七. 博士

 たった1年、たった1年だけしか通わなかったが、私は高校卒業後すぐ、日本でもっとも何かとされる大学に入学した。経済学部へと進むコースだった。その後そのコースの歓迎会で先輩か知らないがともかく男子学生の手で飲み物に睡眠薬を入れられて連れ帰られ、犯されそうになったことが二度あり、爾後私はなるべく男子から逃げるようにして1年をすごした。友達もおらず、その期間があまりにきつすぎたので私は中退して他の私大へと編入していった。

 だが所属していたサークルの先輩と、たったふたりで部室にいることはままあった。先輩は博士2年の男性で、1浪2留を経ていたので当時すでに29歳になっていた。すなわち私は10個も上の男と一緒に同じ部屋にいたわけだが、先輩は特に何かをするのでもなく、洋書と分厚い数冊の専門書を並べてずっと読んでいた。何を読んでいるのか気になってはいたが、さすがに歳が離れていたうえに、上京したての学部1年生にとっては、彼が自分とはまったく違う種類の人間に見えていた。

 毎週水曜の6限の時間に部室に行くと、彼はいつもそこに座っていて、入ってきた私をちらりと見て、座れよというように向かいの長椅子を顎で指し、すぐに本のなかへ戻っていった。

 先輩はイタリアの近代詩を専門にしていた。ちょうどイタリア統一期だったらしいが、その時期の詩人の名前を私はほとんど知らない。たまに先輩に尋ね説明してもらっても、3割も理解することはできなかった。

「君はどうなの」

 と先輩は私に訊いた。

「えっとー、どうなんですかね……専攻も、何にも決め手ないです」

「文2でしょ、経済行くんじゃないの」

「うーん、それはそうなんですが、やっぱりピンと来なくて」

「そう、見つかるといいね」

 会話があってもだいたいこんな感じだった。

 後期がはじまって私はこの大学を退学して他の大学へ編入しようと決めた。仕切り直したかった。それを心に決めて水曜日の6限に部室に行くと、やはり先輩がひとりで座っていた。いつものように私をちらっと見て、すぐに視線を本に戻した。私は肩から提げていた鞄を椅子の上に下ろして、文庫を1冊取りだして机の上に置いたが、なかなか開く気にはならなかった。そのまま私たちは30分以上黙っていた。外は雨だった。秋雨前線が列島上に滞留しており、これで3日連続だったのだ。

 私は唐突に

「大学辞めます、それで他大行きます」

 と言った。先輩は一瞬目線をあげて私を見たが、すぐに目を伏せ、

「そう」

 と一言だけ口にした。

「男の人に何度も連れ込まれたんですよ、薬飲まされて! しかも2週間のうちに立てつづけに。それから、誰ともご飯食べに行けなくなったし、いちいち警戒しながらキャンパスを歩きたくないんです。それならもう、別のところに移るのがいいです」

 先輩は本に目を落としていた。

「それに決めたらいいんじゃないか、えーと、君がそうするしかないってなったら」

「先輩、私の名前……」

「わかるよ、川崎愛子だろ」

「全然違います、何にも合ってないです、小林です、小林菊です」

「小林さん、勉強したいの、それともどうしたいの」

「まあ、特にないですけど、勉強は深めたいですね。とりあえずいちばん頭のいい大学に行っとけば、勉強したいものは見つけやすいかと思って」

「そう。じゃあ、腰を据えていたいのかな。不安はない方がいいからね。不安ばっかりだったら、とてもじゃないが何もできないからね」

 7時を回ったので、私たちは部室を出て、各々の家の方へと向かった。一緒に先輩と帰ったことはない。そんな素振りをちっとも見せてくれないので若干渋い気持ちはしていたのだが、中途半端に気を遣うなんてことはないので、却って安心できる気もしていた。

 2月上旬に部室に行き、久々の先輩にお目にかかった。編入試験の勉強で、夜の時間が潰れていたからだ。その日は長居するつもりもなく、家にあった本、それもあまり読者の多くなさそうな本を置きにきただけだった。先輩の後ろを失礼して置かせてもらうと、私は挨拶してさっさと出ていこうとした。

「ねえ」

 と先輩は言い、「まだ来るの」

「いや、たぶんもう来ないですね。引越しちゃうので」

「そう」

 珍しく先輩は天を仰いだ。

「いや、俺2回留年してるからね、将来があんまりに不安だったから。学部2年の後に1回と、学部4年の後にもう1回。親は就職留年だと思ってたらしいけど、俺は院試しか考えてなかったよ、学費はかけられないからここの院一本で。受かってよかったよ。ダンテに感動してたから、イタリア詩を選んだんだ」

 私は何も言わなかった。それだけ言うと先輩は改めて私の方を向いてこう言った。

「編入先でちゃんと見つかるといいね。小林さん、何か息苦しそうだから」

 会釈をして私は部室を去った。引越し屋の来る日までにすべき手続きを計算して、大学前の飲食店街を抜けていった。そして家の前まで来ると、街灯も少なくて真っ暗だ。ゴキブリのような影が走り去って驚いたが、そちらを振り返っても夜闇しかなく、まるで暗渠に放置された小型ボートのような気分になり、その深く暗い空間から、私は目が離せなくなっていた。


(2023.3)

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