人の群れ、狼の群れ-3


「ほうら、できた」

 カームにポンと軽く頭を叩かれて、リコはにっこり笑った。

「ありがとう、カームおじさん」

「リコはくせっ毛だからな、きちんと結ってやらないとすぐ絡まる」

 うん、とうなずくリコが嬉しそうで、様子を見ていたアトリは不機嫌だった。

 なにしろ、カームに出会ったリコの第一声が、おじさん髪を直して、だったのだ。カームがそれに、おういいぞと答えたのも意外だった。あんたたち知り合いなのかい、と宿の主人に聞かれアトリは返事を渋ったが、カームは鷹揚にうなずいた。隣の部屋をとったカームは荷物を置くとアトリとリコの部屋にずかずかやってきて、存外器用な手でリコの髪を編んでいった。

「ほら見て、アトリ。かわいいでしょ」

「はいはい、かわいいかわいい」

 適当にあしらうと、リコはもう! と頬を膨らませて怒る。それを見てカームが目を細めるので、ますます意外でアトリは椅子の背に肘をかけ、足を組み直した。

「なんでこんなことできるんだ」

「おまえ、おれに娘が三人いることを忘れてないか」

「あー……そうか」

 アトリが家を出たころ、二人目が生まれるくらいだった。義兄にとってリコは、娘たちの一人という感覚だったのかもしれない。それくらい、リコとカームは自然だった。

「おじさん、ファルマちゃんたち元気?」

「リコとアトリが出て行ってからすぐ、おれも里を出たからなあ。まあでも、元気だったよ」

 ということは、山の様子を見に行っていた彼は、そこから戻ってすぐに里を出発したことになる。その理由は大体想像がついたが、はっきり知っておきたくてアトリは尋ねた。

「カームはどうして、こんなところまで来たんだ」

「分かってるだろ、アトリ。おまえ、ボルドのところで世話になっただろう」

「会ったのか」

「ああ。向こうもちょうど、おれたちの見解を知りたがってたからな。それにおまえたちのことも心配していたよ」

 やはり、星が告げるよくない兆候を知らせて回っているのだろう。詳しく聞こうとしたとき、遮るようにカームは立ち上がった。

「まずは飯を食おう。話はそれからだ」

 それから、リコの頭をまたひとつなでる。耳がぴょこぴょこ嬉しそうに動いた。

「リコも、こんな街に来るの初めてだろう。うまいもの食わせてやるよ」

 やったあ、とはしゃぐリコの顔は、アトリといるときよりも子どもらしく、無邪気に見えた。それがむしょうに悔しかった。


 街の店屋で焼き飯や甘味をたらふく食べ、宿の部屋に戻るころにはリコは半分眠っていた。仕方なく抱き上げてやると、仔犬のようにぐりぐりと額を胸に押しつけてくる。それを寝台に寝かせると、いつものように丸くなってすやすや眠り始めた。

「懐かれたな」

「どうかな。なめられてるとこもあるよ」

 アトリの言葉に、カームは声には出さずに笑った。本当の子供を見守るような表情に、ひょっとしてこの義兄は、リコを里から出すことに反対だったのではないだろうか、と考えが浮かんだ。それを証明するかのように、カームは椅子に座ると、静かに口火を切った。

「アトリおまえ、やっぱりリコと一緒に里に戻ってこないか」

 すぐには答えず、アトリは長く息をついた。向かいの椅子に座って視線を合わせないまま言葉を探しあぐねていると、カームは更に続けた。

「おまえも気付いているとおり、今年は厳しい年になる。雪解けは遅く山でも里でも獣の仔は少ないし、夏は本格的に水も涸れ、人も獣も食いつなぐのに苦労するだろう。冬の様子はまだはっきりとは読み取れないが、きびしい、つらい一年になるはずだ。おまえ一人ならともかく、リコを連れて根無し草で、この一年をしのげるか」

「……やっぱり、それを伝えて回っているのか」

「そうだ。だから単純に、里に人手が増えると助かる」

 各遊牧民や街の有力者に星読みの結果を伝え、人々が身を守る備えをできるよう通達するのは、里長のトゥーラではなくカームの役割だった。単純に若い男であるカームの方が動きやすいし、カームは気候や天災を読むことに長けていて既に人々から信頼を集めている。

「おれが戻っても、助けにはならないよ。力不足だ」

「おれはそうとは思わん」

 カームは静かに、けれど確信を持った声で断言した。そこには責任感と善意しかない。アトリは義兄のこういうところが苦手だった。昔から仲が悪かったわけではなく、カームはいつだってアトリを助け、庇ってくれた。アトリがそれを受け入れられなかっただけだ。

 アトリがまた答えを探して沈黙していると、義兄は少し焦れた様子で、テーブルの端をトントンと指で叩いた。

「だいたいおまえたち、どこまで行くつもりなんだ。おれはもうとっくに西の果てあたりへ向かっているかと思ってた」

「唐突だな、なんで西だよ」

「コゲだって、おまえが向こうから連れてきた馬だろう。向こうの人間なら、リコにおどろかないんじゃないのか」

「なんだそりゃ」

 堅実で誠実で慎重なカームらしくない飛躍した考えに、アトリは思わず吹き出した。たしかにコゲはアトリが西の国を旅したときに連れ帰った馬で、リコに怯えない。けれどそれは、単純にコゲの性格だろう。

「向こうの人間だって同じだったよ。おれはよそ者で、やっぱり居場所がなかった。だからもう、どこにいても同じだと思ったんだ」

 六年前、どうしても自分と同じような人間を探したくなって、アトリは西の国へ向かった。鉄を扱う隊商に加えてもらって旅をして、たどりついた街で一年ほど暮らし、言葉や鉄の扱い、西の文化や細工をいくつか覚えた。けれどどうしてもなじめず、結局コゲだけ連れて草原へ帰ってきたのだ。

「……でも、リコにとってもそうかは分からない。リコはおれよりだいぶ図太いし。だから、あの里や山の他にリコにとってよい場所があるなら、探してやりたいと思う」

 混じりけのない本心だった。小さな腕がすがってくるのを引いてやり、自分が見つけられなかったものの代わりをリコに与えてやりたいと思う。リコと同じような人間を見つけることはできないだろうが、せめてよい場所をと願う。行く当てのない旅をするアトリだからこそ、できることかもしれない。


 カームはしばらく考え込むように動きを止めた。それから、ゆっくりと手を上げて指を組み合わせた。

「本当は、おれたちがそのよい場所になってやりたかったんだけどな」

「故郷だとは思ってるよ。あとはおれの問題だ。リコにとっても、兄貴はきっといいおじさんだろう。リコをおれに任せたのはおふくろだ」

「リコを見てれば、おふくろは正しかったんだとわかる」

「どうかな……」

 カームはいくぶんくつろいだ様子で椅子に背を預けた。そこまで確信できないアトリは、短く答えて逆に少し身をかがめ、己を抱くように腕を組んだ。

「おまえの考えは分かった。それなら、旅すがらでいいから、夏の備えをしっかりするように皆に伝えてくれないか。水が足りなくなれば遊牧民も隊商も街に集まるだろうし、獣が山からおりてくることもあるだろう」

「それくらいなら、まあ」

 どれだけ信頼してもらえるかは分からないが、それを断るほどアトリも無関心ではない。

「頭の固い遊牧民連中のところはおれが行くから、アトリは隊商や街の人へ伝えてくれれば、それでいい」

「うん……」

 うなずいてふと思いつき、アトリは顔を上げた。

「イリスの隊商を最近見かけたか? この辺りにいる時期だと思うんだが」

「彼女なら、去年別の男と結婚して南に行った」

「えっ」

 おどろいて思わず身を乗り出したアトリを真正面からまじめな顔で見たあと、くはっとカームは笑い出した。

「嘘だよ、ばか」

 声に出して笑うので、アトリは赤面してうつむき、深く息をついた。リコの耳と尻尾を初めて見たときと同じくらい、おどろいた。

「そういうのやめろよ。そもそも、別れた覚えがねえよ」

「おまえ、まだ愛想尽かされてないつもりだったのか。けっこう図々しいな」

 義兄の指摘には沈黙で答え、アトリはリコを見た。はじめひそひそ声だった会話は大きな声になっていたが、リコはすやすや眠り続けている。

「最近は見てないな。もう少し南の方に行ってるんじゃないか」

「わかった。もう聞かない。ありがとう」

 この話は終わり、とばかりに手を振ると、カームはますますおかしそうに笑った。昔からアトリを気にかけてくれるカームだが、それと同じくらい、年の離れた義弟をからかうことが好きな男だった。行き過ぎて泣かされたことも何度もある。

 やっぱりこいつは苦手だ、と思いながら額によった皺をほぐしていると、ターバンの隙間から前髪が一房こぼれた。もう夜だし、あとは寝るだけだし、もう良いかと思って頭の布をとってしまうと、慣れきっているとはいえ開放感があった。

「伸びたな。ほったらかしじゃないか」

「おふくろと同じこと言ってら」

 混ぜ返すように答えると、カームは母とよく似た黒く深い瞳でアトリをまっすぐ正面から見つめた。

「おふくろがおまえを拾ってきたときからずっと、きれいな色だと思ってるけどな、おれは」

 カームはリコを里から出すことに反対だったのではないか、と考えたが、唐突にアトリは思い出した。アトリが里を出て行くことに最後まで反対していたのも、カームだった。

 いたたまれずに、ターバンをテーブルに置いて、アトリはあちこち視線をさまよわせた。ちょうど部屋の隅に置いていた預かり物の壊れた銃に目が行き、いくぶん逃避した思考でもって、どうやって直したものかと考える。アトリの視線を追って同じものを見つけた義兄が、なんだと手を伸ばした。

「銃だよ。修理を頼まれてる」

「ほー、おまえ、そんなものも扱えるのか」

 分からんけど、と返して話が逸れたことに感謝していたが、カームが布を開いたとたん、リコがむくりと顔をあげたのでおどろいた。

「くさい」

「あ、鉄か」

 心得た様子でカームはそれを再び包み直したが、一度気付くともう眠れない様子で、リコは起き上がってぶるりと尻尾を振った。寝ぼけた顔だが、目は据わっている。

「くさいから、ここやだ。カームおじさんのところで寝る」

「えっ……リコ、おまえ」

「おう、いいぞいいぞ」

 軽く答えてカームはリコの頭をなでた。その手にも鉄の匂いがついているはずではないか……と思ったが、リコはとにかく、発生源から離れたいらしい。カームがひょいとリコを抱き上げると、アトリにしたようにぐりぐり頭を押しつけていた。

「おれの部屋で寝かせるよ。それじゃあ、おやすみ」

 アトリはパタンと閉じる扉を見るしかなかった。ここ最近ずっとリコの尻尾のあたたかさを享受していたので、それを奪われたような気分である。くそっとつぶやいて、さっさと修理なんて終わらせてやる、とアトリは再び銃を取り上げ、包みを開いた。

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