人の群れ、狼の群れ-4

 ――なんだか、外が騒がしい。


 寝入っていたアトリは、一呼吸で覚醒し、身を起こした。野宿をするものの習性として、物音がすれば獣や夜盗の気配かと思いすぐに目が覚めてしまう。

 外を伺うと、やはり話し声がする。小さな窓の外は真っ暗で深夜のはずだが、通りを人が走っている気配がする。アトリは、椅子の背にかけていた布をとって頭に巻き付けた。養母や義兄に言われたとおり、髪は肩まで伸びている。片手で髪とターバンの端を押さえ、もう片方の手で長い布を巻き付けていく。慣れた作業だが、夜中に起こされてやるのは、少し面倒くさい。

 それを終えてから外に出る。カームの部屋を覗いたが、リコが一人で眠っているだけだった。もちろん彼も気付いて、様子を見に行っているのだろう。リコを置いて行くのは気がかりだったが、アトリは静かに入り口の方へ向かった。そこに集まる数人の中にカームがいた。声をかけると振り返り、遅いと一言毒づいた。

「のんきだな、ぐっすり寝てたか」

「いや、起きたけど手間取った」

 カームは気難しい目でアトリの頭を見て、なにも言わずに外に視線を移した。

「なにがあったんだ?」

「狼だ。離れたところにあった幕屋で家畜が襲われて、まだ近くにいるようだ」

「狼?」

 アトリの声は、意図せず大きくなった。周囲の注目が集まり、慌てて横を向き顔を隠す。カームは、起き抜けそのままといった格好で遠くを見るような目をしていた。久しぶりに会って話をした昨晩より、ずいぶん不機嫌に見える。

 宿の入り口には、泊まり客が数人と、宿の主人に街の人が集まり、それぞれ顔見知りが同じことを話していた。外の通りにも明かりが灯っている。家畜が襲われたことは気の毒だが、ずいぶん大仰だと思った。

「大きな群れらしい。羊が何頭もやられて、女子どもを街に入れてるところだそうだ」

「ああ……なるほど」

 狼は羊の喉元の、柔らかい肉を好む。狼一匹に羊が何頭も食われることも多い。大きな群れとなれば被害は更に拡大する。遊牧民は駆除のため、弓や銃を使い、夜は火を焚く。けれどどんなに明るくしても、夜闇にまぎれる野生の獣を全て追い払うなど不可能だし、興奮した獣が幕屋の人間を襲うことだって、痛ましいがよく聞く話だ。ここは小さな街だが、さすがにその中心部まで入り込むことはないだろう。対抗手段を持たない女子供を街に匿うのも頷けた。

 起こっていることは分かったが、だからといってどうすることもできずアトリは腕を組んだ。大して戦うすべもないアトリには、手伝えそうなことはない。できることといえば避難の誘導くらいだが、ここで男数人が固まっているのだから、おそらくそちらは人手が足りているのだろう。

「バトの親父さんは弓が得手だから、うまいことやるだろう」

「それにしても、今時分に群れが人里を襲うなんてなあ。山も豊かだろうに」

 ひそひそ交わされる会話が届いて、アトリは改めて、カームと顔を見合わせた。彼は小さく頷き、くせのように首元に手をのばしたが、いつも下げている首飾りはなかった。玉と金属の細工が美しいそれは星読みの証だったが、寝るとき外したままなのだろう。

 カームがおそらく、調査した山やさまざまに観測した兆候を思い出しているのと同様に、アトリも思い出していた。

 ここに来る前、野宿で狼の遠吠えを聞いた。そしてリコが言っていた、声がきこえた気がした、という言葉。アトリの耳には届かなかったそれも、狼の声だったのではないか。

 伝承では、天の恵みは全て山を通して草原に与えられる。すでに山は獣の全てを満たすような状態ではなく、狼の群れは流れ、家畜に惹かれて人里までおりてきたのだろう。

「アトリ」

 じっと考え込んでいるようだったカームが、静かにアトリの名を呼んだ。養母に似た面差しで、なにか思いつめた顔をしてアトリを見上げている。

「リコを起こして、連れてこい。それから、おまえが持っていた銃も」

「あれは預かりもので壊れてるし、おれは使えない」

「それでもいい。リコにはちゃんと着替えさせろ」

 なぜリコを、と聞ける雰囲気ではなかった。アトリと共に部屋に戻ったカームは、上着一枚と首飾りだけ手にすぐに出ていった。寝台で丸くなっていたリコを揺り起こすと、しょぼしょぼした瞳でアトリを見上げた。

「もうあさ?」

「まだ夜だ。でもちょっと起きてくれ」

 なんで~、と間延びした声でまた丸まろうとするリコの腕をとって、アトリは少女を抱き起こした。犬猫のようにそこから逃れようと身をよじるのをおさえて、服を着せる。面倒なので、尻尾を隠す巻きスカートを一枚ぐるりと巻き付けるだけにした。大きめの上着を被せて、帽子を被せる。リコは普段、髪以外の身支度は自分でできる。けれど、いやだからこそかもしれないが、アトリに無造作に着替えさせられたリコは、寝ぼけているせいもあるのか、妙にうれしそうにくふふと笑った。

「行くぞ」

「どこに?」

「おれも分からん」

 なにそれ~、とやはり緊張感のない声が返ってきて、そんな場合ではないがアトリも笑ってしまった。自室から銃の包みを持ち出すと、嫌そうな顔をしたものの口には出さず、アトリの足にしがみついてきた。その背を押してまた入り口へ向かうと、カームが外で待っていた。追って通りに出ると、アトリが肩に背負ったものを見たらしい男が、声をかけてきた。

「あんた、銃を持ってるのか」

 アトリの大柄な体躯と包みから飛び出した銃口に目を奪われて、足元を少女が通り過ぎたことに気付く者は少なかった。カームがリコの手を引くのを確認して、アトリは答えた。

「壊れてるけどな」

 なんだ、とがっかりした様子で肩を落とし、それじゃあそれをどうするんだ、と男は問うた。アトリにも分からなかったので、肩をすくめて、短く答えた。

「ちょっと様子を見てくる」


 そうして宿の裏手に回ると、すでにカームは馬を杭から外していた。コゲの手綱を受け取って、リコを乗せる。リコも目が覚めてきたのか、不思議そうな顔で首を傾げた。

「カームおじさん、どこに行くの?」

「夜の遠駆けだ。丘をのぼろう」

 どうして、とリコが続ける前に、カームは馬を走らせていた。アトリも慌てて、あとを追った。

 定住者の家が並ぶ通りを過ぎると、中心から離れた場所で暮らす一家や立ち寄った遊牧民の幕屋がある一帯に出る。明かりをこうこうと焚いて人が集まっている横を通って、カームは馬上から声をかけた。

「おうい、どんな具合なんだ」

「羊と馬が十頭やられた。これから夏だってのに。あんたたち、どうするつもりだ」

 家長の妻だろうか、腰が曲がった老女が、忌々しげに答えた。

「ちょっと様子を見に来たんだ。男たちはまだ戻ってないのかい」

「たいまつ持って走り回ってるよ。あんたたちも、物見高いのはいいが気を付けな」

 わかった、ありがとうと答えカームは馬の向きを変えた。それを追ってコゲを走らせ、アトリは前に乗せたリコの身体が強張っていくことに気付いた。

「寒いか?」

「さむくない。でも、こわい」

 事情をなにも説明されずに、夜の草原に飛び出したのだ、無理もない。アトリはリコに覆い被さるように、少し身をかがめた。

「大丈夫だ。荷物さえなきゃ、コゲは草原の誰より速い」

「リコがのってても?」

「リコが乗ってても」

 うなずくと、リコは嬉しそうに笑ってコゲの首にしがみついた。それを見ていたのかいないのか、カームは少し速度を緩め、夜空に黒い影となってそびえる丘へ進路をとった。小さな丘を登ると上にはやはり小さなオボーがあって、駆け抜けてきた街も全景が見えた。普段なら黒い塊程度だっただろうが、あちこちで火を焚いているのが、夜空の星のように小さく輝いて見える。中心部にある大きなオボーのそばで、人が焚火を囲んでいるのさえうっすら見えた。

 カームが馬を降りてリコを招くので、アトリもリコを降ろした。カームは町の灯とは反対側の暗い草原の方を向き身体をかがめ、リコを引き寄せた。

「リコ、なにか聞こえるか」

「…………声がきこえる。それに、においも」

 アトリはごくりと唾を飲んだ。やはりカームは、リコになにかさせるために連れてきたのだ。リコもそれを理解した様子で、すっと表情をなくし夜風に立ち向かうように金の瞳を見開いた。カームがリコの帽子を取り、アトリに手渡す。リコの耳がぴくぴくと揺れ、尻尾がスカートの下で総毛立ちぶわりとふくらんだ。

「たくさんいるのか」

「たくさんいる。……お父さんは、むこう」

 群れの頭のことだろうか。アトリたちにはなにも見えない暗闇を指さして、リコは堂々としていた。寝起きの気怠さや馬上での不安げな様子とは別人のようだ。けれど確かにリコである証拠に、アトリとカームを見て、小首を傾げた。

「どうするの?」

「……家畜が襲われたんだ。よそへ行くよう、伝えて欲しい」

 カームの言葉に、アトリはまさかと思った。けれどリコは無表情のまま分かったと頷き、ふたたび、視線を虚空へ戻した。

 すう、と大きく息を吸って、上着の胸がふくらんだ。そのまま獣のように胸を反らして、夜闇に向かって吐き出した。


 ――アオオオ――――……ン


 本物の、狼の遠吠えだった。夜のしじまに長く遠く響いて、草原に染み渡っていく。小さなリコのどこから出たのか分からないその鳴き声は、リコの声だと知らなければ慌てて逃げ出していただろう。山の強き獸そのものだ。

 ――オオォ――ン

 眼下に広がる草原のどこかかから、返答があった。リコはまた息を吸って、もう一度吠える。カームの馬が逃げ出そうとするのを、カームは腰を落として抑えている。コゲも落ち着かない様子で耳を立てリコを見ていた。アトリとて、こんなに間近で狼の遠吠えを聞くことなど初めてで、本能的な恐怖で唇が震えた。

 しばらく間が空いて、また返答があった。それを聞いたリコはほっとした様子で緊張で強張っていた肩の力を緩め、アトリとカームを振り返った。

「どこかべつのばしょへ行ってくれるって」

「……そうか、ありがとう」

 平然としているように見えるが、リコの頭をなでるカームの手が震えていることに、アトリは気が付いた。アトリも震える唇を一度噛んで湿らせ、リコの前にしゃがみ込んだ。

「ありがとな、リコ」

 ふたりの言葉に、リコはにっこりほほえんだ。

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