九. 薬の溶けたカルピスソーダ
即溶性に富んだ睡眠薬を入れたカルピスソーダを、新入生の女が飲んだ。コップを持ちあげて一瞬ためらったのにはすこしどきりとしたが、そのまま飲んだので俺は安堵した。女は全然喋ってなくて、まわりのうるささに気圧されていたみたいだったから、このまま持ち帰っても面倒は起きないだろうと俺たちは考えた。
新歓コンパには3年生5人(男子3、女子2)、2年生5人(男子3、女子2)、新入生9人(男子3、女子6)が参加していた。2年の川辺と須栗は持ち帰りに対して嫌な顔をすると思ったから、俺と田口と篠、2年は森野のあいだで誰がいいかを話し合った。「ウェーブ」を田口と篠が、「茶髪」を森野が指名し、俺は「ショート」を指名した。大丈夫か、無理め系じゃ? と田口は言った。
「目つきが強いから、他の子の方がよくないか」
「いや、大丈夫」
と俺は返した。「あの子、たぶんそう見えるだけだよ」
ええーそうかなあ、ちょっと怖いよ、俺は避けたいなあ、と篠と森野は互いに顔を見あわせながら笑った。大丈夫だって見てろよ、俺の目は正しいからさ、と返しておいた。
「ウェーブ」と「茶髪」、そして俺たちの選ばなかった背の高い女は進めた酒を飲んだので、薬を入れることは考える必要がなかった。背の高い女は浪人して入学したらしく、もともと激しく酒を飲んでいた様子だった。その証拠に、明らかに酒を飲み慣れていない「ウェーブ」と「茶髪」に絡んで、ノリ悪いじゃんヘイヘイ、みたいな感じで半ば強引に飲酒を押しつけていた。だが「ショート」は背の高い女に飲めよおーい、みたいに突っかかられても笑顔をちらりとすらのぞかせずいや、私はいいです、と頑としてはねつけていた。何、ノリ悪いなー、どーせ身内しかいないんだから、いけよーと、背の高い女のみならず1年生男子や2年生から唆されても、いえ、いまはちょっと、と若干弱気になりながらも断っていたのだった。おそらくこの、まわりから押されても自分の意見を曲げないところが、篠たちの目には無理めで、リスクの高い女というふうに映ったのだろう。だが俺はそこにこそ、この女に取り入る隙があることを示していると考えたのだ。
そもそも店に入ってくるときから、「ショート」は集団に溶けこめていなかった。1年生は最初に男ふたりと女ひとりが最初に来て、そのあとに残りの男ひとりと女5人がやってきた。そのとき、「ショート」を除いた5人は互いにワイワイと、新入生らしい初々しさで、はじめての大学生らしい飲み会にウキウキした様子でしゃべりながら店に入っていったのだが、「ショート」だけはその集団の後ろにつき、ちょっとだけ前後に揺れながら話を聴いているふりをしていた。きっと、その話の輪のなかにいるつもりだったのだと思う。だが悲しいかな、新入生集団はお前が輪のなかにいるなんて感覚、まったくもっていないんだ。しかもそのことに、この女は気づいていない。
そして酒を勧められた際の、自分を曲げない頑固さと、断ってはいたもののすこし遠慮がちだったあの表情、これらの要素に鑑みて、この女は周りから浮いていて、自己主張も強くない、と俺は判断したのだった。それゆえに、口外する危険も少ない。仲間のいる「ウェーブ」や「茶髪」の方が、よほどもちかえられたことをしゃべる恐れがあるだろう。
一時間半ほど経ち、酒を飲んだ奴らにアルコールが回ったころ、田口が立ちあがって、
「どうだろう、けっこうたくさん話せたかと思うんだけど、別の先輩とも話してみたいかなと思うんで、席替えしたいんですけど、いいですかー?」
と言った。もちろん、いやだという人はいない。酔ってふらふらしている「ウェーブ」と「茶髪」の隣に、篠と森野がそれぞれ陣どり(田口はじゃんけんに負けたので、「黒髪」を選んでその横に座った)、俺は隣に「ショート」を座らせた。「ショート」は警戒する素振りを見せたが、森野に座りなよ、と促され、そのまま俺の隣に着座して、失礼します、と会釈した。それ以上何も言わず、目も合わせないのを見て、俺の予想が外れていないことを確信した。
6人が座る卓で、正面に座る2年生ふたりと3年生女子ひとり、そしてもうひとりの1年生女子と俺で大学生活についての話が盛りあがっていたが、「ショート」はぜんぜん発言せず、ソフトドリンクをちまちま啜っているばかりだった。予定があると言って「ショート」の左隣に座っていた1年生女子が途中で退出すると、俺は「ショート」に声をかけた。
「ねえ、菊ちゃん、」
「は、はい?」
びっくりしたみたいで、声が若干上ずった。それに気づいてか、喉に手を当てている。
「ドリンク頼まない? 今日は上回生がおごるからさ、どんどん頼みなよ。なに、どれ頼んだって誰も悪く思ったりしないよ。むしろ気を遣われる方がさ、俺たちむなしいからさ」
あ、じゃあ、と言って女はカルピスソーダを注文した。そして少し経ってから、女はトイレの場所を尋ね、席を立った。席が空いているあいだに、カルピスソーダが来た。向かいの席を見あげた。3人とも、目を逸らした。向かいの席は2年生の男女がひとりずつと、3年生女子である。2年生女子は昨年俺の1学年上の先輩に連れ帰られ、性交をし、付き合った。いまも続いているらしい。ほぼ週3~4日、先輩の部屋に泊まってすごしている。3年生女子は同じようにして恋人を作ったが別れ、学外のサークルで出会った私大生といまは交際している。2年生男子は恋人はいないが、マッチングアプリで多くの女の子と会っていた。かれらはみな、ここで行われることをよく知っていた。俺はそれに気づかないふりをして、鞄から睡眠薬の箱を取りだして1錠を掌に取り、来たばかりのカルピスソーダに入れた。薬は泡を出してすばやく溶け、すぐにその痕跡を消し去ってしまった。これであとは時間が来て、「ショート」を俺が支えていくだけだ。
そして女が戻ってきた。あとふたつの卓は大声で盛りあがっていて、身内からしてもうるさかった。「ショート」は両卓を交互に見ながら、タイの運河を筏で渡っているみたいな顔で机の隙間を歩いていた。完全に気圧されていた。もう勝ちだった。女は呆けた様子でカルピスソーダを、カランと揺らして飲んだ。そしてあとは上回生にいろいろ聞かれて、戸惑いながらそれに応対していた。途中から明確に眠気が回っていて、カクン、カクンと頭が揺れていた。
「眠い?」
「あー、いえ……何でも……」
「無理しなくていいよ、あんま慣れてないでしょ、菊ちゃんこういうところ」
「あー、そうかもしれないです……音の多いところ、あんまり来たことなくて」
「そうなんだね、ちょっと疲れちゃったのかも」
「そうかも、しれ、ないで、す……」
もうすっかりふらふらしていて、朦朧としているようだった。篠の卓を見ると、「ウェーブ」は酔って篠に寄りかかっていた。もう、いいころ合いだった。
残っていた1年生のうち、半分は酔うなどして足取りが怪しかった。帰れる? など声をかけつつ、持ち帰る女子に俺たちは寄り添って、いつでも自分たちの家へと導きいれられるように上回生を割り振り、新歓コンパを解散させた。俺は「ショート」と千葉から通う1年生女子、2年の川辺とになった。川辺は千葉と東京の境近くに住んでいたので、近くの駅でそのふたりと別れた。これで、あとは俺と「ショート」のふたりだけだ。「ショート」はもうひとりでは立てないくらいに薬が巡っていて、俺に何とかしがみついている状態だ。目がほとんど開いていない。ショートはジーンズと濃紺のブラウスに、薄手のパーカーを羽織っていた。飾りっ気はなかった。それに目つきはよくないが、その出で立ちからして見た目にあまり気を遣っていないのに、顔はよかった。きれい系かと思ったが、よく見たら可愛いよりかもしれない。
俺はほぼ眠る女をおぶった。うまく背中に乗り、抵抗する素振りもない。俺は信号の変わるのを待った。この道を越え、日本西に行った路地を入ってしばらく行ったところのアパートの2階が、俺の住む部屋である。
(2023.10.08)
四畳半掌編集 前田渉 @watarumaeda
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