第三話 人の群れ、狼の群れ
人の群れ、狼の群れ-1
狼の遠吠えを聞いたような気がして、アトリは目を覚まし、身体を起こした。
隣ですやすや眠るリコを軽く見やって、天幕の外に出る。まだ夜も深く、曇り空なのも相まって本当の闇夜だった。くすぶっている焚火を蹴って空気を入れてやる。
薄い青の瞳をこらしてあたりを確認するが、周囲に狼はおろか、獣の気配は愛馬のコゲしか感じられなかった。そのコゲも、アトリの動きで起こされたのか、こちらを見ているがいたって落ち着いた態度である。アトリはほっと息をついた。どうやら、近くに狼の気配はなさそうだ。
それでも、また寝入ってしまうのは怖かった。彼が火のそばに腰を下ろし、熾火に手をかざして暖まっていると、天幕の中でリコがもぞもぞ動く気配がした。
あの遠吠えは、仲間を呼んでいたのだろうか。出会えたのだろうか。
少女の気配を背中に感じながら、アトリはぼんやり考えた。
◇
狼の遠吠えはその後は聞かれなかった。朝になってリコが目を覚まし、まだ眠そうな様子で耳も尻尾も力なく垂たしたまま目をこすって天幕から出てきた。狼と呼ぶには頼りないその様子に笑ってしまう。
笑っていられたのはそこまでで、昨晩の残りの粥とお茶、干しブドウで朝食をすませると、出発の準備をしなければならなくなった。ボルドの幕屋を出てから既に十日以上経ち、今日にも目指していた街へ着く算段だった。
「ねえ、ちゃんとやってる?」
「こら、動くなって」
リコを前に座らせて、アトリは少女の長い髪と悪戦苦闘していた。「きれいにしてもらった」編み込みも、数日馬に揺られて地面に寝転がって過ごしていればすぐにほつれ放題になってしまう。街へ行くならきれいにしてほしい、と昨晩から言われていたが、髪を編んだことなどないので見よう見まねでやるしかない。リコがすぐにアトリを振り返ろうと動くのでなにもかもうまくいかない。
「お祝いのときみたいに、リボン入れてあんで」
「無茶言うなよ。できるわけないだろ」
「やってよー!」
「おれにはできないの」
里の女が持たせてくれた荷物にはしっかり櫛も入っていた。ほつれて土や草が絡んでいる黒髪を丁寧にくしけずってやると、少しくせはあるもののつやが出てきた。何度か失敗してもう一度櫛をかけてやりながら、アトリは耳の生え際に指を寄せた。
つむじの少し横後方から狼の耳が生えていて、人間の耳がある部分は何もない。耳の根元は髪と同じ黒で、先端になると灰が混ざる。リコの背とアトリの腹の間で揺れる尻尾は灰が多く先っぽは白いので、耳はそれより色が濃い。毛並みは短いが針のようにまっすぐで硬く、いかにも狼の毛らしかった。
「ひゃあっ!」
「あ、悪い」
耳をさわる手に知らず力が入っていたのだろうか。リコが飛び上がらんばかりの声を出したので、思わずぱっと手を放す。耳を押さえながら振り向いたリコは、恨みがましい目をしていた。
「ごめんて」
「ぎゅっとさわらないで」
「悪かったよ」
これ以上余計なことはしない方が良いと判断して、アトリは適当に髪を分けて二本の三つ編みにした。左右の太さがちがうし緩いところときついところが混在する結果になったが、仕方ない。リコは二本の三つ編みを両手で握って不満そうな顔にしていた。やり直してと言い出す前に、アトリは小さな頭にフェルトの帽子をかぶせた。
「街にいる間は、それを被ってろ」
「耳をかくすの?」
「まあ……そうだな」
隠せと言われて気を悪くするかと思ったが、気にしない様子でリコはわかったー、と答えた。白地に色糸で刺繍が入った帽子を気に入ったのかもしれない。一度外して手に取って、ぐるぐる回してうれしそうに見ている。
アトリはそれを見ながら、自身の頭をぐるぐるとターバンで覆った。養母に言われたように、長いこと放ったらかしにしているので髪が伸びてきている。もう少しで一つに結べるだろう。白いターバンでそれをきっちり包む。自分たちはふたりとも頭を隠しているのだと思った。
アトリを見上げるリコがくふふ、といかにも楽しそうに笑うので、なんだよと問う。リコは帽子をかぶって見せて、
「おそろい」
と言ってまた笑った。
◇
草原の集落は遊牧民や旅人がそこを通るうちに自然発生的に生まれるもので、人の行き来が少なくなれば、すぐに消えてしまう。もう少し南にいけば、砂漠を東西に横切る交易路があるので、どうしても人はそちらに集中する。北部は厳しい土地で、人が集まることができる地域は限られている。
北の街、北の集落と簡単に呼ばれるその街は、簡単には消えさらず、昔から変わらず旅人を迎え入れてくれた。
「すごいね、人がたくさんいる」
コゲの馬上から、遠くに幕屋や建物のかたまりを見つけて以来、リコは興奮した様子で目を輝かせ続けている。
街といっても、門や塀があるわけではない。付近に逗留している旅人や住人の幕屋がまずあって、中心に近くなれば石やレンガ組みの建物が並ぶ。中心にはオボーと水場があって、周りは市場の敷物や天幕が並んでいる。それも、大きな街と比べればあまりにもちっぽけだったが、里を出たことがなかったリコにはなにもかも新鮮に映るのだろう。
アトリはリコだけをコゲに乗せ、自身は愛馬を引き歩いていた。そうしなければリコは好き放題走って行ってしまっただろう。
「アトリ、あっちのお店見たい」
「あとでな。まずは宿だ」
「今日、ここにとまるの!?」
「泊まらんで通り過ぎるつもりだったのかよ」
アトリの揚げ足取りにも気付かぬ様子で、リコはキョロキョロあたりを見渡している。その隙にアトリは宿屋を目指した。この街に宿は一軒しかない。オボーをぐるりと回って入り口から覗くと、男が一人手作業をしながら座っていた。アトリに気付いて顔をあげる。
「あんたひとりかい?」
「いや、あと子供がひとり。馬は一頭だ」
「それじゃあ、裏につないできな。子供とふたりなら、一部屋でいいだろう」
頷いてコゲを連れて建物の回る。既に何頭かが木の杭につながれていた。その端にコゲの手綱をつないで、荷物とリコを下ろす。コゲは身を震わせてせいせいしたような顔をした。
「お疲れさん、ありがとな」
いたわって首をなでたが、コゲはツンと鼻を逆方向に向けた。この相棒とはもう長い付き合いになるが、なかなかどうして、気難しい奴である。年をとっても若駒のような態度でアトリを困らせることもある。苦笑して、その鼻を追って叩いた。
リコとふたり宿の表に戻ると、あるじはアトリの顔を見てほほえんだ。四十がらみの、人のよい顔だった。
「ああ、なんだあんたか、アトリさん。子供なんて言うから、分からなかった」
「最近預かった子なんだ。よろしく」
アトリがリコの頭にふれて促すと、リコはぴょこんとお辞儀した。あるじは更に相好を崩して、ふたりを招く。
「奥の部屋を使ってくれ。今鍵を開けよう」
「ああ、ありがとう」
「どれくらい泊まるんだ?」
その問いに、アトリは少し考えた。手持ちの路銀と食料と、いろいろ考え、答える。
「決めてないんだ。だから、後払いで頼む」
人のよい宿のあるじは、部屋の鍵を開けながらそれでも眼光鋭くアトリを振り返った。
「金はあるのか?」
「宿代くらいは。でも、手持ちは少ないからなにかおれにできそうな仕事はないかな」
身体をかがめて開いた戸をくぐる。たいていの建物で、入り口や部屋の戸はアトリの背より低い。荷物を床に置いて振り返ると、あるじは考えるように顎に手をあてていた。
「なにかしらはあると思うが。考えておくよ。あとでまた聞いてくれ」
「ありがとう。助かる」
彼が出ていって、アトリはふうと息を吐いて寝台に腰かけた。狭い部屋に、寝台がひとつと、小さなテーブル、椅子が二つ。それきりだった。寝台の頭側に窓がひとつ空いて明かり取りになっている。リコは物珍しそうにそれらのしつらえを見たあと、アトリのそばまで来て小首を傾げた。
「ここでなら、ぼうしをとってもいい?」
「人が来そうな時は、必ずかぶれよ」
うん、とうなずいてリコは帽子を取る。もはや見慣れた耳があらわれ、ぴょこぴょこ動いた。帽子の中はきゅうくつだったのかもしれない。手招いて、普通の服の上から更に重ねた巻きスカートも取ってやる。里で持たされたリコの服は尻尾が出せるよう細工してあった。解放された尻尾もまた、自由に喜ぶようにピンと伸びた。
「ここにしばらくとまるの?」
「金稼ぎのつもりだったけど、リコがそれ隠すの面倒なら早く出るか」
「いいよ、リコならだいじょうぶ」
慌てたようにリコは両手を振った。街をもっと見てみたいのだろうとは想像がついて、アトリは苦笑した。リコはそんなアトリを見て、更に首を傾げた。
「アトリは、それめんどうじゃないの?」
「それ? 頭?」
「そう」
防寒、護身、装飾。さまざまな目的で、このあたりの男は帽子を被ることが多い。さきほどのあるじだって、薄手の帽子を被っていた。アトリの場合、それがターバンになるだけだ。面倒だと思ったことはなかった。リコとちがって、アトリは自らそれを被っているのだ。
「おれはべつに。考えたこともなかった」
「そうなんだー」
リコはのんびり答える。アトリの金髪を知っている人間はたくさんいれど、彼が自分からそれを見せてもよいと思っている人は限られている。
リコの金の瞳でじっと見つめられると、心の深い場所を覗かれているような気がする。すると普段は気にしないことまで考えてしまって、アトリは答えの出ない問いを頭から振り払った。
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