第10話
せっかく穴蔵生活から抜け出したというのに、目覚めた瞬間の肌寒さは、それほど変わらない。これで薄暗くて小汚い部屋であればまだ悪態を付けたのに、天井も床も壁も、全てが真っ白に磨き込まれていて、かえって落ち着かない。天井の照明は昼光色よりやや青白い印象で、実験動物気分をより一層高めてくれる。
独房へ放り込まれて提供される食事の割には、非常に匂いも見た目も良い朝食は、昨夜受けた過激な挨拶で口の中を数ヶ所切ってしまったため、一口も食えなかった。オレが腹を空かせたまま朝食に別れを告げると、心の隙間を埋めるように牧が顔を見せた。
「グルメなお前さんには、合わなかったかな」
牧は口の端を歪めながら言うと、扉の前にいた守衛に声をかけ、オレを部屋の外へ連れ出した。オレは守衛に身柄を拘束されたまま、面会用の部屋に通された。オレと牧の間には、会話ができるように穴が開けられたアクリル板があり、オレの後ろには記録係らしい係員が机に向かって座っている。
オレは冷たいパイプ椅子に座らされ、アクリル板越しに牧と向かい合った。
「一晩で随分、男前になったじゃないか」
牧は自分の顔を指差して、オレの顔がどうなっているかを教えてくれる。
「そういうお前は、悪党のセリフが板について来たな。徹夜の稽古でもしたのか?」
オレの返事に牧は鼻で笑い、「随分と余裕だな」と言った。
「余裕なんかないさ。痛いし、寒いし、腹も減ったし。久しぶりに生命を感じてる」
「そいつは結構なことだ。もうしばらく、味わっていくか?」
牧は真剣な面持ちで、突き放すように言った。オレがしばらく返事を返さずにいると、「さっさと吐いて、楽になったらどうだ?」と言った。
「ロジャーが出国直前に、お前と何を話してどこへ向かったのか。素直にゲロっちまえば娑婆に戻れるし、刑部さんの美味いコーヒーにもありつける」
牧の奴、刑部さんのコーヒーと来たか。この街で一番美味いコーヒーを鼻先にぶら下げられると、守秘義務を破りそうになる。オレは首を振り、鼻腔をくすぐる芳しい幻覚を追い払った。
「彼について話せることは何もない。彼が何者で、どこから来てどこに行ったのか、オレには全く見当もつかない。彼の依頼も、中身は話せない」
「一晩ぐらいでは、口を割らんか」
牧は椅子から立ち上がり、両手をズボンのポケットにしまって、オレに背を向ける。彼はオレをここへ連れて来た守衛に合図を送ると、向こうの出口から部屋を出て行こうとする。オレはその背中に、「ちょっと待て」と声を掛けた。牧は一瞬足を止め、こちらへ振り返る。
「お前はオレの敵か? 味方か?」
その場に留まろうとするオレを、強引に引き剥がそうとする守衛に向かって、牧は手と顔で合図した。守衛はオレを拘束したまま、動きを止めた。
「オレはいつでも、社会正義の味方だ。世間的には、ジャーナリストの端くれなんでね」
「オレはお前の言う、社会には含まれないのか?」
「存命中の市民、ではないからな」
牧は守衛に合図をすると、再び背中を向けて部屋を出て行った。オレを押さえつけていた守衛は、力尽くで無機質な独房へ向かって無理矢理歩かせた。扉を開け、オレを中へ押し込むと扉を閉めて鍵をかけた。
独房と言うには広すぎる部屋に置かれた大きすぎるベッドへ、オレは腰を下ろした。独房へ押し込まれる際に、両手首につけられていた手錠は外されており、やることは特にないものの、ある程度の自由が確保された。
風呂もトイレも、プライベートも十分に確保された状態で完備されている。外から観察されるのが気になるようであれば、目隠し代わりのカーテンも備え付けられていた。天井のど真ん中に、ドーム型の監視カメラが設置されていたら無意味ではある。
オレは腹を括って、ベッドに横になった。下手をすると自宅より快適な空間ではあるものの、空調の設定温度が低いのか、身につけているものが薄いのか、微妙に肌寒い。せめて靴下かスリッパでもあれば気が紛れるのだが、寒さを気にして寝返りを打つと、全身にある傷に痛みが走る。
牧が社会正義の味方だと主張するからには、もっと人道的な尋問があってもよかったはず。暴力に任せた力尽くの拷問では、悪党のやり方にしか思えない。
自殺防止からか、周りには本やペンどころか、机や椅子も見当たらず、他に何もすることがない。広さを活かして身体を動かすぐらいしか選択の余地はないが、あちこちが痛むオレに、それは選べない。仕方なく、一人ベッドの上で不貞腐れていると扉がノックされた。そちらに目をやると、懐かしい人物が記憶の中にある姿でこちらを見ていた。
「立て続けで申し訳ないけど、追加の尋問にご協力いただけるかしら?」
「応じない選択肢は?」
「あるにはあるけど、オススメはしない」
彼女は格子の向こうで、白衣に両手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに言った。あちらに、下手に出る必要は微塵もない。オレが黙り込んでいると、彼女は左手を出して、文字盤を内側に向けた華奢な腕時計を見た。
「黙秘と見なして構わない?」
時間にしてほんの数秒、一分と経っていないにも関わらず、彼女は白衣を翻してその場を立ち去ろうとする。相手の多忙さはオレも理解してはいるが、判断があまりにも性急すぎる。オレは彼女を呼び止めた。
「あら、こんな揺さぶりに引っかかるなんて。随分耄碌したのね」
「ああ。もう、四十を過ぎたからな」
彼女は守衛に声を掛け、オレを外へ出すように指示を出した。さっきオレを押し込んだばかりの守衛の手で、オレは再び手錠を掛けられた。彼に腰縄も付けられ、白衣の女に先導されて、昨日も使った取り調べ室へ案内された。
一晩のうちにすっかり綺麗にされ、オレが流した体液の跡はどこにも無い。鼻をどれだけ効かせても、嫌な匂いを感じない。白衣の女、ルリ子・グリーンバーグが付けている香水の甘い匂いと、化粧品特有の匂いが混ざり合って、オレの鼻を刺激する。
昨日も座った椅子へ座らされ、忌々しい記憶がフラッシュバックする。四方から飛んでくる容赦ない衝撃と、多種多様な痛みと音が、鮮明に蘇った。
「不死身のアイアンハートも、すっかり形無しね」
ルリ子はオレに向かい合って座ると、かつての異名を持ち出した。あまりにも安直かつ響きのダサさに止めてくれと懇願したソレを持ち出して、オレを小バカにしたいらしい。
「不死身でもないし、鋼鉄の心臓でもないのは、アンタの方が知ってるだろ」
「頑丈なマシナリーハートよりは、強そうで良いじゃない」
彼女は自分で口にした言葉を繰り返し、「マシナリーハートも悪くないわね」などと独りで楽しそうに笑った。「尋問が無いなら、解放してくれ」とオレが言うと、彼女は「今回は痛くしないから、そんなに怯えないで」と言った。
「昨日も、最初はそう言われたよ。その結果が、この有様だ」
「それは悪かったわね。強情なアナタが一番悪いんだけど」
ルリ子は特に悪びれる様子もなく、オレをやんわりと非難した。どうやら彼女も、「街」の側に立つらしい。彼女が口にした「痛くしない」の言葉に少し期待してしまったのを悔やみつつ、気合を入れ直す。
「それで、聞きたいことは?」
向こうが体制を整える前に、こちらから質問する。ルリ子は、「ロジャーの行方」と答えた。
「アナタが彼に何を吹き込まれ、彼をどこに連れて行ったのか。詳しく教えてもらえるかしら?」
「行方も何も、遺体が発見されたんだろう? オレとロジャーの動きも把握しているなら、追加の情報など無用だろうに」
「回収された遺体が、本人ならね……」
ルリ子の口ぶりに、オレは「じゃあ、どこの誰だ?」と尋ねた。彼女は「アナタは知らない、エリスン・マーストン社製の生体組織よ」と答えた。
「非常に精巧に作られていたけど、手が込んだただの人形ね」
「つまり、」
「アナタとドライブしたロジャーは、死んでいない。完全な行方不明」
ルリ子の言葉に、オレは思わず顔を綻ばせた。彼女はそれを見逃さず、「あら、嬉しそうね」と呟いた。
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