかったのだが、それが実現するのは発表を乗り切ってからになりそうだ。不本意ではあるが仕方がない、まず学生としての本分を果たそう。


 父のことだが、今日は彼について特段変わった出来事はなかった。この場合、書くことがないのは良いことだ。それは平穏無事な現状維持の証だからだ。生物の摂理として、親が子より先に衰えていくのはこれも仕方のないことだが、その進みがなるべくゆるやかであれば善い。苦痛が少なければより善い。

 一つ考えたのは、今後父の使う生活用品をより取り出しやすい、低い位置に動かしていこうということだ。現状、高さのある棚の上に置いている物などを少しずつ移動させていきたい(勿論父に混乱を与えないようにゆっくりとだ)。昨日から続いている反省の思いとして、もっと父の立場に立って生活上の細かい点に気を配っていきたい。そのくらいのことしか、僕は彼にしてあげられないのだから。


 そうだ、もう一つ。昨日北側を見て回った際、老朽化以外にも、植物の類いが好き放題繁茂しており全く管理できていないことが大きな問題であると感じた。そこで、例えば幾つか点在する庭園は最早見て愉しむ人間も居ないのだし(僕は感受性を持ち合わせないし父の視覚はあの通りだ)、いっそ僕達の代で閉じてしまうのはどうかと考えた。修復ではなく、そもそもの運用を停止するという形での解決だ。このような考えに父は猛反対するに違いないが、現実問題として僕の手には余る。父の信心と伝統への愛に対し、どうにかして妥協点を探っていけないものか。難しい問題だが向き合う必要がある。


 夜も更けてきた。今日はここで終わるとしよう。

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