四. もどり道
2限が始まって10分後、菊が教室に入ってきた。颯爽と解放されてきた出入口から歩調を緩めずに教卓前の机に行きレジュメをきちんと取った。そのまま私の座る席の隣にまっすぐ来て鞄をおき、クリアファイルと筆記用具を取りだした。先生はその間、入ってきた菊を一瞥はしたものの、速やかにレジュメを取りにきたのを確認すると、また視線をスクリーンに戻してそのまま滞りなく講義を継続した。
「寝坊?」
「うんにゃ、シャワー浴びてた。そんで洗濯物干してたら遅れた」
「そう」
スクリーンには重そうな哲学書の書影と解説の文字が映しだされていた。『アンチ・オイディプス』とのことだが私はオイディプス王のことはまるで知らなかった。エディプス・コンプレックスのもとだとか、その程度だ。何言ってんだかわっかんないなー……頬杖をついてスクリーンを眺めていた。菊は余裕そうな顔でときおりレジュメにメモを取っていた。もしかしたら、すでにこの子は知っているのかもしれない。
「菊、今日の話もう知ってた? あの、えーと、ドゥルーズ? のこと」
彼女はストローから口を離して、
「いや、そんなに? というか『アンチ・オイディプス』と『ザッハー・マゾッホ紹介』しか知らないよ。内容も知らんし」
「そんだけ知ってりゃいいでしょ。ドゥルーズの名前しかもう私憶えてないよ」
ひたすら本を読んでいるのがこの小林菊という女だった。他の演習で知りあって、何となく気があい、しかも住んでいるアパートが同じだったので仲よくしている。まだ3ヶ月程度だが、週に1度か2度会って話すうちに、この人は相当本を読んでいるんだ、そうとう頭がいいらしいな、というのがわかってきた。何かを話題に出すたびに、私は自分の浅さを感じていやになるのだった。
そのまま学食に行った。私はヒレカツ丼を、菊はサバ味噌定食を食べた。特記すべきようなことは何も話さなかった。強いて言えば、菊が大江健三郎を読んでふざけんな、と思った箇所がある、ということくらいだった。全然知らない作品だったけれど、あまりに想定外だったからうっかり吹きだしてしまった。
「あ、これで吹くの。キャラちゃうやんw」
「ちょ、ちが……菊の口からその単語が出るとは思わんじゃん!」
このあとも笑いながら何か話していた気がする。菊が始めたDTMの話だっただろうか、それともお勧めのファンデーションの話だっただろうか?
私は5限で、菊はもう授業がなかったので、いったんお互いの部屋に帰ることにした。私たちの住むアパートは大学から歩いてわずか2分のところにあった。
菊は時間が空くからと酒を飲まそうとしてきたが断った。ちぇー、じゃあ夜飲もうねー、といいながら彼女はコンビニの陳列棚から酒類をほいほいカゴに放りこんでいった。ビール、ハイボール、チューハイ、ストロングゼロとバラバラに。
「何がいい?」
と菊は私に尋ねた。
「ほろよい」
と私は答えた。
アパートまで私たちは黙って歩いた。菊は私よりもわずかに背が低かった。何だか変な感じだ。いくらか菊の方が年上のような気がしていたし、体形や顔的に小柄な雰囲気がなかったからだ。風が吹くと、ウルフカットの彼女の髪が靡いた。遊覧船か何かで、風に吹かれる彼女を見てみたいな、と思った。
「じゃ、夜家に来なよ。酒飲むよお酒~青春みたいでいいね」
と菊はわざわざ缶を両手にもち、ピースをしながら(マスク越しだけれど)すてきな笑顔をつくった。小さな声でピースピース、と言っている。
「ちゃんと行くから大丈夫だって。20歳、青春だね、青春」
「ああー何か素っ気ないじゃん、そんなに彼氏がいいか~」
「うるさいよ、バカ!」
私は微笑んで家に入った。菊はあとでねー、と目を細めて手を振っていた。扉の向うに彼女が消えるまで、ずっと笑顔で手を振っていた。
菊は終わるタイミングを計れないのだ。
(2022.12.6)
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