はぐれもの、二匹-3


「だから、来たくなかったんだよなあ」

 コゲのところまでひとりで戻って、アトリは深いため息をついた。いつの間にか、太陽は傾いて空は夕焼け色になっている。

 ボルドは昔から、アトリに対して敵意を隠さない人間だった。草原の民は国も君主も持たず部族間で縄張り争いをしているくらいだが、西の果てには王を戴き国を持ち、強大な軍隊でもってあちこち侵略する民もいる。草原の端で暮らす者ほど、彼ら異民族の兵隊に土地を奪われ苦しめられた経験があり、警戒心が強いものだ。

 もっとも、草原の民とてただやられているわけではない。馬に乗れば、世界中のどの民族よりも強く速く戦うのが草原の民である。西の果てで繰り返された小競り合いの末、お互い痛みわけとなったのは、そう遠い過去の話ではない。

 アトリの容姿は、彼らが憎み恐れる西の国の民そのものだった。

 小さな赤ん坊がその血を引いていたとして、罪まで受け継ぐわけではない。だから星読みの里でアトリはさほど差別されずに育った。けれど毎日アトリを見て、赤ん坊から子供に育っていくのを見守った大人たちと、たまにしか顔を合わせない人間ではやはり意見が異なる。

 アトリ自身には罪はない。けれど赤ん坊が落ちていたということは、親である西の民が、近くまで入り込んでいたということだ。いつアトリを奪い返しに来るか、あるいは彼を通して財産や情報を持っていこうとするか分からないから、早く捨てた方がいい、というのがボルドの意見だった。

 ボルドの息子たち――末子が家と土地を相続する習わしなので、ホランの兄たち――もまた、父親と同じ意見でアトリを責めた。トゥーラの息子であるカームは彼らと年が近かったので、いつもアトリを庇ってくれた。けれど義理の兄弟として微妙な距離感があり、大きくなるにつれ縁が薄れた。

 ひとりでも十分生きていくことができる年になって、アトリは里を出た。以来、いろいろなところを流れ人と暮らすこともあったが、結局は、こうしてひとりでいるのが楽だった。


「アトリ」

 呼ばれて振り返ると、複雑そうな顔のホランが立っていた。手にはアトリのターバンがある。家長である父に逆らうことはできないが、心情的にはアトリを庇いたいと思ってくれているのだろう。アトリにはそれで十分だった。

「悪いな、親父さまは、やっぱりずっとああいう人で」

「分かってて来たんだ。大丈夫だよ」

 手渡されたターバンを巻こうとして、この後に及んでその行為に意味を見いだせず、アトリは手を止めた。隠そうとしても、旧知の人には知られているし、こうして一枚布を剥いでしまえば簡単に曝かれる。

「ホランがいてくれただけでも、おれにはありがたかった。おまえがあるじをやってる時代に生まれたかったよ」

「さあ……それはどうかな」

 意外にも彼が苦い顔のままなので、アトリは彼を改めて見下ろした。たまにしか会わないし、そこまで親しい仲だったわけではない。けれどホランはアトリにとって、貴重な同世代の友人だった。

「おれだって、アトリと年が近くなきゃ、兄貴たちと同じようにおまえを否定したかもしれない。親父さまの歳になれば、新しいものを否定しているかも分からない。……ここは、生きているだけでも大変な土地だ。よく分からないものを、新しくてよく知らないものを認められない気持ちは、おれにだって分かる」

 実感が伴われた含蓄のある言葉におどろく。童顔のままだと思ったが、夕日の中に見る顔は、年相応に疲れて見えた。跡継ぎとして、早くから結婚して子をもうけ、厳格な父親と同居している彼には、彼にしか分からない心境があるのだろう。けれどそれならアトリにだって、アトリにしか分からない心理があると思った。

「それじゃあ、リコはどうなんだ。リコだってよく分からない存在じゃないのか。どうしてリコは無条件に崇めるんだ」

「よく分からないから、だろう」

 思わずぶつけてしまった言葉だったが、ひどく冷静に返された。

「よく分からないけど、崇め祀っているものに近いからそうしている。そうしないと怖いからだ。――逆に思うよ。アトリはよく、あの子を普通の娘のように思えるな、って」

 その答えは、アトリにとって衝撃だった。

 リコのことも恐れていたのか。よく分からない存在だから、大きな枠の中でなんとなくとらえることしかできない。アトリは大きく西の民として扱われ、リコは始祖の狼として扱われる。それだけの違いで、自分たち以外の他者からしてみれば、アトリもリコも、どちらも同じように枠外の存在なのだ。

「でも、リコは――……」

 リコがどんなふうに羊の数をかぞえていたか。旅装を着せられてうれしそうに回って見せて、子供らしい率直な物言いでアトリをおどろかせたか。それは普通の子となんら変わりなかったのに。

 それを本当にそのまま受け止めるのは、おそらくこの草原には自分だけなのだと、アトリはようやく理解した。そしてリコは、アトリをそのまま受け入れてくれるだろう。草原で、アトリとリコだけが全ての枠から外れていて、お互いだけがわかり合える。だからトゥーラはアトリを頼った。

 たった数日あの子と過ごしただけで、ずいぶん心を傾けてしまったことを自覚してアトリは自嘲した。大人になって虚勢を張るようになっても、自分の中には臆病で、繊細で、傷つきやすい部分が残っている。だからこそ、ひとりでいる方が楽だったのに。果たして本当に、あの子が同じ思いを返してくれるかも分からないのに。

 胸が詰まって、アトリはコゲのたてがみに顔を埋めた。優しい相棒は、鼻先をアトリの金の頭に寄せてくれた。

 ――そのときだった。


「……アトリ!」

 ちいさな子供の声が、それらしくない必死さでアトリの名を呼んだ。

 顔を向ければ、リコが髪を振り乱し、耳と尻尾の毛を逆立てて走ってくる。その勢いのまま、飛び上がってアトリに抱きついた。軽くはない体重がかかって、アトリはよろめき、大地を踏みしめた。

「……リコ?」

「アトリ、行かないで。行っちゃやだ。リコもちゃんとつれてって」

 泣きながら、胸にぐりぐり頭を押しつけてくる。泣き声の中に、コゲの面倒もちゃんと見るから、という言葉が聞こえた。どうやら、コゲを前にしたアトリが今にもその馬に乗って出ていきそうに見えたらしい。まったくそんなつもりはなかったのに。おかしくなって、アトリは笑ってリコの頭をぽんと叩いた。

「行かない。行くつもりもなかった。リコをおいては行かないさ」

「ほんとう?」

「本当だ」

 泣き顔でアトリを見上げるリコは、金の瞳からぽろぽろ涙をこぼして鼻を真っ赤に膨らませて、たいへん不細工に見えた。けれど、幼い頃トゥーラにおいて行かれそうになったときのアトリもおそらく同じ顔をしていた。そしてきっと、親において行かれそうな時の子供はいつだって、同じ顔で泣いているのだろう。

 孤独の方が肌に合っていたとしても。決して同じ存在ではなかったとしても。いつか別れる日が来るとしても。せめてこの小さな娘が生きていける場所を見つけるまで、支えてやろう。そう思った。


 飛び出したリコを追ってきたのだろう、ユンやボルドなど、大人たちが集まってきた。泣くリコを抱いたアトリを見て、ユンは安心したようにほほえんで、ボルドは逆に苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。リコを抱き直しながら、アトリは彼らに頭を下げた。

「一晩だけ、リコを休ませてもらっていいですか。おれは外でもいいので」

「な――」

「当たり前でしょう。一度は幕屋に招いた子よ。ちゃんともてなさないと、あとで返ってくるわ」

 夫を遮るように請け負ったユンに少しおどろいたが、目線でボルドに確認すると、彼はしっかり頷いた。

「当然だろう。旅人をもてなさなかったとあったら、誇り高いスレンの息子の名が汚れる」

 先祖の名を出して請け負ってくれたとおり、彼らはアトリたちを歓待してくれた。結局、困っている旅人にはできるだけ与え施すのが草原の流儀なのだ。それがいつかは返ってくるものだと考えられている。

 アトリにはたくさんの肉饅や、遊牧民の幕屋では珍しく野菜を入れたスープを振る舞ってくれたし、まだ本調子ではないリコには、麦とチーズをたっぷり入れて乳で煮た粥を用意してくれた。これを持って行きなさい、と言ってユンは麦や乳をアトリの荷に詰め込んだ。

 思い出話や近況を語ったあと、リコは用意された寝床で早々に丸くなった。尻尾を身体に巻いて眠る様子がまた狼らしかったので、皆は更に強くリコに畏敬の念を抱いたようだった。それでも、他の子供たちと一緒になって眠る顔はあどけなかった。

 アトリも近くに寝床を用意されたのだが、他の皆が寝静まったあと、彼はそっとそこを抜け出した。衣服のあわせをしっかり閉めて外に出ると、芯から冷える夜だったが空はよく澄んでいて、降るような星空が広がっている。

 四つの幕屋の真ん中で木箱に座って、彼は本当に久しぶりに、誰かのために空の星を読んだ。天はすべてつながっており、遠く離れた場所でも同じ星を見ることができる。けれどやはり慣れ親しんだ故郷に近いこの空のことは頭の奥に刻み込まれていて、星の動きと色を見て、大地の息吹を感じながら、素直な気持ちで星々が投げかける意味を読み取った。


 ◇


 翌朝、リコはすっかり元気になって、初めて訪れた家に今更ながら興奮した様子で飛び上がって笑っていた。アトリがコゲに荷物を積んでいると、ホランがその背に声をかけてきた。

「アトリ、親父さまがおまえにこれを持たせろって」

「え?」

 見ればそれは小さな天幕だった。遊牧民の家族が建てる幕屋には及ぶべくもないが、ふたりで一晩過ごすには十分雨風をしのげるだろう。素直に受け取ってから、アトリは尋ねた。

「いいのか?」

「親父さまが言うんだから、いいんだろう。母上も、できるだけのものを持たせろと言うし」

 まさにユンのその言葉のおかげで、荷物が――主に食料が――だいぶ増えてしまったのだった。里を出る時とはちがって己の至らなさに気付いていたので、アトリもそれを断らなかった。天幕もありがたくいただくことにする。

 鞍の背にちょうど収まりそうだったので乗せると、コゲは面倒そうな顔をした。ますます歩みが遅くなるな、と苦笑する。

 コゲを引いて人が集まる場所へ向かうと、リコがなにやらにこにこ笑って話していた。リコ、と呼ぶと、ぱっとこちらを振り返り、嬉しそうに走ってくる。

「見て! かみをきれいにしてもらったの」

「……ほー、なるほど」

 たしかに、よく見ると細い編み込みがいくつかまとまって、太い二本のお下げになっていた。しかし遠目にはこれまでと大して変わらず、興味のなさが態度に出ていたのだろう。リコはぷんすか怒って両手を握りしめた。

「かわいいでしょ!」

「ああ、かわいいかわいい」

「もう! ちゃんと見て!」

 アトリの方は本当に普段通り、ターバンで頭を包んでいた。少し風が強く、ターバンの余った布もリコのお下げも揺れる。怒るリコをなだめてコゲの上に抱き上げると、アトリは改めて幕屋の前に並ぶ人々に頭を下げた。

「天幕までいただいて、本当にありがとうございました。これで少し安心して先へ行けます」

「リコのためだ。気にするな」

 きびしい土地で生まれ育った厳格な男は、相変わらずしかめ面で頷いた。ボルドへの苦手意識は払拭しようもないが、家族を守るためきびしくならざるを得ないのも分かる。アトリは顔を上げ、真剣な表情でボルドをまっすぐ見返した。

「……もしかして、ここらの水場が涸れ始めてるんじゃないですか」

 ぎょっとしたように、彼らは互いの顔を見合わせた。やはり、と察してアトリは静かに続ける。

「里で聞いたことだけど、今年は春の星に先んじて獣が仔を産み始めたらしい。昨日ここで星を読んだが、夏の訪れも早そうに見えた。けれど今の気候はまだ寒い。きっと、夏も冬も厳しい、変化の激しい年になる。早いうちに別の場所へ移動した方がいいかもしれない」

 昨日、ボルドは放牧のついでに水場を見に行っていると言っていた。草原で水を得られる場所は多くない。貴重なその場を巡って部族間で争いになることも多い。そして水涸れは、異常気象の前触れだ。大地に生きる彼らは、敏感にそれを感じ取っていたのだろう。

「おれの言葉が信じられなければ、里に行って聞いてみるといい。カームがその兆候を探しに出かけていたけど、もう戻っているだろうから、もしかしたら里の方から知らせが届くかもしれない」

 ボルドはしばらく黙っていた。己が見たものとアトリの言葉とをすりあわせていたのかもしれない。やがて彼はアトリの目を見て頷いた。

「分かった。情報礼を言う。トゥーラに尋ねてみることにしよう」

 おれにしては十分やったな、とアトリもその答えに満足して頷いた。相容れない者同士ではあるが顔見知りだ。苦しんで欲しくはないと思う。まして彼はホランの父親だし、こうしてアトリたちをもてなしてくれた。

 本当にこれでしまいと思って、アトリは軽やかに馬の背に飛び乗った。荷が増えて少しぐらつくコゲの動きを安定させて、リコをしっかり前で抱えた。

「アトリ、このあとどこへ行くつもりだ」

 ボルドの言葉に、口布を上げる手を止めてアトリは答えた。

「東南へ少し下って、街道の町へ寄ろうかと」

 東の国から西の国へ草原を横断する主要な交易路ではないが、細かな道が敷かれていて、遊牧民たちの交流の場となっている町がある。そこなら金を少し稼ぎつつ、必要なものを手に入れられるはずだ。知人がいる可能性も高い。

 東南か、とボルドは呟き、思案するように顔をいっそうしかめたあと、アトリを見上げた。ひどく真剣な表情はこれまでで一番厳めしく、アトリの中の少年はおそろしさに震え上がった。

「町へ行くなら、よく気を付けろ。あそこには色々な人間が寄る。良いものを良いと判じれない連中もいるからな」

 ちらりとリコを見やったのをアトリは見逃さなかった。要は、リコを守るようにと言いたかったのだろう。言われるまでもないが、慎重な忠告はありがたく受け取っておくべきだろう。

「分かりました。ありがとうございます。……それじゃあ、また」

 最後の挨拶はあっけなく、アトリはコゲに合図して歩かせ始めた。文句を言いたげな顔をしながらも、コゲはアトリの言うことを忠実に聞く。

 コゲをゆっくり進めていると、リコが丸い瞳をくりくりと輝かせてアトリを見上げた。健康そのものといった顔だったが、アトリは昨日の潤んだ瞳を思い出してしまった。

「リコ、調子が悪いとか、なにかおかしいとか――とにかく、言いたいことがあったら、なんでもすぐに言うんだぞ」

「なんでも?」

「ああ、なんでも」

 分かった、と元気良く答えたリコにほっとしたアトリだが、蝶が飛んでいる、バッタが大きい、雲の形が変わったなどと報告を受け――「なんでも」が本当に「なんでも」であることを思い知らされ、自分の言葉に後悔するのは、それからいくらも行かないうちだった。

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