第三章 ある若い殺し屋の肖像

第1話 殺し屋の独白、ある平凡な家族

 ある日、サンがナイツの家に向かうため細い路地に入った。


 そのとき、日陰に潜んでいた人物が現れた。

 その人物の格好を見ればサンを待ち伏せしていたと分かるのだが、サンの目には急に出現したように映っている。

 大人が一人通れるほどの小道の壁面に背中を壁に預け、片足をもう一方の壁に当ててサンを通せんぼしているのは美貌の女性だ。長い巻き毛の金髪を持ち、焦げ茶色の瞳はサンに向けられていた。


「……何ですか?」


 相手に先んじて問いかけたのは、サンの気の強さがなせることだ。非礼な人物に対してその声音が圭角を増していた。


「おっかない顔をするね」


 その女性、ジアはサンの鋭角的な態度を冷笑で受け流すと、いきなりサンに詰め寄った。


「へえ。あんたがサンねえ」


 ジアはサンの身体を爪先から頭頂まで舐めるように見渡した。


「ほう。なるほど」


 最近成長してきて膨らんできた胸にジアの目線が止まり、サンは慌てて両手で胸部を覆った。その動作を目にしてジアが身を引く。


「何のつもりですか」

「別に悪気はないよ」


 その不誠実な答えに気を悪くしたサンが目を細める。サンの瞳に底知れない光が宿り、ジアを真っ向から見据えた。

 だが、数瞬後に狼狽えたのはサンだった。総身を竦ませて如実に怯えるサンを見やり、ジアは余裕を持って頷く。


「ふん。そういう〈叡智〉なわけね。それで、私のことは見えなかったの。いいさ。そういうものだからね」


 ジアが語りかけても、サンは恐怖に染まった双眸を見開くだけで答えようとしない。


「その様子だと、見えなかったのは私が初めてか。それじゃあ、ナイツのこと、あんたは知っているんだろう?」

「あ、私は……」

「言わなくてもいいよ。それよりも、あんたはナイツのことを知っていて、自分のことは黙っているんだね。ま、好きにしな」


 立ち尽くすままのサンと擦れ違いざまに、ジアが最後の一言を放った。


「私はジアという名前よ。ナイツに聞けば、教えてくれるはず。だけれど、そのときはあんたも自分のことを話さなければならなくなるね」


 荒い息を吐いていたサンが背後を振り返る。そこにあったのは、日に照らされた温和な昼の光景で、ジアの姿は幻のように消えていた。






 何だ。サン、また来たのですか?

 昼から酒を飲んでいるといっても、自分は休日ですから。それに、仕事も終わったばかりですし。いや、仕事というのは気にしないでください。とりあえず、座って。


 いつものマンネロウ茶でいいですか?

 あ、それは自分の飲みかけの酒ですから、触らないでください。

 ……昼でも夜でも酒なんて飲めば同じだと思いますが。分かりました。自分もお茶にしておきましょうか。


 ところで、何の用で訪ねてきたのです。

 別に用はない、ですか? 暇潰しに来られても困りますが。ああ、責めているわけではないですから。

 まったく、このようなつまらない場所に来るなんて、物好きな。図書館にでも行った方が勉強になると思いますけれど。ま、サンに勤勉を要求するのも無理でしょうね。


 まあ、お茶が入りました、どうぞ。

 え、いつもより自分が多弁だと? そうですか。酔っているからかもしれません。

 本当は、こんなときは一人で酒を飲んでいたいのですが、仕方がないですね。これを酔い覚ましにしますか。


 ふう。

 は? 暇つぶしの面白い話なんてないですよ。すいません。

 それじゃあ、ユリ・イケナミの作風について……、それは嫌なんですか。参りますね。

 他には自分が話せるようなことなんてありません。


 自分の過去が聞きたい?

 あまり話したくないですね。面白くもありませんし。

 ですが、自分のことを知っている人なんて先生以外にはいなくて、何だか寂しいですね。自分が殺し屋であることを知っているのは、サンの他にはほとんどいませんよ。

 こんな自分の過去でも、無聊を慰めるに足りるでしょうか。

 そうですね。ちょっと昔話でもしてみます。

 このようなこと、酒でも飲んでいなければ語れませんね。






 自分は、〈天道社〉という企業の社長の息子でした。

 ご存知のようですね。本社がこの街にあって、それなりに大きな会社です。その社長の令息といえば、自慢になるでしょうか。もちろん、過去のことですが。


 家族は両親と妹がいました。大昔のことのようで、顔はあんまり覚えていないですね。ほんの数年前のことなのに。

 父は小太りでした。眼鏡をかけた優しい感じの人です。どうも、企業の社長というには風格が足りないのではないかと、今にして思います。

 そのような穏やかな人でしたから、怒られた記憶はないです。そのせいで、自分が十代後半のときは父を侮っていた気がします。


 運動が得意でもないのに、父親だけでなく自分もですが、なぜか二人で蹴球サッカーをするのが休みの日課でした。遊具もなくて広いだけの公園でね。

 いつも公園の中央は子ども達が陣取っているので、端っこで球を交互に蹴り合うんですよ。何が楽しかったんだか。


「……、学校は楽しいか?」


 そのとき父は自分の名前を呼んだはずですが、その名前は失念してしまいました。


「成績が少し上がったな。偉いじゃないか」


「お前は俺の次の社長になるからな。勉強だけじゃなくて身体も鍛えておかんと。大学を卒業して、まずは俺の秘書になってもうおうか」


「おい、昨夜行った店は取引先が用意したからで、俺が好きで行ったんじゃないと、お前からも母さんに説明してくれよ。……え? お前も大人になったら分かる」


 こんなことばかり言いながら球を蹴って、夕食の頃合いになったら帰ってね。

 その公園も潰されて、もう公団住宅になってしまいました。


 父親が柔和なぶん、母親は気の強い人だったと思います。ちゃんと人前では父を立てて礼節を守っていましたよ。でも、家では厳しかった。

 自分は朝が弱くて寝台から起き上がらずにいると、よく母に叩き起こされました。


「ほら、いつまで寝てるの! 早く起きなさい!」

「うるせえな……! ババア……!」

「あんた、親に向かってよくも言ったね!」


 こんなことがよくありまして。

 え? 自分の喋り方ですか?

 まあ、若かったですから。こんなものですよ。


 妹は、まさに母を若返らせたような奴で。自分より二歳年下だったのですが、生意気でしたね。自分は父に、妹は母に似たようでした。


 そういえば小さい頃に小鳥を飼っていて、それが死んだときが印象的でした。

 金糸雀カナリアというのでしたか。黄色い小鳥で綺麗な声で鳴くやつです。黄色い羽のなかに交ざった一条の刷いたような緑色が鮮やかでした。

 自分はあまり関心がなかったのですが、妹は可愛がっていました。自分が十歳、妹が八歳の頃にその小鳥が死んでしまって。妹は悲しみました。


「ああ、死んだのか。そんなに泣くなら、新しいのを買ってやるぞ」

「あなたッ!」


 不用意な発言をした父が、母に怒鳴られて身を縮めました。父は酷薄な人ではありませんでしたが、こういう問題には鈍い感性の持ち主でした。


「悲しいわよね。あんなに可愛がっていたんだから」

「お母さん、何でこの子は死んじゃったの」

「みんな生きている限り死は避けられないのよ。でも、この子はあなたに愛情を注がれて幸せだったはずだわ」


 泣きながら縋りつく妹を抱いて、母はその背中を撫でてやっていました。

 どうも男にはできることはなくて、父と自分が所在なく立っていると、母に目線で追い払われました。それで、いつもの公園に二人で向かったのです。


「父さん、あの言い方はまずかったんじゃないの」

「そうかな。謝った方がいいか?」

「うん。どっちにしろ、母さんが怒ってるよ」

「じゃあ、時間を潰して帰ったら謝るかな」


 少しして帰宅したら、妹は普段通りの生意気な奴に戻っていました。妹が泣いたところを見たのは、あのときだけだったでしょうか。


 いやあ、一八年間も一緒に暮らした家族のことなのに、記憶が曖昧ですね。それから数年の出来事が衝撃的だったからかもしれません。

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