第16話

 降ろしてもらった俺は、ゆっくりと手を動かして、背を触った。

 もう、ドロッとした感触はなく、手のひらを見ても赤くはなっていなかった。

 地面に手をついて起き上がる。やっぱり腰には鈍い痛みを感じたけど、刺された直後みたいに体に力が入らないということはなかった。

 そして、真桜まうが逃げていてくれた間に、頭も普通に回るようになり、ある程度は、現状を飲み込むことが出来ていた。

 真桜まうは、天を仰いで目を閉じ、頭の上に腕を乗せて肩を上下させている。

 頭を下げて屋上の縁に近寄り、地上を見ると、肉眼で見えるか見えないかくらい遠くの道が、黒い何かで覆われていて、それがこちらに向かって流れてきているのが見えた。

 迫ってくる人たちと真桜まうを見比べて、一度、うなずいてから、俺は口を開いた。

「いいんだ。ここまでで、いい」

 つぶっていた目を開けて、真桜まうはこちらに顔を向ける。

 息を吸って、吐いてから、真桜まうの目を見て、また、口を開く。

「両親が死んで、9年、ずっと、自分でご飯を作ってきた。家ではいつも1人だったし、それが普通になってた」

 唇を噛んで、まぶたが震えるのをこらえる。

「ご飯を作ってくれた。一緒にテレビを見た。ゲームもした。風呂も交互で入ったし、掃除も分担してやった。家に帰ると、真桜まうがいた。もう長い間、ずっと忘れていた生活だった」

 たった1週間、でも、人生で最も鮮やかな1週間。

「人が自分のために作ってくれた出来立てのご飯が、どれだけ美味しいかなんてずっと忘れてた。1人じゃない家の中がどれだけあったかいものなのかなんて知らなかった。なのに、真桜まうと過ごした日々は、なぜだか、ずっと、そうしてきたような安心感があった」

 なぜだろうと思っていた。でも、死にそうになってようやくわかった。

「たぶん心の奥底で、そういう生活を望んでたんだと思う。昔、まだ、両親が生きていたころの。普通に誰かと一緒に生活する当たり前の日常を……」

 もうずっと前に失くしてしまっていた幸せ。それを、真桜まうは俺に思い出させてくれた。

「たった1週間でも、俺は十分、真桜まうのおかげで幸せだった」

 屋上の縁を背に、真桜まうに向き直る。

「たぶん順番が来たんだ。両親が死んで、それを背負って生きて、友人を作って、でも、もう彼らはいない……」

 未来は、誰にも分らない。運動会に邪神が来たり、助けた少女が邪神で、告白したら友人が殺されたり。でも、もしもを考えれば、そうならなかった未来もある。でも、現実は、真桜まうと2人、追いかけられ、後ろから追手は迫り、真桜まうは満身創痍だ。

 過去は変えられない。どれだけの悲劇だろうと、それを背負って生きていくしかない。だからこそ、人はより良い選択をしようと苦しむのだろう。

 両親も、深玖しんくも、洋子も、助けられなかった。でも、今は違う。追いつかれて、2人とも死ぬくらいなら、

「ありがとう、真桜まう。君は生きて幸せになってくれ」

 そう言って、俺は屋上から身を投げた。

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