尻尾の動かし方-3

 ぽっかり目を開けると、アトリの大きな身体が視界いっぱいに横たわっていた。リコの方を向いて、少し身体を丸めるようにしているいつもの寝姿だ。安心してもう一度寝ようと目をつむり、アトリ以外の全てがいつもとちがうことに気がついて、はっともう一度目を開けて、リコは身体を起こした。

 いつもふたりで寝ている天幕より大きい。知らない匂い、知らない荷物たち。そうだ、昨日はアトリの知り合いのところに泊まったのだった。イリス、と紹介された彼女の姿はなかった。外はもう十分明るいので、既に起き出しているのだろう。

 だいたい、アトリがリコより遅くまで眠っているのが、野宿とはちがった。野宿の時、アトリはいつもまだ薄暗いうちから目を覚まして外で朝の準備をしている。野盗や獣たちを警戒しているのだ。アトリが寝坊するのはいつも、街に泊まった時だった。

 しっかりした壁やたくさんの人の群れに囲まれているときと同じくらい、アトリは無警戒に眠りこけていた。リコがその顔をまじまじとのぞき込んでも目覚める気配はない。昨日までだったら長い髪が邪魔だったかもしれないが、短くなったので静かな寝顔もよく見えた。リコが、冷たい氷のようだと思った薄青の瞳は今は見えない。

 くん、と匂いをかぐ。草原の草と土、昨日食べた羊肉、彼の相棒であるコゲの匂いと一緒に、かぎなれない匂いがした。この天幕いっぱいに満ちているそれは、彼女の香りだった。

 旅の途上、コゲの上で揺られながら、だれを探しているの、とリコは尋ねた。昔の知り合いだ、とアトリは答えて、ふうんとリコもうなずいた。その時は、女のひとだとは思っていなかった。これまでに見たアトリの知り合いや顔見知りは、だいたい男性か、女性はその家族でしかなかった。

 髪を切ってもらうつもりだと聞いたときもおどろいてリコは反対した。アトリが旅路の中でリコの髪を編むのがだんだん上手になったように、リコだってアトリの髪を結わえるのが上手になった。アトリが髪を切る必要なんてないと思っていたのだ。リコが知る壮年の男性は、髪を細かく編んで立派な毛皮の帽子を被っていることが多かった。

 野宿の夜それをアトリに言うと、リコにチーズと干し肉を食べさせて、自分は遊牧民に分けてもらった馬乳酒を飲みながら、アトリは言った。

『どうせ目立つんだから、人とちがってもいいだろ』 

 リコは、自分を隠そうとする大人の動きや、自分を怖がる人の動きに敏感だった。アトリがリコから人の視線をそらすため、金髪をさらしていることは分かっていたから、仕方ないと思った。

 やっと見つけた「昔の知り合い」が女のひとだったことにはびっくりしたけど、イリスはどう見ても、優しくていい人だった。一緒に髪を切った、その感覚も楽しかった。星読みの里で親代わりだったトゥーラ――アトリの養母でもある、星読みの里の長――よりも若いイリスに優しくされると、なんだかこそばゆくてうれしくて、湧き上がる思いを抑えられず、尻尾がくるんと丸まって、リコの身体もくるくる回ってしまった。リコは知らないが、お母さんという人はこういう存在なのかもしれない、と思った。

 それでも、ちょきんちょきんと髪が切られるのを見ると、リコがアトリの髪をといだこと、アトリには迷惑がられながらも結んであげたことまでもが、ちょきんちょきんと切り取られていくようで、少し悲しかった。


「あ、起きた? おはよう」

 リコがじっとアトリの顔を見て、匂いをかいでいると、天幕の入り口が開いてイリスが顔をのぞかせた。びくりとして返事もできずにそちらを向くと、イリスはリコの顔から少し視線を動かして、くすりと笑った。

「アトリはまだ寝てるでしょ。お茶いれるから、良かったら飲んで」

 そういえば、ぽこぽこ沸くお湯と乳の音、茶葉の匂いがふんわり漂っている。草原の朝は、街だろうが旅路だろうが、だいたいお茶から始まるものだった。

 リコの返事を聞かず、イリスはなにか物を手に取るとまた入り口を下げて出て行った。そうしてようやく、リコは尻尾が大きく膨らんでいることに気がついた。きっと彼女は、この尻尾を見て笑ったのだ。

 気づいた途端、尻尾はしゅんとうなだれ地面に垂れた。リコの意志ではなく、感情のままに動いてしまうこの尻尾。リコは自分の尻尾や耳のことがきらいではなかった。けれど、どうして自分にはそれがついているのだろう、とは時々思う。

 山の強き獣、狼の落とし子だと、星読みの里では言われていた。きっとそれは間違っていない。狼の声が聞こえるし、狼の声が出せる。ならどうして狼は、人の姿をした子を草原に落としていったのだろう。リコの中には人の部分と狼の部分があるけれど、人の方が少し多い。だから小さなリコは一人では生きられず、拾われた里で育てられた。

 狼に育てられていれば、いろいろとちがったのだろうか。でもそうだったら、これまでリコが親しんできたもの全てに出会えない。

 リコはしゅんと垂れたままの尻尾を握った。外に出るなら、アトリの言いつけ通り、耳と尻尾を隠さなければならなかった。


 外に出ると、イリスは天幕のすぐそばで小さな火をおこし、小鍋でお茶を沸かしていた。リコに気づいてにっこり笑い、夜露に濡れた地面に敷物を出してくれた。お礼を言って座ると茶器を渡される。薄いお茶にたっぷりの乳、アトリがいれるお茶よりほんの少し塩気が強い。

 短い祈りの言葉を呟いて、イリスも同じものを冷ましながら飲んでいた。器からふわりと立ち上る湯気で眼鏡が曇っている。

「それ……」

「うん?」

 リコの声に応じて顔をあげると、豊かな黒い髪がさらりと揺れた。編まずに一つに結んでいるので、耳飾りがよく見えた。いろいろな色のビーズが連なってきらりと光るそれになんだかどぎまぎして、リコは小鍋に視線を落として、続けた。

「それ、よく見えるの?」

「ああ、これ……」

 イリスはほほえんで、眼鏡を外して袖で曇りを拭き取った。

「たぶん、かけてる私より、かけてないリコの方がよく見えてると思うよ。私は、遠くのものがよく見えないの」

「どうして?」

「たぶん、小さいころから細かい数字ばっかり読んでたからかな」

 言っていることがよく分からず首をかしげると、イリスもまた言葉を探しているように、お茶の器を指先でトントンと叩いた。

「アトリやリコみたいに空ばっかり見てたら良かったんだけど、暗いところで小さな文字を読み書きしていると、目が悪くなってものが見えにくくなるんだよ。眼鏡をかけてると、少しはいいけどね」

 話しながら、イリスは布包みを取り出して揚げパンとカチカチに固めたチーズを割ってくれた。揚げパンは何日も保存がきかないので、旅暮らしになってからはめったに食べられない。チーズはいかにも保存用だったが、それでもうれしくなって両手で受け取った。

 堅いチーズをなんとかかみちぎって口の中で柔くしていると、幕屋のそばを人が行き来する。おはよう、とイリスはのんびり挨拶するが、通る人は忙しそうに、荷物を荷車やらくだに積んでいた。

「……小さいころから、しょうにんだったの?」

 星読みの里にも商人が来ることはあった。リコは尻尾と耳を隠してその様子を見に行った。女性の商人は珍しかったし、ましてや、小さな子なんて見たことなかった。イリスもチーズを噛みながらうなずいた。

「そう。私のうちはきょうだいが多かったから、みんなが生きてくために私が隊商に預けられたの。そうだね、今のリコより、もう少し大きかったかな」

 みんなが安心して暮らすため、リコはアトリに預けられた。アトリはリコを、同じ拾われっ子だといった。この人も似たような境遇なのだと分かって、リコは改めてイリスをまじまじと見上げた。

 装飾品が似合うすんなりした指や首筋も、旅暮らしで痩せているが細すぎず柔らかそうな体つきも、少しだけ色のついた唇も、とうていリコには届かない大人の女性で、当然だが彼女には狼の耳も尻尾もない。

 同じなのに、なにもかもちがう。不意に、二人旅の途中でアトリが星を読んでいた背中を思い出した。あのときアトリは、この人を思いながら空の星を見上げていたのだろうか。

「そんな顔しないで」

 困ったように少し首をかしげて、優しい声でイリスは言った。リコは、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。イリスがその表情にどんな感情を読み取ったかも、分からない。

「そうやって隊商で暮らすようになったから、いろんなところに行ってこの眼鏡だって手に入ったし、アトリに会って、こうしてリコにも会えたんだよ」

 イリスへわきあがった複雑な思いを乗せた顔は、彼女にはどうやら、リコがイリスの境遇を悲しんでいるように見えたらしかった。ちょっとちがうと思ったけれど、不思議と、それは天幕の中でうなだれた尻尾を見ながら考えていたことと似ていた。


 どうしてこの身体で、ここで生きているのだろう。でも今と少しでもちがえば、きっとアトリには出会えなかった。

 それならここで、このまま暮らしていくしかない。アトリがリコのため、そうしてくれたように。


 なんだかすっきりした気持ちでリコは顔を上げた。にこにこ笑うイリスと目が合って、尻尾がそわそわ動き出そうとしているのを感じた。けれどリコには、それを押しとどめることができた。

 アトリが彼の姿をさらして生きる方法を探しているように、リコもまた、尻尾の動かし方を考えながら生きていかねばならなかった。

 だんだん起きる人が多くなってきた。商人も旅人も遊牧民も、それぞれの目的に応じて動き始めている。近くを馬や山羊、らくだが通ると、中には落ち着かずにいななくものもいて、リコはそれが自分のせいだと知っていた。知らないイリスがリコをかばってくれるので、大丈夫、という代わりに、飲み干して空になった茶器を彼女に差し出した。

「もう少しのみたい。アトリのお茶よりおいしい」

「あら、ありがとう」

 イリスは笑ってお茶を注ぎ足し、ちらりと気にするように天幕の方を見たが、アトリはまだ起きてこない。リコはにんまり笑って器を受け取った。

「アトリ、おねぼうだよ」

「そうだね……ま、よく休めてるなら、寝かしときましょ」

 分かっているような言い方に、一度はすっきりしたと思った心が、また、むくりとよく分からない感情に動く。どうやらこれは、すぐり割り切れるようなものではないらしい。


 リコに注いでお茶がなくなったので、小鍋を手際よく片付けながら、イリスはリコを見ておもしろそうに瞳を踊らせた。そうすると、落ち着いた大人の女性という印象が一変して、いたずらっぽく一筋縄ではいかない商人らしく見えた。

「リコは、アトリのことが好きね」

「……うん」

「私もアトリは好きだけど、でも、昔のことだから気にしなくていいよ」

 びっくりして、リコはまじまじとイリスを見つめた。今度は制御できず、耳が動いて頭巾を持ち上げようとしているのを感じる。イリスはニコニコと変わらない笑顔だった。

「……どうして、今は好きじゃないの?」

「だって、アトリったら商売が下手なんだもの。ちっともうまく儲けられないから、私もアトリも、嫌になっちゃったの」

 一拍おいて、イリスは続ける。

「だから、今のアトリにはリコが一番大切みたいよ」

 商売に向かないアトリ。儲けるのが下手くそなアトリ。リコの方も一拍おいて言っていることが飲み込めて、くふっと笑った。アトリが商売に向かないのなんて、言われてみればたしかに、よく分かることだった。

 イリスも声をあげて笑った。そばにつないでいた何事にも動じないコゲが、さずかにおどろいたように顔をあげる。リコがなんでもないよ、と手を振ると、それならいいとばかりに静かに草を喰むことに戻った。

 リコを怖がらないコゲと、商売が得意でないアトリと。三人で行く旅路は、リコにとって本当に、かけがえのないものだった。

 ようやっと、天幕の中でがさごそ動き出す音がした。アトリが出てきたら、イリスと仲良しのところを見せておどろかせてやろう。リコはそう思った。

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