六. 門出の祝い

 荷物をことごとく段ボールに詰め、四年ぶりくらいに床のフローリングが顔を出した。あれだけごちゃついていたのに、いざ片づけ(ぶち込み)始めると、一日で全部終わってしまったし、掃除機までかけることができた。しかも、足りるかと思って多めにもらった段ボールも1/3が余り、隅の方の壁に立てかけてある。なかに荷物が詰まった段ボールは全部で6箱だった。それが部屋の端っこに2×3の立体として省スペースで積まれている。私のこの部屋での4年間は、そこにすべてが収められた。

 1週間前に同期たちとの最後の旅行から帰ってきた。ともに法律を学び、協力して毎学期の試験を乗り越えてきた。全員うまいこと勤め先を見つけ、最後の半年はゆとりをもって遊んだり、勉強したり、はたまた4月から始まる新生活に希望をもったりしていた。私はこの地方に残って就職し、千晶は実家に戻り、知鶴と祐希は地元、つまりこの地域で就職する。ただ、知鶴は県庁所在地の出身だが祐希は県の東端の方の生まれで、同じ県だけれども別の地域という認識らしい。他所から来た私には、そのあたりの違いはよくわからなかった。

 明日の昼すぎに、引越し屋がやってくる。トラック一台で、新居にそのまま運んでくれるのだ。午前中には家族が来て作業を手伝ってくれる。この部屋でひとりでいられるのは、今日が最後だった。だが千晶はもう家を引き払って帰ってしまったし、祐希も転居を控えて手続きに忙殺され、知鶴は彼氏と温泉旅行。都合がつかず、3日前に祐希と会った以外、いちども他人と遊ばなかった。もったいない気もするし、こんなもんかという気もしている。だいいち、卒業式も出席しない人がちらほらいたし、門出とか人生のターニングポイントなんてものは、あんがいそよ風みたいにさらりと過ぎさって、大した感慨はもたらさないのかもしれない。あと二日しかないというのに、昨夜飲んだのがいちばん安いチューハイだったのもそのせいだろう。もうここで酒を飲む機会はないし、食事もしはしないのだった。どうせ明日の朝はマクドナルドだ。

 11時すぎに着くよ、という連絡がスマホに届いていた。もう9時を回っていた。幸いしつこい眠気は吹き飛んでいたから、迅速に布団から起きあがって着がえ、マクドナルドに行ってチーズバーガーセットを購入しひとりで食べた。そして予定通りに家族がやってきて12時ころに昼食を一緒に食べた。店を出て部屋に戻った直後に引越し屋がやってきて、すばやく段ボール箱等をトラックに載せ、新居へと向かって行った。その間私たちはすることがなく、せわしなく働く引越し社社員の様子を眺めていたのだった。トラックが去ってしまうと、家族が最後に掃除するよと言いだした。いいよ、私がやるからと言うと、父は、

「いいから。休んどきんさい。もう最後なんやさかい、散歩でもしときんさい」

 それに従って表に出たが、ここ数日暇すぎて、この周辺は散々歩き回っていた。部屋の扉の前で佇んでどうしようか悩んでいると、女がビニール袋を左腕に提げて階段を上がってきた。数回、見た気がするぞ。思いだそうと私はしていた。だがその間ずっと女をじっと見つめていたようで、向こうもこちらから目を離せないでいた。いちどはそのまま部屋に入ろうとしたが、

「あの、何か……」

 と聞き返してきた。まさか向こうから声をかけられるとは思っていなくて、不意に

「はえ?」

 と間抜けな声が出てしまった。「何が?」

「いえ、ずっと目が合っていたので、何かおありかなと思って」

「いや、何もないです。ただちょっと……」

 口ごもるようだが、別に何も用はないのだ。ただそのまま打ち切るのも変なように思われて黙っていた。

「引越しですか」

 女が訊ねた。

「何でですか」

「いや、私さっき起きて買い物しに行ったんですけど、表に引越しのトラックが停まってたので、もしかしてそうかなあと思ったので」

 いつの間にか女はこちらに正対していた。立ち話モードに入ってるようだ。

「そうです、今日ここを離れて、永矢の北の方に行くんです」

「就職ですか」

「ええ、永矢市内に。インターンからの早期で決まったので、余裕をもって終われました」

「長続きするといいですね」

 女はそう言って左手のビニールから何かを取りだして私の前に差しだした。オロナミンCだ。

「どうぞ。つまらないものですけど、もらってください」

「いいんですか」

「はい、せっかくなので。就職祝いです」

「じゃあありがたく」

 じゃあ失礼します、と言って女は部屋のなかに消えていった。扉の向こうからかすかに音が聞こえる。たぶん、靴を脱いでいるんだ。

 手のなかのオロナミンCは冷たかった。だがこれは、ガラス瓶自体の冷たさだろう。蓋を取ってグッと一気に飲んだ。炭酸がチクチクしてなかなか難儀したが、それはそれとてオロナミンCはうまかった。飲みきって瓶を口から離したちょうどそのタイミングで女がまた出てきた。

「飲んだら瓶、ドアの前に置いといてください」

 捨てときますから、と女は言った。私はすでに空になった瓶を一瞬見つめ、最後に残ったわずかな液体をあおった。

「これ、お願いできますか」

「はい、もらいます」

 瓶を手渡すと、女はすぐに部屋に引っこんだ。表ではすばらしい快晴が清々しい光を地表に落としていた。廊下は陰になって薄暗かったが、ひんやりして心地いい。風が吹いてきた。あくびがひとつ口からこぼれた。ずっとこんな感じの温度感ならうれしいのにな、と壁にもたれながら呆けた頭で、初春の日なたを感じていた。


(2023.02.13)

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