12月6日

- -  1978年12月6日(水)


 予定通り、今日は一日家に居た。今年度の水曜には何も講義が入っていないので、毎週水曜は家の諸課題(主にあちこちの老朽化の点検)に取り組んでいくこととする。そうせねばまずい、ということに僕は今日、ようやく気が付いたのだ。今まで目を向けてこなかったのが不思議なほど、いや、あるいは無意識のうちに認めることを拒んでいたのかもしれないが、とにかくこの家とその所有域はガタガタになっている。このままでは遠くない将来、どこもかしこも崩れてしまう。朽ち果てる。物質的な意味でも、概念的な意味でもだ。


 起きてから、父と共に普段より少しゆっくりと朝食をとり、父の希望でしばし本を読み聞かせていた。父の眼はもう活字を捉えることができない。一年ほど前まではルーペを使って拡大すれば新聞などは自力で読めていたが、今日聞くと、今年の春頃から次第にそれも困難になっていったとのことだった。僕は父がルーペを使わなくなっていたことは分かっていたが、それがいつからだったか把握していなかった。父が元々あまり自身の不調について人に話さない性格であるとはいえ、それにしても、僕は父の何をも見ていなかったのだと思った。孝行息子が聞いて呆れる。唯一の肉親のことすら知ろうとせず、僕は漫然と生活していた。

 そんな至らない息子の読み聞かせを、父は穏やかに褒めてくれた。おまえの声は人を落ち着かせる力があると言って微笑んでいたが、本当にそうだろうか。それは僕が、そのような効果を演出しようと狙って発声しているからではなかろうか。僕はことさら父の前で、そのような声を出そうと喉の使い方を切り替えているのだ。だから、あなたは僕に騙されている。僕は常にうわべだ。

 父は優しい。


 読み聞かせの後は、例の石垣の補修に向かった。父には北側の庭木の手入れをしてくるとだけ伝えた。今日も母の墓標に軽く手を合わせておいたが、やはり合掌の動作が要請される理由は分からなかった。亡母も父のように優しい人だったのだろうか。

 石垣だが、少し触った時点で修復は諦めた。素人の技術と、家にある数種の道具だけでどうこうできるものではないと判断した。崩れた部分の石を邪魔にならないよう動かし、ある程度は積み直したが、それ以上元の形に近づけようという努力はしなかった。作業するうち、この石垣以外にも同じように老朽化している所があるに違いないのだから、ここ一箇所に拘るより他も見て回ろうという気になった。

 その結果は、予想より遥かに酷いものだった。普段あまり踏み入らない敷地の北側を一通り歩いただけでも、修理を必要とする箇所が二十は下らないような有様だった。開いた口が塞がらないとはこのことだと思った。僕は今までこれだけの数の経年劣化を、目に入れる機会はいくらでもあったというのに、見れども見えずで放置してきたのか。僕は父とは違い、眼鏡を常用してこそいるが視覚機能に問題はないのに。


 幼い頃のぼんやりとした、晴天の記憶が永続すると思い込んでいた。あの頃はまだこの地から人が去って間もなかったため、人工物がその造り手・使い手達の生命を留めていた。僕はいつまでもその幼い幻覚に縋っていたのだ。


 最早この家の所有域に人間の肉声や表情はない。

 昨日あのゲヘナの穴に打ち捨てた、あの鼠の死骸と同質の気体が充満している。それが正しい現状認識というものだった。僕が浅はかだった。鉄の門の下で無為に損壊する小動物の姿の方が、僕よりは余程道理を弁えていたのである。自己の大きな誤りに気付いたからには、それを正さねばならない。僕は父の愛するこの領域を、たとえここが徹底して閉ざされた性質であろうとも、出来うる限りで保守せねばならない。

 そのような訳で、水曜はその対策に費やそうと決めたのである。結果的に日中、父を家で一人にしてしまうことに変わりがないのが頭の痛いところであるが、それも追々考えていくとしよう。幸いにして僕は多くの物事を同時に取り回すのが得意だ。むしろ新しい仕事が増えたことで日々に張り合いが出る、とまで言うと、流石に誇張だが。

 今日は北側だけ見回ったが、順次他の方角も埋めていくことにする。


 もう一つ分かったことだが、日中の父は存外に室内でよく動き回っている。改めて見ていると、彼がじっとしている時間は僕の予想よりかなり短い。これもまた僕の愚かな先入観、いかにそれが愚昧であるかの露呈だった。何らかの皮肉じみているが、目を明かされる思いの一日だった。


 考えたことが沢山あり、今日はこれまでより大分長く書いてしまった。一日目の文章量と比べると、もう二倍近くなっているようだ。自然とここまで膨らんでしまったものの、簡潔に終わらせられないこともまた僕の愚かしさであろうか。それとも、それは自責が過ぎるというものだろうか。やめよう。行き過ぎた自己憐憫は醜い。

 自分でも自分の疲れを感じてきた。明日からは、来週の火曜に発表が迫る法学研究についても少しは頭を割かなければ。そろそろ筆を置くことにする。

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