人の群れ、狼の群れ-5
カームが街の代表の家から出てきて、リコはぴょんと飛び上がって合図した。片手をあげて答えたカームにぶつかる勢いで駆け寄ると、カームも手を広げて受け止めた。近くに腰掛けてそれを見ていたアトリだが、二人が近付いてきたので立ち上がって裾の砂をはらった。
「どうだった」
「おまえの手柄にしておいた。銃で追い払ったって」
「なんでだよ、おい」
しれっと答えた義兄をにらむと、彼は善意しか感じられない顔で笑った。
「おまえのためだ。この辺りで、やりやすくなるように」
草原の民は恩を忘れない。確かに、狼の群れを追い払ったとあれば街をあげてアトリを歓待してくれるだろう。面倒なことになった、と思った。
「おれはまだ、あの銃を直してないんだぞ」
「どうにかごまかせ。いくらでも言いようはあるだろう」
あの夜の遠吠えは、もちろん街まで届いていた。それはリコが狼の群れと対話した声だったが、なにも知らない街の人々にとっては、ずいぶん近くまで狼が迫っているように感じられただろう。おそれる人々の元に、暗闇から現れたカームが、もう狼は来ないと告げた。皆もちろん信じなかったが、実際に狼の襲撃はなく、明るくなってからあたりを走り回ってもすっかりそれらしい姿がなかったので、カームたちがなにかしたのだと受け入れられてしまった。説明を求められ長の家に出かけて行ったカームを見送り、嫌な予感がしたアトリだが、その通りになった。
これまでのアトリは一介の旅人でしかなかった。顔見知りも宿のあるじくらいだ。その時点では信用はほとんどなかったが、カームが請け負ってそれを街の長が認めたのなら、話は違う。カームは白い長丈の上着を着て、いつもの首飾りを下げていた。成人した男がそのように装飾品をまとうのは珍しいことだったが、それは星読みの証でもあった。それを持って彼は各地を回っているのだ。アトリとちがって、身なりも能力も人の信用に足る人物だ。そのカームがアトリを保証してくれた。ありがたいことだが、アトリには信頼に足る自信がない。
「アトリのおかげになっても、リコはいいよ」
「えらい。リコはいい子だ」
妙に分かったようなことを言うリコに、カームは目を細めた。それ以上なにか言う気になれず、アトリはただ嘆息した。三人でぶらぶら歩いていると、オボーの方から音楽が聞こえ始めた。狼によって命を絶たれた家畜を送る儀式だ。狼は羊や馬の喉笛を噛みちぎり、一部は引きずっていったが何頭か死体だけ残されていた。
遊牧民は、家畜をつぶすとき、大地に血が一滴も落ちないように行う。器に溜めた血は腸詰めにして食べるのだ。家畜を余すところなく利用する知恵であり、草原を血で汚さないためのやり方だった。狼の犠牲になった家畜はもちろんそういう訳には行かず、大地を清め、魂を安らかに送るため、人間はそれを食べず鳥がさらうのに任せ、オボーに骨を積んで送り出す。今は死体を移動させる前の儀式が行われているはずだ。
リコが興味を引かれた様子でそわそわし出した。耳と尻尾が暴れ出す前に、アトリはリコに呼びかけた。
「見て来いよ、リコ。飛び跳ねて帽子が落ちないように気を付けろ」
「うん!」
うれしそうにうなずいて走り出す。あの晩、本物の狼の遠吠えでもって群れを追い払ったのと同一人物には見えず、アトリはまたため息をついて、その背を見送った。
「リコが怖いか、アトリ」
唐突に、義兄は核心を突く質問をした。少しの間考えて、アトリは静かに答えた。
「あの晩はおどろいた。……ああいうことは、前にもあったのか」
「里で、一度だけな。その時も狼の群れに家畜を襲われて、なんとかしようとしていたら、リコが走ってきて吠えたんだ。そうしたら、狼は退いていった」
それなら、あの里の連中の多くが、それを目の当たりにしたことになる。リコをかわいがって大切にしていた様子の彼らが、どうしてアトリがリコを連れ出すことに誰一人反対しなかったのか、アトリはようやく分かった気がした。狼と同質の力を持つ、あるいは狼さえ制御することができるリコを恐れたのだろう。
畏れ敬っているものに似ているから、同じように扱っている。知れば知るほど、考えれば考えるほど、その言葉は核心をついていた。
「里の者も生き残った家畜も怖がって、リコは吠えなくなった。耳と尻尾を隠すのを嫌がらなくなったのもそれからだ。おれだって、恐ろしかった。狼と一緒に暮らしていたのだと、思い知らされたからな」
天真爛漫で悩みなどなさそうに見えたリコの、初めて聞く一面だった。考えてみれば当然かもしれない。あの明るさは、人懐こさは、幼いなりに身に付けた処世術だったのだろうか。アトリにだって、そういう振る舞いをした記憶はあった。
「……それでも兄貴は、おれとリコに里に戻れと言ってたんだな」
アトリがぽつりと呟くと、堅実で誠実で慎重な義兄は、あくまでまっすぐ答えた。良くも悪くも、それがカームという男だった。
「おまえたちがそのなりを隠して、遠慮しながら暮らすより、恐れられながらでもありのまま生きる方がいいかと思ったんだ。その考えは、今も変わってない」
音楽は静かな調べから始まって、今はにぎやかな調子になっていた。悲惨な死を迎えた家畜たちが、この世には楽しいことがあったと思えるように、最後は皆で歌って踊る。それは恐ろしい狼の襲撃を忘れさせる作用もあった。
リコがくるくる回りながら笑っているのを遠目に見て、その明るさのうちのどれだけが作られたもので、おれはリコのことをどれだけ理解しているのだろうかと考える。その考えを読んだように、カームは静かに続けた。
「アトリ、おまえはリコが恐ろしいか? リコを守れるか?」
アトリはしばらく考えた。春の柔らかな風が草原を吹き抜けていた。
◇
目を覚ますと、すでに日は高かった。野宿だと夜明けとともに目が覚めるが、建物の中で眠っていると、どうも調子が狂う。これも、定住に向かない一因だと思う。
アトリが銃の修理を続けていたので、リコはカームの部屋で休んでいた。とはいえ隣室に人の気配はない。アトリを置いて二人で出かけてしまったのだろう。それに文句を言えない程度には、はっきりとした寝坊だった。伸びをして起き上がり、床に降りて何度か屈伸をする。徐々に体が目覚めてきた。
テーブルの上に、布に包まれた銃が置いてある。部品を外して内部を調べて、どうやら撃鉄と引き金に問題があるようだと分かったが、結局直すには至らなかった。さてどうやってごまかそうか、と考えながら、アトリはそれを手に取った。
火薬も弾もない。直ったと言ってもその場ではごまかせるかもしれないが、あとで暴発でもされたら後味が悪い。正直に言って、あとは流れで適当に話を合わせよう、と考えた。
なんとなく、手に持ってそれを構えてみた。一度撃ったことはある。けれど反動が大きくてとても狙いを定めることができず、自分には向かない武器だと思った。ぐるりと回して、弾込めのときのように銃口を自分に向ける。それだけでひやりとした。アトリは、自分が臆病な男だという自覚があった。
敵意を向けられるのが怖いし、怖がられるのが怖いし、拒絶されるのが怖い。だから自分から距離を置く。庇ってくれる兄の後ろに隠れて、その兄からも離れて一人になる。この年になっても本質は変わらない。
銃口は今もアトリを向いている。けれど弾は入っていない。そして引き金を引けるのは、アトリ自身である。
アトリはそれをテーブルに戻して、身支度を始めた。
アトリが宿に戻ると、ちょうど通りの反対側からリコとカームが歩いてくるところだった。軽く手を振って合図すると、すぐに二人とも気付いて、おどろいたように足を止めた。
「よう、買い物行ってたのか」
「アトリ、おまえ……それで外に出てたのか」
特にカームは目を丸くして、ターバンを巻いていないアトリの頭を見ていた。リコもほとんど首を直角に曲げてアトリの頭を見上げている。天気が良い日で、少し褪せたような金髪は日に透けて輝いているようだった。
物心ついてから、意図して金の頭を人目にさらしたことはなかった。頭にターバンを巻く、という一工程がなくなるだけで、ずいぶん身支度は簡単になった気がした。心理的な影響もあるのかもしれない。そのまま外に出て宿の主人に挨拶すると、一度なにも見ずにおはようと返事したあと、二度見して目を見開いた。そんな頭をしてたのかい、と言われ、だから隠してたんだと返す。あるじは、なるほどねえ、と頷くだけだった。
銃を返しに行った家でも同じだった。一度おどろいてまじまじとアトリの頭を見たが、すぐに銃についての話に移った。直せなかった、と言うと残念がって、それならどうやって狼を追い返したんだ、となる。一発分だけ火薬と弾が残っていたから、それで追い払ったんだと適当なことを言うと、なるほどねえ、と頷いた。宿の主人と同じ仕草だったので思わず笑うと、相手も笑って、なんにせよあんたは街を助けてくれた、ありがとうと礼を言われた。それで終わりだった。
「姿を隠して遠慮して生きるのか、なりをさらして恐れられながら暮らすのか、と言ったよな」
アトリがカームを見下ろすと、義兄はつばを飲んで、ああ、と頷いた。カームがこんなにおどろいているところを初めて見て、アトリは笑いがこみ上げてきた。
「おれは恐れられるような男じゃない。カームがそれを、街の人に話してくれただろう。だから、これからはこうすることにした」
リコを恐れないのか、リコを守れるのか、という問いに対する、アトリなりの答えでもあった。リコの本質を見て何度考えても、アトリにはリコが恐ろしいとは思えなかった。アトリにまとわりついてはしゃいで笑う、夜闇に怯え震えてコゲにしがみつく、親しい人からの拒絶を恐れる、小さな女の子だ。アトリの小さなころとよく似ている。
けれどリコを恐れる人間が多いのも分かる。ならばアトリにできるのは、そばにいてやるくらいだろう。姿かたちを晒していれば、アトリの方が人目を引いて、リコは見逃されることも多くなるはずだ。
伸びっぱなしの前髪が、風に揺れて視界を隠した。この煩わしさだけは、ターバンをしていればなかったことだ。うっとおしい髪をかきあげてまとめていると、リコが、きらきらした瞳でアトリを見上げた。
「アトリ、リコが、かみやってあげる!」
「……いや、いいよ」
やってあげる、と繰り返し、リコはアトリの腕を引っ張る。大して反抗もしなかったので身体が傾き、仕方なくアトリは道端に腰を下ろした。アトリが座ると、立っているリコと同じくらいの目線になる。リコがアトリの髪を手櫛で梳き始めたので、アトリはさせるがままにしておいた。一連の流れを見ていたカームが、ぶっと吹き出し、げらげら笑い出した。
「なんだよ、心配して損した。おまえたち、大丈夫そうじゃないか」
それからアトリに近寄って、金の頭をなで回す。せっかく整えていたのをぐちゃぐちゃにされて、リコは不満げな声をあげた。
「さわらないで、カームおじさん」
「いやだね、おれは一度、こうしたかったんだ」
「ふたりともおれの頭で遊ぶな!」
アトリが叫ぶと、ふたりは大げさな身振りで手を放した。リコは笑い声混じりの悲鳴も一緒だった。
弾けるような笑い声にアトリも自然と笑みがこぼれた。この二人がこうして喜んでくれるなら、ターバンを外したのも悪くなかったと思えた。
「本当に、安心した。おまえと会ったことを、ちゃんとおふくろに報告できる」
カームの言葉に顔を上げてよく見ると、彼はきっちり身支度をして、荷を背負って旅支度を済ませていた。行くのかと尋ねると、うんと答える。
「そもそも長居しすぎた。あちこち行って知らせを触れ回さなきゃならないんだ」
食料の備えをするなら早いに越したことはないし、水場を求めて移動するなら争いが生じるはずで、それも解決に時間がかかるだろう。そりゃそうだ、と頷いてアトリは立ち上がった。リコがぴょんと跳ねるようにアトリの後ろから出てきて横に並ぶ。
「おれもまあ、会えて良かった。皆によろしく言っておいてくれ」
「よろしくね、カームおじさん」
リコが大人ぶった口調で言うので苦笑して、アトリとカームは手を握った。里に帰ってもあまり顔を合わせないようにしていた義兄とこうしてしっかり話すことができたのは、リコがいたおかげであり、里ではない別の街だったからかもしれない。
馬を引いて町外れまで見送る間、アトリの頭を指さす者もいたが、そこまで気にならなかった。自分の気持ちひとつで、人から受ける視線の意味まで変えることができるのだとアトリは思った。
「おまえ、隊商のいる街道の方へ向かうつもりだろう。おれは北東の遊牧民たちの方へ行くから、そっちはよろしく頼む」
「あー、そうかそれがあったな。この頭で、どれだけ話を聞いてもらえるか」
「大丈夫さ。まあ、できる範囲でいいから」
気楽に言ってくれるものだと呆れたが、それくらいの方がアトリが気負わないだろう、というカームの気遣いも感じられた。馬上のカームに挨拶したがるリコを抱いてやると、カームは目を細めてリコの頭を帽子の上からなでた。
「リコ、アトリのことを頼んだぞ」
「うん、わかった」
なにが分かったんだ、と思ったが、リコは至って真面目なので放っておく。最後にそれじゃあ、と短く挨拶して、カームは馬の腹を蹴った。カームの馬は、並足から一気に駆け足になって、あっという間に遠くに離れていった。アトリとリコは、それが見えなくなるまで見送って立ち尽くしていた。
「さ、戻るか」
「うん」
振り返ると街がある。背後には草原が広がり、どこかで、あの狼の群れも生きているのだろう。草原の一匹狼と本物の狼の娘がどこに向かって生きていくのか、アトリ自身にもまだ分からなかった。けれど、アトリはどんな姿をしていてもアトリでしかないし、リコもそうだと思いたい。恐れること、恐れられるようなこともないはずだ。
リコに求められ、手をつなぐ。ふたりなら、行く場所も見つかるような気がした。
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