第9話

 大阪市の西側から、西宮のヨットハーバーまで。ロジャー氏の望み通りに、無理なく時間を割くルートを選んで移動した。もっとも時間帯が悪く、高速も一般道もメインのルートは渋滞しており、面白味のない道のりを選んでも、彼の希望は叶うようだった。

 経験則を頼りに国道から裏道へ抜けても思ったようには抜けられず、渋滞にハマりながら、辛抱強くアクセルを踏むのが正解だったようだ。ナビに任せっきりでも顧客満足度の高い仕事ができたとは、何ともやり甲斐のない仕事だ。

 ただ、道中で厄介な連中に絡まれることもなく、安全に彼を目的地まで送り届けることができた。ロジャー氏が求めていた時間稼ぎ、囮としての役割は十二分に果たせたように思う。

 オレはロジャー氏の車を、もう一つ先のヨットハーバー近くまで進めると、彼の指示に従って、「街」が管理しているらしい駐車場へ車を入れた。二人で車を降りると、彼は自分の手でトランクからスーツケースを降ろした。

 オレは車のキーを彼に差し出したが、彼はそれを受け取らなかった。オレが「どうするんだよ、コレ」と訊くと、「そのままにしておいてくれ」と彼は言った。

「そのまま乗ってくれても構わない。手続きが必要なら、『街』に頼んでくれ」

「ここの駐車料金も、駐車場の費用も貰ってない」

 オレがそう言い返すと、彼は鼻で笑った。彼は、「好きにしてくれ」と言った。彼の逃亡を支援する仲間が、事後処理も引き受けてくれるそうだ。オレは側にいた係員にキーを渡し、「君に任せる」と言った。

 スーツケースを引いて歩き始めたロジャー氏に、オレは後ろから声をかけた。

「こんな時間でも、サングラスか?」

 オレの問いかけに、ロジャー氏はハッとした様子でサングラスを外した。既に陽が落ちて久しく、空には煌々と月や星が光っている。サングラスを外した彼は、それもオレに差し出した。

「手元にあると、つい付けてしまう。君が持っておいてくれ」

「別れ際に形見分けはよしてくれ」

 オレは目の前にある彼の手を押し退けた。彼はオレの手を取り、無理やりサングラスを握らせた。彼は目を細めて微笑んだ。

「そう簡単には、死なないさ。蘇ったばかりだから」

 ロジャー氏はそう言うと、ヨットハーバーの入り口で「じゃあ」と別れを告げ、中へ入っていった。彼が向かう先には、彼の逃亡を支援する仲間が二、三人見えた。彼の有言実行を信じて、オレはその場を後にした。


 西宮のヨットハーバーから、公共交通機関を乗り継いで何とか帰り着いた後は、日々の事務作業を棚に上げ、冷蔵庫に冷やしておいたビールのロング缶を一本空けると、ベッドの上で泥のように寝てしまった。

 久しぶりに張り切って方々を駆け巡ったからか、妙な安心感からか、久しぶりに朝まで一度も目を覚ますことなく、眠り続けた。翌朝、牧がオフィスのドアを叩く大きな音で起こされた。

 オレは覚醒し切らない頭で状況を把握しながら、ゆっくりと身体を起こした。頭はボサボサ、髭も剃らない酷い顔だが、ドアを開けてその場で応対するだけなら問題なさそうなのを鏡で確かめ、「今、開けるよ」とあくびをしながらドアを開けた。

「朝っぱらから、何だよ」

 オレが彼を招き入れると、牧は「相変わらず、汚いな」と言いながら、オフィス中に視線を走らせた。彼が中へ入るのは暫くぶりな気もするが、彼の耳目を引くようなものはないはずだ。

 牧は応接スペースのソファに座り、オレは彼にドリップコーヒーを淹れながら、顔を洗い、髭を剃った。沸かしたばかりのお湯でコーヒーを二杯入れ、彼の向かいに腰を下ろした。

 牧はコーヒーに手を付けず、オレの目をジッと見た。オレはコーヒーに手を伸ばしながら、「なんだ?」と訊いた。

「お前、昨日はどこで何をしていた?」

「何って、お前がくれた資料もヒントに野久保を」

「ーー野久保をどうした?」

 牧はオレが言い終わる前に、言葉を重ねてきた。彼の剣幕に、オレは思わず言葉を飲み込んだ。牧は続けて、「見つけたのか? まだ、見つかってないのか?」と畳み掛ける。

「オレに連絡を寄越さないってことは、そういうことだよな。にも関わらず、昼前まで連絡も返さずに熟睡とは、どういうことだ? 説明してもらおうか」

 牧は微かに怒りの色を浮かべ、ソファに腰掛けたまま身を乗り出した。身体のデカさから来る威圧感は、まともな出版社の編集長とはとても思えない。元武闘派の編集長と冷静に対峙すべく、オレはコーヒーで喉を潤した。

「小遣い稼ぎの依頼が割り込んだから、それに対応した。多少の遠出だったから、疲れが出て寝た。ただそれだけだ」

「野久保の件も放り出した上で?」

 牧の追及に、オレは「ああ、そうだ」と答えた。いくら牧とは言え、自分の仕事に口を出されるような間柄ではない。何を優先して、何を選ぶかはオレの自由だ。

「そうだ。姿を消した人間の尻を追いかけるために、目先の小遣い稼ぎを選ぶ。それの何が悪い。何が可笑しい?」

「それほど困窮はしていないはずだがな」

 牧はようやくコーヒーに手をつけ、一瞬黙り込んだ。彼から切り出したはずが、そこで議論をするつもりはないと言った態度に思える。確かに彼から多大な世話や恩恵を受けてはいるが、そんな態度を取られるとは思いも寄らない。

「その小遣い稼ぎだが、外国人の客だったそうだな」

 どうやら牧はここへ来る前に、方々で情報収集していたようだ。刑部さんならまだしも、バイト君なら牧相手に口が軽くなっても仕方ない。オレは「それで?」と続きを促した。

「そいつは、エリスン・マーストン社のロジャー・ベルンハルドだな?」

 牧はジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出した。そこに写っているのは、昨日ここへやって来たロジャー氏とは、微妙に違う印象の、ご本人だった。オレは「守秘義務がある」と写真を突き返した。

「お前がロジャーと、西宮のヨットハーバーまでドライブしたのはもう分かっている」

 牧はどこで入手したか分からない新たな写真を、オレに見せつけるように並べた。道中の監視カメラから切り出したような写真が、何枚も並んでいる。

「ロジャーに何を頼まれた?」

「ノーコメント」

「ロジャーはどこに行った?」

「ノーコメント」

 牧が何を訊ねようと、オレは守秘義務を掲げて淡々とノーコメントを貫くだけ。

「こういうのはどうだ? ロジャー・ベルンハルドは、昨夜遅くに日本近海で遺体が発見され、『街』の手によって回収された、とか」

 牧の言葉に、オレは思わず眉を動かした。彼はそれを見逃さず、「ほう。やはり、関心ありか」と言った。

「お前は相変わらず、ポーカーフェイスが下手だな」

「お前のような程度の低い駆け引きなんざ、オレには無縁だからな」

 牧はオレの空威張りを見透かしたように鼻で笑うと、ソファから腰を上げて戸口に向かった。家主のオレに断りもせず、勝手にドアを開け、いつの間にか外に控えていた「街」の保安部隊を招き入れた。

 武装警官のように身を固めた彼らは、牧の後ろで彼の指示を待っている。牧は小隊長らしい人物に耳打ちして、オレの身柄を拘束させた。牧は「すまんな、犬上」と押さえつけられるオレを見下ろしながら言った。

「数日は、『街』暮らしだ。ロジャーの件を洗いざらい吐いてもらう」

 牧が小隊長に指示を出すと、オレを押さえつけていた隊員が力尽くでオレを立ち上がらせ、ビルの出口へ向かって歩かせる。オレは店の前に到着していた刑部さんに、「しばらく、頼みます」と言うと、彼はゆっくりと頷いた。これで、オフィスの戸締まり、最低限の防犯は問題ない。オレは胸を撫で下ろしながら、保安部隊の専用車両に乗り込んだ。

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