第四話 尻尾の動かし方

尻尾の動かし方-1

 天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。

 山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。

 清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす。

 

 天に通ず強き獣たる狼よ。草原に命もたらし、また命を奪いゆく狼よ。

 われらの命たる家畜を食らうのならば、どうかわれらの嘆き願い喜びを母なる山に届けたまえ。

 天より遠く離れしわれら人の子は、星の動きに天の声を聞くことしかできない。

 人の弱さを哀れむのなら、天の恵み、清水、命を草原にもたらしたまえ。


 ◇


 夜中に目が覚めたのは、きっと尻尾のせいだった。

 リコは自分の尻尾と耳のことがきらいではない。ふさふさの尻尾も、よく聞こえる耳も、両方とも気に入っていた。けれど草原に訪れる短い夏の間だけは、尻尾の毛皮が暑くてじゃまに思うこともあった。

 尻尾は、しまおうと思えばおとなしく服の下におさまってくれているけれど、時にはリコの感情の赴くままに、制御できないことがある。夏場に寝ているときも、ときどき風を求めてぱたぱた揺れているらしい。春先はリコの尻尾をありがたがっていたアトリも、最近では尻尾に当たらないようにして寝ている。

 ぱたりと鼻先をぬるい風がなでて、リコはぱっちり目を開けた。尻尾が揺れて起こった風だ。いつもならそのまますぐに寝てしまうのだが、どういうわけか、目をつむれなかった。すぐに、そばで眠っているはずのアトリがいないからだ、と気付く。

 もらいものの天幕にふたりで寝ると、アトリの身体はリコの視界いっぱいに横たわっているはずだった。今は天幕の白いフェルト地しか見えず、風を入れるためきっちり閉めてはいない出入り口が、はたはたと揺れて外の風景が切り取られて見えた。

 その向こうに、アトリの背中があった。

 リコは手を伸ばして揺れる布地をつかまえた。外はまだ、真夜中だった。このところずっと晴天が続いているので、空の星もよく見える。焚き火はもうほとんど消えていたが、星と月明かりだけで、十分明るい夜だった。アトリは燻っている焚き火の横に腰を下ろしていた。昼間の陽光に淡く輝く金の髪は、わずかな明かりを受け古い金属のように鈍い光をたたえていた。

 夏物の薄い上着しか着ていないが、アトリは体格がよいのでどっしり落ち着いて見える。けれど幼いリコにも、彼の本心がいつも迷っていろいろと考えていることはくみ取れた。狼の鼻は、そんな機微にも敏感だった。

 声をかけずにアトリの背を見ていると、彼はゆっくり両腕を持ち上げた。リコを軽々抱き上げるその大きな手で、夜空に指で四角を作る。

 それが星読みのやる仕草だと、リコは知っていた。リコはその方法を教えられていなかったが、星読みの里で育ったのだ。里の大人たちはいつも、そうして星の投げかける言葉を聞こうとしていた。

 土地の痩せ具合、野山の恵みの多寡、家畜の健康状態に乳や肉の出来具合、外から攻めてくるものについて、内側にひそむ不安について、伴侶や家族のこと、愛について、リコについて。


 アトリは今、なにを読もうとしているのだろう。


 不意に胸がきゅっと詰まって、リコは天幕から手を離した。出入り口が閉じて、アトリの姿は見えなくなった。


 ◇


 草原に夏が来た。太陽はぎらぎらと輝き、小山のような白雲が地平線に近いところを這うようにのろのろ動く。春に生まれた獣の仔の離乳が進み、成獣に混ざってあちこち駆け回り始める。人間も活動的になり、草原の街では若駒と乗り手が一体感を競う競馬や、男たちが腕っ節を比べる相撲があちこちで催されている。

 とはいえ、今年の夏は各所で水不足や家畜の発育不良が発生していた。夏の放牧地では牧草が足りず、遊牧民たちの中では水源や放牧地を巡って小競り合いが発生している。街でも危機感が募り、食料の備蓄や水源の確保が求められているが、自然相手のこと、人は天の機嫌を伺うしかない。

 商人は、そんな街や遊牧民の幕屋を行ったり来たりして、物資や情報を運んでいる。東の国から運ばれた麦を西で鉄に変えるまで、何十もの荷台を連ねた大隊列は草原の端から端まで渡り歩き、草原では手に入らないものをもたらし、草原でできたものを外へ運んでいく。


 イリスは小さな隊商に加わって、この夏は草原の西部を拠点としていた。大隊商から針や煙草など、軽くて小さな物を仕入れて遊牧民の宿営地へ運びチーズや馬乳酒、時には肉や毛皮と交換して暮らしている。

 草原の東端で生まれた彼女は、兄弟姉妹が多かったので幼い頃から口減らしとして隊商入りして下働きをしていた。こだわりのない性格は隊商向きで、機を見るのにも長けていて若いうちから信頼を得ている。

 男顔負けに物怖じしないイリスにも苦手なものはいくつかあって、例えば遠くを見ることは苦手だった。昔から薄暗い中で数字を見ていたせいか目が悪く、眉間にしわを寄せ目を細めてものを見ると不細工だと言われてからは、人前でそうするのが好きではなかった。

 だから、宿営中遠くに馬影が見えると言われてもそれをよく見ようとは思わなかった。だいいち、馬影なんて草原では掃いて捨てるほどある。気にするほどのことではないと思った。それが近づいてきているようだ、と聞いてもふうんと受け流した。旅人が獣や野盗からの安心を求めて隊商と夜を明かしたがるのはよくあることだ。

 その馬がとうとう宿営地に飛び込んできて、ようやく彼女は来訪者と向き合い、目を丸くした。荷を積んだ馬から降り立ち、続けて小さな女の子を抱き上げて地面に下ろした男を、彼女はよく知っていた。

「やっと見つけた、イリス」

 そう続ける声も耳なじみ深い。けれど、彼は――アトリは、彼がいつもしているターバンを巻いていなかった。お日様の下で初めて目にする彼の金髪は、長く伸びて後ろで一つにまとめているが、それでもきらきら輝いて太陽と同じくらいまぶしかった。


「アトリあんた、どうしたの、その頭」

「頼む、髪を切ってくれ」


 二人の言葉が同時に飛び出て、どちらもすぐには答えられず、固まる。きまずい沈黙を破るように、ふふっとかわいらしい笑い声が聞こえた。背が高いアトリから視線を下ろせば、彼の足元で、見知らぬ少女がくすくすとおかしそうに笑っていた。

 よく知る男が連れてきた知らない娘に、イリスは首をかしげ――ずれた眼鏡を左手でほんの少し押し上げた。


 イリスの天幕には、リコが見たことがないものやふしぎな匂いのする箱がいくつも積まれていた。

 アトリとリコが使う天幕より少し大きいが、彼女はそれをひとりで使って、身の回りのものや商品をすべて詰め込んでいる。彼女の隊商は、若い商人が何人か集まって護衛や荷運び馬を共同で運用している、いわば合同部隊である。そのため、物資の管理は彼女自身で行っているのだ。扉もしっかり閉めることができた。

 イリスは今、その荷をあさってはさみを探していた。彼女を特徴付ける黒縁の眼鏡は今は外して寝床の上に置いてある。天幕の中では必要ないからだ。下を向くと、後ろでまとめただけの黒髪が肩から胸もとに落ちてきて探し物のじゃまをする。

 アトリは散髪の準備をして首に布を巻き足を組んで座り、リコという名前らしい少女は天幕に積まれた箱をつついたり匂いをかいだりしている。最近預かった子だ、とこの上なく簡潔な紹介をされた少女は、薄手の夏衣に赤いふんわりしたスカートを釣り鐘のようにしてしゃがみこんでいる。かわいらしい仕草だったが、中身を考えるとあまり良くない。

「針と煙草だから、気をつけてね」

「下手に触るとけがするぞ、リコ」

 天幕の真ん中に座ったアトリもそれに続いたが、リコはその声に、不満そうにふくれっつらを返した。

「あきらめろ、リコ。もう決めたんだ」

「……アトリのけち」

「なんの話?」

 イリスが口を挟むと、リコはぷいとそっぽを向いた。きっちり編まれたお下げが揺れ、頭巾で半分隠れた不機嫌な横顔がかわいらしくて口角が上がる。

「おれの髪で遊べなくなるのがつまらないから、短くするのは嫌だってごねてたんだよ」

「あら。じゃあ、切らないで残しといたらいいじゃない」

 はさみを見つけたイリスは思わずアトリを振り返り言ったが、彼はきっぱりと首を振った。

「いいからやってくれ。暑苦しいし伸びたら邪魔で仕方ないから、もう切るって決めたんだ」

 貴重な金糸のように輝く金髪を指で梳いていると、イリスもこれを切ってしまうのはもったいないような気がしてきた。草原の強い光にさらされてもまだ細くて柔らかい。太くてくせの強いイリスの黒髪とはまるで別物である。しかし、以前からアトリは髪を切るときイリスに頼みに来たし、こういう時アトリが外野の意見を聞かないことも分かっていた。

 はさみでちょきんと空を切ると、その音に惹かれたらしい、リコという少女がそわっとこちらを横目で見た。

 ――どういう関係で連れてきたのやら。

 分からないが、アトリが連れてきたのならまあ仕方ない。

「……一緒に切ってみる?」

「いいのっ?」

「……おい、おれの意見は」

 アトリの青い瞳が曇るのが見なくても分かったが、イリスは気付かないふりをした。ぴょんと跳ねるように近づいてきたリコにはさみを渡すと、先ほどのイリスと同じようにちょきちょきと何もないところを切った。小さな手が金の髪をそっとつかんでも、アトリがふうと息をつくだけで文句を繰り返さなかったので、イリスは内心おどろいた。

 ――ちょっと、ずいぶん甘やかしてるじゃないの。

 ぱちんとおでこを指で弾いてやりたいような気もしたが、リコのあやしい手つきを見守らなければならなかった。つかんだ髪束にそっとはさみを当て、リコは息を止めた。

 ちょきん、と鋭い音がして、リコの手から金糸がぱらぱらと落ちていった。くはっと止めていた息を盛大に吐き出して、リコはにっこり笑ってイリスを見上げた。

「切れた! 切れたよ!」

「切りすぎてねえだろうな」

「だいじょうぶだよ。アトリ、リコがかっこよくしてあげるよ」

「いや、普通でいいよ。イリス、あとはやってくれ、頼む」

 軽快な会話を聞きながら頷くと、案外素直にリコははさみを返してきた。先ほどまでの不機嫌はどこへやら、うれしそうに狭い天幕の中をくるくる回る。音楽もなしに踊っているような少女が微笑ましくて見ていると、ひらひら揺れるスカートの下に、なにやらもこもこした膨らみが見えた。

「…………アトリ、あの、あれって」

「あー、リコ、外していいぞ。頭も、スカートも」

 アトリの言葉に、少女はぴたりと動きを止めた。アトリとその後ろのイリスとを見比べて、首をかしげる。

「いいの?」

「いいよ。でも、この中だけだ」

「……わかった」

 静かに答えて、リコは首の結び目をほどいて頭巾を外し、腰紐を引っ張って巻きスカートもすとんと下ろした。下から現れたものに、イリスは目を丸くした。

 黒に近い灰色の尻尾はふさふさと豊かな毛並みで、先端だけ雪を掃いた箒のように白い。それより少し色の濃い、頭巾で押さえられていた耳がぴょこんと立ってぴくぴく動く。

 狼の耳と尻尾を持つ少女は、アトリとイリスを見て、少し照れくさそうにはにかんで笑った。

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