第五話 思い上がりの遠吠え

思い上がりの遠吠え-1

 丘の上には大きなオボーがあって、色とりどりの布が風に翻っていた。眼下の草原には、数百頭はくだらないだろう、羊の群れがゆっくりと動き回っている。遮る物のない草原にぎらぎらした夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、羊たちもどこかくたびれた様子に見えた。

 その奥に並んで見える、いくつもの大きな幕屋とたくさんの働く人々を見て、アトリは既に、ここに来たことを後悔し始めていた。人も家畜も、多すぎる。

「親父の前では、その頭を隠してもらっていいか。その方が、話が通りやすいと思う」

「ん、ああ……」

 遊牧民の青年の言葉に頷いて、アトリは後ろに積んだ荷物からターバンを出した。少し懐かしいような気さえする。前に座るリコにコゲの手綱を預けて頭に巻き始めると、リコは金の瞳を少し心配そうに曇らせてアトリを見上げた。その顔に、似た表情で別れたイリスの顔が重なって、アトリはなんとも言えない気分になった。

 頭の中では、隊商の宿営地での出来事と、イリスの言葉がぐるぐる回っていた。


 ◇


 アトリが普段よりだいぶ遅くに起きて天幕から出ると、にこやかに笑い合うリコとイリスの姿があった。

 アトリの記憶が確かなら、この二人は昨日初めて出会い、眠る前まではもう少しお互いに距離を取っていたはずだ。いつの間に仲良くなったのか、と思ったが、アトリが寝ている間しかあり得ない。まあ、仲良くなったのなら細かいことはいいか、と思ってリコの隣に腰掛けると、リコは仔犬のようにアトリに身体をすり寄せた。うれしそうな顔に、つい頬が緩む。

「あげパンもらったよ、アトリ」

「そうか、よかったな」

「アトリの分はないわよ」

「あるもん食うから、いいよ」

 お茶も飲んじゃった、とイリスが言うので、アトリは自分の荷物から革袋を引っ張り出して借りた器に馬乳酒を注いだ。白い液体が細かく発泡している。そろそろ飲みきったほうが良さそうだ。飲むか、とイリスに目で問うと頷くので彼女の器にも注いでやると、イリスは自分が食べていた保存食のパンを割ってアトリに分けてくれた。もうすっかり堅くなっていたが、噛んでいる内に甘みが出てきた。

 イリスも今日は行商に出かけるのはやめたと言う。目的のない三人はぼんやり夏の朝を過ごし、アトリは久しぶりに、コゲをゆっくり休ませ砂が絡んだたてがみを梳き、何も積まずに走らせてやった。濃い茶色の馬体は夏の青々とした草原によく似合う。コゲがイリスの天幕近くまで戻ってきたとき、馬を引いた男が声をかけてきた。

「おうい、ちょっといいかい」

 よく見ればそれは、昨日の夕食でも見かけた遊牧民の青年だった。放牧中にはぐれた馬を探していると話していたが、彼の後ろには二頭の馬が見えた。

「見つかったのか、馬」

「ああ。自分からここまで戻ってきてくれた」

「賢い馬だ」

 何百頭にもなる家畜を遊牧民は全て正確に管理している。それがそのまま財産なのだから当然だが、生きて動く財産は時に群れからはぐれてしまう。はぐれた家畜を探しに追うのは、だいたい一族の中でも一番若い男の役目だった。家畜が見つかるまで何日もさまようこともある過酷な役目だ。彼もまだ十代のような若々しさで、少し旅疲れて見えたがそれ以上に嬉しそうなのは馬が見つかったからに他ならない。

「あんた、星読みだと言ったよな」

 青年の言葉に、ぎょっとしてアトリは少し後ずさった。期待を込めた視線を向けられ、昨晩のことを思い出す。確か彼は、家畜を肥やす水も牧草も足りない、と嘆いていた。

「……星読みなのは、おれの義兄だ」

「それじゃ、あんたは詳しくないのかい」

「……………………少しは」

 まっすぐな目に嘘をつけず、アトリは小声で答える。そうか、とまた嬉しそうに破顔した青年の大声に、天幕で荷物の整理をしていたらしいイリスとリコが出てくるのが見えた。

「それなら、どうかおれたちの家まで来て、水場や牧草地について、星を読んでくれないか。本当に、困ってるんだ」

 そう頼まれることは予測できたが、アトリだってそんなことを言われても困る。自分の手には負えない問題だと思った。

「……たとえちゃんとした星読みでも、水のありかをはっきりと示せるわけじゃない。星の動きから天候の流れを読んで、水の流れを予測するくらいしかできないし、おれはこの辺りの土地に詳しくないから、それも不正確だ」

「それでもいいんだ、頼むよ」

 わらにもすがる思いなのだろう。切羽詰まった状況に追い込まれている彼らの助けになってやりたいという気持ちはもちろんあったし、それほど厳しい状況の中、力不足の自分にどれだけのことができるのか、という不安もあった。アトリが黙って考えていると、青年の向こうからイリスが目立たぬように合図してきた。

「やめといた方がいいと思う」

 こっそり耳打ちされて、アトリは少しおどろく。

「知ってるのか? あの家」

「私も行商に行ってるところよ。西側諸国に近くて、土地も痩せてて……その中で一番大きな一族よ」

 分かるでしょう、と言外に込められた意味を正確にくみ取って、アトリはまた考え込んだ。

 厳しい土地の者ほど肩を寄せ合い力を合わせて暮らしている。そうしないと生きていけないのだ。だからこそよそ者に排他的になるし、西側に近いともなればアトリの金髪をどう評するか想像に難くない。大きな一族の長は頭が固いと相場が決まっている。

 やめておくべきなのかもしれなかった。実情を知るイリスが言うのだから、助言はありがたく受け取るべきだ。けれどどういうわけか、アトリはその気になれなかった。

「……でも本当に困ってるなら、放っておけないだろ」

「正気? できるの?」

 アトリの全てを見透かしているような言い方だった。アトリは既に金の頭を人目にさらして生きていくことに決めたのに、いまだに出会ったころのような見方をする彼女に、反発心がわく。

「カームにも頼まれてるんだ」

「まあ……それなら仕方ないけど」

 本当はカームに頼まれたのは水枯れや家畜の生育不良、食料の備えについてふれ回ることであり、夏が到来した時点でそれももう終わった話だ。だれかこの土地に詳しい星読みがいればまずそちらを探して当たるべきだったが、この辺りに知り合いはいないし、遊牧民の青年がアトリを頼るというのなら、彼らにも当てはないのだろう。

 アトリは、星読みとしては落ちこぼれを自称している。その土地でずっと星を観測して些細な変化を読み取ったり、それが何を予兆しているのか検討するのも、果てはその変化を人と人との関係を占うように使うのも苦手だった。けれど赤子で拾われてから里を出るまでの十数年、あの里で育ったのも事実だ。里の人々へ愛着があるように、ずっと学んできた己の生業にも離れがたさと自負があった。

「頼まれてくれるのか、ありがたい」

 青年はオトと名乗った。明日の早朝に発つという約束をして、彼は自分の天幕へ戻っていく。その背中を見送りながら、アトリは既に、簡単に答えてしまったことを悔やみ始めていた。

「リコはどうするの?」

「連れて行くよ。なりは隠さないといけないが」

「……私が預かろうか?」


 その言葉におどろいてアトリはまじまじイリスを見下ろし、次にリコを見た。天幕からひょっこり顔だけ出しているのは、おそらく尻尾を隠していないからだろう。わきまえた様子に、ふと、おれは里にいた頃よりリコを安心させられているのだろうか、という疑問が浮かぶ。疑問と同時に出た答えは否だった。

 養母に頼まれ、他に行くところがないのなら仕方ないと連れてきた。リコと一緒に戻ってこいとカームに言われ、姿を偽らず無力で臆病な自分のまま生きていたいと思い断った。リコは笑ってついてきたが、もっとうまいやり方が、リコにとってよい場所があるのではないだろうか。

 狼の遠吠えに耳をそばだて、静かに声を聞くように目を閉じるリコの横顔を思い出す。育った里を出るときも、リコは、いつか出て行くと思っていたからさみしくはない、と言った。


「……いいよ。助かるけど、おれの方が慣れてるから」

 そう、とイリスはすぐに引き下がった。彼女にも彼女の商売がある。今日出遅れた分は明日以降動くはずだった。

「私も明日は別のところへ行かなきゃならないけど、終わったらそっちへ向かうわ。アトリが集中するなら、リコを見る目は多い方がいいでしょ?」

 ありがたい申し出だったので、アトリも今度は素直にうなずいた。

「助かる。ありがとう」

「私も、もともと行く予定だったからね」

 イリスは笑って答える。アトリは天幕の入り口にしゃがんで、リコと視線を合わせた。

「リコ、急だけど明日から出かけることになった。遊牧民のところに、星を見に行く」

「……ここには、もう戻らないの?」

 残念そうな口ぶりに、アトリはすぐに答えられなかった。アトリの背中を小突きながら、イリスが明るい声を出した。

「いいよ、戻っておいで。それに、私もあとから追いかけるよ」

「ほんとう?」

「本当」

 それならいいよ、とリコは笑う。ますます、自分の選択が全て間違っているような気もしたが、あとにも引けない。

 数日分の旅の備えをして、その日は早く休むことにした。相変わらず夏の草原は夜が短い。いつまでたっても明るい空を見上げて天幕を閉じ、おれに本当にできるだろうか、と自問しアトリはなかなか寝付けなかった。

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