尻尾の動かし方-2

 隊商はこのまま街道沿いに数日間宿営し、近くの遊牧民や小さな集落を回る予定だった。アトリとリコもそのまま泊めることにして、仲間たちと夕食を準備する。何人かで集まって貴重な粉を練って伸ばして麺をうち、羊肉と一緒に焼いた。うまい、としみじみかみしめるようにアトリはそれを食べていた。

「久しぶりにちゃんとしたもの食った。ここのところ、馬乳酒しか飲んでなかった」

 馬の乳から作る馬乳酒は、この時期にしか飲めず栄養が豊富なので、生粋の遊牧民の中には夏場はほとんど固形物を食べず馬乳酒だけで過ごすものも多い。それで身体も頑健なのだから理にはかなっているのだろうが、噛んで味わう食べ物からしか得られないものもある。

「馬乳酒も、今年の状況じゃあ、あまり出来はよくないだろう。よく分けてもらえたな」

「もう少し北に行くと湖があるだろ。あのあたりは牧草も豊かで、今年の天候の影響を、まだあまり受けてない」

 なるほど、と商人たちはアトリの言葉に頷いた。草原の夏、太陽はなかなか沈まない。昼間のような明るさの中、外で丸く座って夕飯を食べるのはなかなか楽しかった。

 商人や旅人にとっては貴重な情報交換の場でもある。集まっている商人の中には、アトリが昔から知る顔も、知らない顔も同数あった。人さみしさに集まってきた旅人や家畜を追う遊牧民もいて、けっこう賑やかな夕飯だった。

 短くなったアトリの金髪の下、耳や首筋を風が直接なでていく。旅人や商人など、あちこち巡る立場の人間が多いからだろう、アトリの頭を見ても、誰もが物珍しい顔をするくらいだった。どこの出身だい、と聞かれたアトリが分からない、と答えると、それ以上追求されることもない。

「アトリにそんな大きな子がいたとは知らなかったぞ」

 顔なじみが茶化すように言うと、アトリは横目でちらっとイリスを見て、それからリコを見下ろした。

「おれの子じゃない。故郷のおふくろに頼まれて預かってるんだ」

「それじゃ、妹かい」

「いや……まあ、そんなとこかな。おれと同じ、拾われっ子だ」

 なあ、とリコの頭をなでると、屈託のない笑顔でうんとうなずく。本当の兄妹や親子以上に仲が良さそうに見える事情が分かったように、そうか、と聞いた男は頷いて目を細めた。そう答えることで、それ以上の追求を封じたのだとイリスは気がついた。アトリにしては、なかなかうまいやり方だ。リコの耳と尻尾はあまり人目にさらしたくないと、イリスの天幕を出る前、アトリは言っていた。

「南部や東部の状況はどうなんだ」

「海や東国の穀倉地があるから、この辺りほど深刻ではないな。ただ、星読みは冬も厳しくなると言っていたから、そうなったどうかな」

「南部の星読みがふれ回っているのか?」

 そうだよ、と商人が頷くとアトリはふうん、とあごをなでた。アトリが草原の北端にある星読みの里で育ったことは、この場ではイリスしか知らない。

「アトリはこの辺りにいたんだろう。なにか聞いてるかい」

「……おれの義兄は星読みだ。兄も、夏も冬も激しい、変化の大きな年になると言っていた。寒さと飢えに備えるように、と」

「なんだ、そうだったのか。ならやっぱり、冬は西の国境を越えるか、南部に戻るか考えるかねえ」

「備えると言っても、家畜が肥えなければな。水も牧草も足りないんだ」

 遊牧民の青年が悔しそうに言った。彼は、放牧中にはぐれた馬を探して追っているという。商人や旅人のように自由に流れることができない彼らは、盛夏や厳冬もただ耐えることしかできない。その間に多くの家畜や、ひょっとすると家族も死ぬだろう。気象を操ることはもちろん、何百、何千頭にもなる家畜を満たす水や飼い葉を運ぶこともできない無力さが歯がゆかった。

「リコ、眠いのか?」

「……ねむくない」

 ふと気付くと、アトリの隣で少女はゆらゆらと舟をこいでいた。空が明るいのでわかりにくいが、子供はもう寝る時間なのかもしれなかった。リコの言葉を聞かず、アトリは皿を返すと小さな身体を抱き上げた。

「先に寝るよ。悪いな」

「いいよ、私も行く」

 連れ立って席を立つと、商人たちがお疲れと手を振り、アトリはリコに手を振り返させた。特に説明を求めない彼らがありがたかった。


 イリスの天幕に入ると、リコは眠そうな顔を上げてアトリに尋ねた。

「今日はここに泊まるの?」

「そうだよ。もう遅いし」

 そうなんだ、とおぼつかなげに呟いて、リコはアトリから横にイリスに視線を移した。獣めいた金の瞳が、わがままでさみしがりな女の子そのものの表情でこちらを見るので、イリスは思わずほほえんだ。この狼の娘がなにを心配しているのか、手に取るように分かる気がした。

 少女が気に入っていたという、金の髪。それをさらして久しぶりに姿を見せた、昔の男。特別了承をとらずとも、同じ天幕に入る仲ではあるけれど。

 彼が本当にイリスのものだったのは、もう何年も前の話だ。

「だいじょうぶ、とらないよ」

 なにが、と問う男の方はなにも分かっていない。アトリのことは放っておいてリコを見ると、リコは眼鏡とは視線を合わせずぷい、と目をそらした。


 ◇


 短くなった金の頭を、イリスの指がゆっくりなでる。細い指はそのまま首筋から鎖骨、肩甲骨に流れて、強い力で肩をもみほぐした。

「もうちょっと、下の方」

「おじさんになったね」

 笑い含みの声で茶化しながら、イリスは続けて、指を少しずつ下に降ろしていった。ちょうど凝ったところが揉みほぐされて、あー、とアトリは言葉にならない声を出した。

「疲れてるね」

「うん……」

 リコを抱き上げたり引っ張ったり、大きな荷物を上げ下げしては草枕の身だった。イリスを探してあちこち回って、街に滞在することもありリコの扱いには気を遣った。ここでこうして解放できて、リコよりはむしろアトリの気が休まっていた。ひとりで背負うには、少し難しい問題だった。

 そこまで考えて、実際のところイリスはリコについてどう受け止めただろう、と確かめたくなった。肩越しに振り返ると、上目遣いのイリスと目が合う。ちょうどアトリの頭を見ていたようだ。

 眼鏡の奥で、黒目がちの瞳が瞬いた。くせのある髪と丸い瞳は幼く見えるが、その黒髪を編まずにひとつにまとめているだけのところや、西から入手した眼鏡が彼女の印象を不安定にしていた。あまり共通することのないアトリとイリスだったが、自分たちの容姿があまり好きではないところだけは似通っていた。

「なに?」

「いや……」

 草原の北で出会って、七年前までは一緒に旅していた。アトリはイリスの情が深いところが好きだったし、イリスはアトリの優しいところが好きだと言ってくれた。けれど生業の違いからアトリはイリスの暮らしになじめず、お互い傷を負って別々に生きることにした。それでも、アトリは旅していればイリスの隊商を探したし、イリスはいつもアトリの髪を切ってくれた。

「一年ぶりくらい? もしかしてその間、ずっと髪は切ってなかったの?」

「自分で適当に切ることはあったけど……」

 そう、とイリスはこだわらずに頷いて、自分で切った髪の端を確かめるように触った。

 再会して最初の言葉こそ、頭どうしたの、だったが、以降彼女からアトリが金の髪をさらしていることについて言及はない。アトリとしては、少し不満だった。アトリは家族と彼女の前でだけ、ターバンを外していたのだ。


「おれが、人にこの頭を見せてても気にしないのか」


 それでつい拗ねたようなことを聞く。本当は、リコのことが気になっていたはずなのに。それを受けてイリスはくすりと笑った。

「なんでよ。自分で決めたことでしょ」

 それは確かにそうで、アトリは沈黙する。おいうちをかけるように、イリスはアトリの短い金髪を引っ張った。

「私は前からきれいな色だと思ってたよ。それに、金髪を隠さなくなった代わりに、あの子の耳と尻尾を隠すようになっただけでしょう」

 全くの正論に、アトリは彼女から視線を外して横を見た。リコはぐっすり眠っていて、尻尾も耳も動かず静かな寝息が聞こえてくるだけだった。

 どんな答えを期待していたのだろう、とアトリは自分を少し恥じた。要するに、自分の容姿が好きではないアトリだが、イリスの前ですべてさらけ出す自分のことだけは気に入っていたのだ。

 リコのために自分を隠さないことにした。後悔はしないが、それは決して簡単ではなかった。頭を人目にさらすことで、自分自身直視を避けていた、おのれの生き方や生業についても正面から向き合わねばならなかった。リコとふたりで生きていくためには自分を変える必要があった。

 いまのアトリがイリスと話すと、彼女のためにおのれを変えられず、彼女のために生きられなかった自分が浮き彫りになるようで罪悪感に胸がざわつく。だから、イリスもアトリを惜しんでくれていればいいと思ったが、彼女はアトリよりよっぽど自立して強い人間だった。

「次は私の肩もんで」

 イリスが背を向けて要求する。罪悪感を打ち消すために、アトリは素直にそちらを向いて彼女の肩に手を添えた。アトリに比べれば細い肩だが、草原の女らしくしっかりと厚みがあり、たいそう凝っていた。

「凝ってますね」

「そうですよ」

 苦労してるもん、とまた笑う。親に捨てられたも同然で、幼い頃から本当に苦労が多いはずだが、イリスはそれをあまり表に見せない。そんな彼女が、例えば眼鏡を外した時、無防備で素直な顔を見せてくれるところが、好きだった。

 後ろから眼鏡を外すと、真上を向き眉を寄せてアトリと視線を合わせる。その唇をふさごうとしたが、不満そうな顔で避けるように口をぎゅっと引き結んだ。

「なんだよ」

「こういうの、子供の前ではしない方がいいと思う」

 またしても正論を突きつけられ、アトリは横目でリコを見た。規則的な寝息を立てる少女にほっとして、アトリは眼鏡を返した。だからといってつけ直すでもなく、イリスは手の中でそれをもてあそびながら、同じようにリコを見ていた。

「あの子の、あの顔、見た?」

「どの顔?」

「あのね、あの子は私にあんたを取られると思ってるのよ」

「…………は、なんで?」

 全く予想外の言葉に、アトリは目を瞬いた。その反応がおかしかったのか、イリスは声を抑えて笑った。

「あの子にとってアトリが大事で、それなのにあんたが私のところに髪を切りに来たからでしょ。もう、本当になにも分かってないんだから」

 財産を全く持たないその日暮らしのアトリは草原の男としては底辺もいいところで、自分を取り合っている、という事態はまったく想定外だった。とはいえつい先ほど、リコのために生き方を変えた自分と、イリスのためには生きられなかった自分を意識したばかりだった。イリスが言いたいのは、そういうことだろうか。

「そういうつもりはなかった」

「私は分かってるよ。リコはそうじゃないんでしょ。アトリ、私のことをなんて説明してるの」

「……昔の知り合い、って」

 そう答えると、イリスは目を細めた。

「へえ~、昔の知り合いなんだ、私たち」

「…………」

 いたたまれずに視線をそらすと、すやすや眠っているリコがいてそれもじっと見るに耐えず上を向いた。アトリの天幕よりしっかりした作りで、フェルト地は複数の骨組みで支えられ三角に尖っている。昔は一緒にこれを組んでいたし、背が高いアトリが骨組みを支える役目だった。

 今のイリスは、リコをどう受け止めただろう。そういえば、それが気になっていたのだった。イリスの言葉から、恐怖や畏敬は感じられなかった。

「イリス、おまえは、リコのことをどう思った?」

「どうって?」

「リコが怖くないか?」

「怖く思うようなことがあったの?」

 軽い調子で答えて、イリスはリコを見た。眠るリコに、彼女は何も言わず、いつも使っているのであろう上掛けをかけてくれた。その手つきとまなざしは優しかった。彼女が商人ではなく草原の女だったら、もう何人もの子がいる母親になっているはずだった。

「怖いなんて、考えもしなかった。耳と尻尾にはおどろいたし、不思議な子だとは思うけど。今のところそれよりも、甘えたがりの小さな子に見えるかな」

 アトリはほっと息をついた。自分で思っていた以上に、その答えを聞いて安堵していた。リコをずっと見ていたカームまでリコを恐ろしいと言ったことは、アトリの心に重く立ち塞がっていた。イリスが、何も気にせず踏み越えて、ふたりの内側に入ってきてくれたことがうれしかった。できればリコも、彼女を好いてくれればいいと思う。

「それならいい。ありがとな」

「なんのお礼?」

 アトリは返答を避けた。イリスも本当は分かっているのだろう。続けて問うことはなく、この話は終わり、とばかりに身体の前側に下ろしていた束ね髪をほどき、ずっと手に持っていた眼鏡を隅の荷物の上に置いた。

「そろそろ寝よう。アトリも、疲れてるでしょ」

 そうだな、と呟いてアトリも薄い上着を一枚脱いだ。それを被るようにしてリコの横に転がると、気配がしたのか、リコの尻尾がぱたりと揺れる。イリスはそれを見て笑って、油に浮かべた薄明かりを吹き消した。

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