二. 嗜好品

 ベランダで私は夜風にあたりながらいつもアサヒビールを飲んでいて、しかも6月末の湿度の高さがいやな感じでまとわりついてくる時期で、ビールの冷涼感がとても快かったのだ。だから飲みきったあとも、手に体積のわりに軽い空き缶をもち、街灯の明かりしかない暗い駐車場や路上を眺めていたのだった。

 翌日の午後には達宏と会えるはずだった。先々週に彼は腹膜炎の手術を受けていた。それが4日前に退院して、久しぶりのデートを明日する。前々から一緒に行きたいと思っていたカフェに彼を引き連れていくのだ。だから非常に上機嫌で、もう1本開けてさらなる祝杯を、と思った。

 新しい缶とミミガーをもってベランダに戻った 。明日あったらどうしようか、いつも以上に引っついて見ようか、などと浮かれていたところに、タールの臭いが流れてきた。その方に顔を向けると、衝立の向うで白い煙が噴きだされた。隣の部屋の住人が、煙草を吸っているのだ。

 いい気分はしなかった。父親も、祖父も、達宏も煙草は吸わないし、自分も吸いたいとは思わない。正月に親戚で集まったとき、ヘビースモーカーの父方の叔父にこびりついた臭いがどうしてもいやだった。気を遣って直接は言わなかったが、避けていたのは伝わっていたようで、どうした花鈴ちゃん、おじさんのことイヤか、ん? としばしば笑いながら叔父は言っていた。磊落な叔父だった。でも煙草の煙は嫌いだ。

 衝立越しに煙草の主を睨みつけていると、唐突に、向うのベランダから何かが飛んだ。白い、小さな欠片のようなものだった。何かと思ってベランダの下を覗きこんだが、何も見えない。私がベランダから身を乗りだしたと同時に、隣室の扉が開けられ、また閉まる音が聞こえた。たぶん隣人が煙草を吸い終わって投棄したんだ、と確信した。私は一度も隣人を見たことがなかったが、これだけで、きっと隣に住んでいるは、粗野で独善的な男なんだろうと考えた。残っていた2/5程度のアサヒビールを一気飲みして、さっさと部屋に戻った。上機嫌を損なわれて、隣室のに対するフラストレーションは大きかった。でも今日はいつもと違うんだ。明日達宏と会えるんだから。そこで話を聴いてもらおう。そしてこのことを忘れて遊ぶんだ。



 約束の11時半に間にあうように支度をして部屋を出て、ドアに鍵をかけた。しっかり閉まっているのを指さし確認したと同時に、隣室のドアが開いた。昨日、煙草をポイ捨てしたの部屋だ。すぐさま、昨夜のいら立ちが首をもたげてきた。文句を言う気はないが、ちょっと冷淡にしてやろう。扉が閉まらないと階段に行けないから一歩下がった。扉が閉められた。初めて隣人の姿を見る。どんなやつ……

「あ、おはようございます……」

「あ、おはようござい……」

 出てきたのは男ではなかった。それも粗野な雰囲気は欠片もない、むしろ真面目そうで腰の低そうな、若い女だ。ウルフカットで、深い紺のポロシャツを着ている。マスクをしていて素顔はわからないが、だいぶ美人な印象だ。

「すみません、失礼します」

 と言って私は彼女の後ろを通り、階段を降りた。そのときも、彼女は扉の方に身体を寄せ、広くスペースを空けてくれた。私は、あの女が煙草をベランダから捨てたとは思えなかった。



 翌日午前に帰ると、また女と鉢合わせたので、

「ひとり暮らしですか」

 と尋ねてみた。女は段ボール箱を抱えていた。

 ほぇ、と女は意外そうな顔をして、

「はい、ひとり暮らしですが、それが何か……」

 と心底不思議そうな顔をした。きっと警戒心が薄いんだなこの女は、と思った。うっかり男に騙されていそうだ。

「いえ、別に」

 女は会釈をして去っていったが、彼女の抱えていた段ボール箱に、大量の酒類の空き缶や空き瓶が入っていることを私は見逃さなかった。彼女の印象と、酒、煙草がうまく結びつかない。モヤッとした気持ちが芽生えたが、どうせ今後交流をもつこともないんだ、と割りきって追い払った。

 そして実際たまのすれ違い以外は顔を合わすことはなく、私は大学を卒業してこのアパートから引っ越した。


(2022.12.3)

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