第28話 老猫と気まぐれなウサギは音もなく行く
デートは楽しかったけど緊張も多かったのか、その日の夜はぐっすりと眠ってしまった。目覚ましアラームのセットも忘れていたくらいだった。それでも習慣というのは意外と頼りになるもので、いつものように朝の7時には誰かから電源が入れられたようにしっかりと目が覚めた。
今朝の食事当番は自分がやる、と輝に約束した。少し遅れたけど何とか約束は守れそうだ。部屋着にしている高校時代のジャージに着替えて、部屋を出る。ダイニングキッチンは静かで、輝もまだ起きてきていないようだった。
「昨日は結構はしゃいでたからな」
美空先輩と久しぶりに会って楽しかったらしい輝は、先輩が帰ってからもずっとその話をしていた。基本的に部屋から出たがらないし、俺以外の人間と話すことは少ない輝にとってはいいリフレッシュになったはずだ。別に輝は授業に出なきゃいけないわけじゃない。ゆっくり眠らせてやろう。
冷蔵庫を開ける。最近は輝に料理をしてもらうことが多いと言っても自分の家の冷蔵庫の中身はよくわかっている。卵も牛乳もあるしフレンチトーストなんかどうだろうか。
そう思って中を見ると、昨日なかったはずのものがいくつか入っていた。
ガラスボウルに入ったサラダ。下処理の済んだ豚肉。あとは味噌を入れるだけで完成する片手鍋。
「なんだ、もう今日の夜の準備してるのか」
最初はずっとゲームばかりしていると思っていたけど、家事の手伝いを始めてからは一人暮らしを始めたばかりの俺より手際もいいし、細かいところまで丁寧だ。中学生くらいにしか見えないのに、昔からやってたんだろうか。
卵液をつけた食パンをフライパンで焼いていると砂糖が焦げる香りが漂ってくる。朝からこんな風に朝食の香りで目が覚めるのが普通になっていたけど、普通は一人暮らしでこんなことなんてないんだろうな、と思う。
8時になっても輝は起きてこない。そんなに疲れているのか、とすっかり輝の部屋と化した趣味部屋のドアを開けてみる。
「輝、朝ごはん作ったんだけど食べないのか?」
中を覗く。ホームセンターで買ったまだ新しい布団は輝を包むことなく、部屋の隅に畳んで置かれている。部屋には輝の姿も荷物もない。数か月時間が巻き戻ったみたいに、そこにいることが当然になっている存在が消えてなくなっていた。
「輝?」
誰もいない部屋に問いかける。言ってはみたものの状況はわかっていた。
「やっぱり気付いてたのか」
心配していたことが現実になってしまった。美空先輩と付き合っていることを知ったら、輝はいなくなってしまう気がする。あいつはそういう気遣いだけは妙に気にするから。
急いで玄関に向かってドアを開けてみるけど、当然そこに輝の姿はない。温泉に行ったときも逃げ足は抜群だった。あの時は脱兎のごとくという言葉が似合うとは思っていたけど、隠れて逃げるのもうまいものだ。そんな風に冗談が出てくるほど鮮やかな消え方だった。昨日あんなに話していたのに、そんな素振りなんて少しも見せることはなかったのに。
「行く当てなんてあるのか? いや、わからないけど」
輝のことを探ろうとしていたはずだったのに、気付けば意図的に輝の秘密を知らないようにしていた。輝が出ていかないようにそうしていたはずなのに、そのせいでいなくなった輝を追いかける手がかりを一つも持っていない。
「俺と美空先輩以外に知ってるやつがいるとは思えないし」
室内飼いのウサギとは違う。俺が大学に行っている間、輝が部屋から出てどこにも行っていないとは限らない。何も知らないことが二人の生活を続ける条件だと思っていたけど、一度終わってしまうと途端にそうしてきたことを後悔したくなる。
「とりあえず、美空先輩のところに行ったりしてないよな?」
電話をかけてみる。朝にもかかわらず、2コール目を待たずに美空先輩は電話に出た。
「どうしたの? 私ったら忘れ物でもしてたかな?」
「いえ、その、輝がそっちに行ってたりしませんよね?」
「んー? 来てないよぉ。輝ちゃんって私の家がどこにあるのかも知らないんじゃないかな?」
「そうか、そういえばそうですよね。すみませんでした」
「よくわからないけど、これから部室に行くから。こーくんは朝ごはんしっかり食べてから来てね」
美空先輩は何かを察したように優しく言うと、俺の答えも聞かずに電話が切れた。
何か知ってることがあるんだろうか。
俺は慌てて着替えを済ませて部屋を出ようとしたけど、実家に住んでいる美空先輩ならまだ時間がかかると思い直して、作ったばかりのフレンチトーストを皿に乗せた。しっかり食べろ、というのは俺の焦った声を聞いて気持ちを落ち着けてこい、ってことなんだろう。
焼いた3枚のうち、2枚を自分用に、もう1枚を少し考えた後に別の皿に乗せてラップをかけて冷蔵庫にしまった。輝が戻ってくるかはわからないけど、その可能性を自分から消したくない気がした。
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