はぐれもの、二匹-2
丘を一つ越えると、草原に羊の群れが見えた。遊牧民が近くにいる証である。見守る者もなく、勝手気ままに放牧されている羊たちを横切って、アトリはリコを抱いたまま更に二つの丘を越えた。
ちょうど太陽が天頂にとどく時分になっていた。その南に戸を向けて、幕屋が四つ建っている。青い瞳を細めてその周囲で働く人々を眺める。はっきりとは分からないが、人数やその大小から、やはり知っている家族だと思われる。
コゲの足を進めようとして、はたとリコの耳と尻尾はどうするべきかと考えた。集落や街など、たくさんの人目には触れさせない方が良いだろう、とトゥーラも言っていた。宿を取れる場所であればそれも可能かもしれないが、この場合どうするべきか。
少し考えたが、調子の悪いリコを休ませるのに、耳と尻尾を見せずに済む方法は思いつかなかった。まあ遊牧民の家族に世話になる時ぐらいいいだろう、と諦め半分で考えて、アトリはコゲに合図して先へ進んだ。
幕屋に近づくと、何人かぞろぞろ集まってきた。軽く手を挙げ、敵意がないことを示し相手を待つ。若い男が一人走ってきて、馬上のアトリを見上げて眩しそうに目を細めた。
「……アトリか?」
「やっぱり、ホランの家か」
肯定代わりに相手の名を呼んで、アトリは砂避けの口布を下までずらした。
「一晩宿を借りたい。連れの子が、熱を出しているんだ」
前に抱えたリコを抱き直して言うと、ホランはおどろいたように目を丸くした。そうすると、もともと幼い顔がますます少年めいて見える。
「おまえの子か?」
「ちがうよ。この前、里から引き取ったんだ」
そうだよな、と口の中で呟いて、ホランは半瞬だけ後ろを見た。女子供が彼らの挙動を見守っている。
「まあいいや。来いよ。昨日の夜は冷えたからな。ちゃんと休ませてやった方がいい」
「ありがとう、助かる」
礼を言いながら、アトリはなるべくそうとは悟られないよう、幕屋の前に集まった顔ぶれをじっと見つめた。女が数名、子供たちは既に好奇心をおさえきれずアトリの方へ向かってきている。ホランが一番年長の男のようだ。他は馬の放牧にでも行っているのだろう。
助かったと思い、アトリはリコを抱いてゆっくり馬から下りた。
「ああ、リコじゃないか。アトリが引き取ったんだね」
「知ってるのか」
「知ってるよ。あたしたちは、星読みの里に近いところを拠点にしてるから」
言われてみればその通りだった。ホランの家族――正確には、ホランの父親であるボルドの家族――は、春から夏にかけこのあたりで放牧している。だからこそ、アトリも彼らと既知なのだ。今リコの世話をしてくれているのはボルドの妻であるユンだったが、彼女は星読みについてトゥーラに直接尋ねに来ることもあった。アトリとホランがそうだったように、彼女たちも同年代で仲が良い。
「トゥーラは、アトリがなかなか戻ってこないので困るとよく言っていたけど、リコを任せたかったんだね」
「……さあ」
ユンはリコを幕屋の中に入れ、何枚も布を重ねた上に少女を寝かせてくれた。その位置が上座だったので、アトリは近づくことをためらった。ここの家主からは嫌われている自覚がある。だから、なるべく寄り付きたくなかったのだ。
「確かに熱は高いけど、よく眠っているし、しばらくこうして寝かしておこうか。起きたら冷たい乳を飲んで、麦の粥を食べてもらおうね」
「……寒いと震えてしばらく声も出なかった。薬もいやがって飲まないし」
「そりゃあんた、今朝は寒かったよ。それに小さい子がおとなしく薬を飲むわけないだろ」
けらけら笑いながら言うので、ばつが悪く少し視線をそらす。幕屋の入り口にはホランが立っていて、中に入りたがる子供たちを抑えていた。そのホランも笑っているので、なんだよ、と気恥ずかしさまで覚える。
「それなら、わざわざ馬で移動して揺らさなくても、しばらく休ませときゃ良かったかな」
「いや、それは良くないね」
リコの汗を拭いてやり、かけものをかけていたユンが不意にきびしい目をしてアトリを睨んだ。
「いくら小さい子が熱を出しやすいと言ったって、野営じゃ休んだうちに入らないよ。それに食べるものだってそうさ。旅暮らしの粗食もいいけど、里ではきちんとしたものを食べていただろうから、身体だってびっくりして弱るよ」
野営の粗雑さはともかく、食べ物に関しては完全に予想外だった。なるほどと組んだ腕をほどいて布に埋もれたリコを遠巻きに見ていると、子供たちを散らしたホランが笑顔のまま近寄ってきた。
「定住か遊牧かってだけでもだいぶちがうからなあ。アトリは一人旅だから、もっと適当だろ。小さい子をそれに付き合わせちゃかわいそうだよ」
分かったように言うので腹が立つが、ホランはアトリとほぼ同年ながら既に二、三人の子を持つ親だった。返す言葉がなく、アトリは沈黙を選んだ。独身男が何を言っても、歴戦の母親や現役の父親に敵うわけもない。
「よく眠ってるよ。もう少し近くで見てやったらどうだい」
「いや……いいよ。そっちに行くと、親父さんが怒りそうだから」
ユンは手早くお茶も沸かしてくれたが、受け取ったアトリは入り口近くに腰を下ろした。眠る少女を見下ろしていた親子は、顔を見合わせ、短く祈りの仕草をした。
「リコは山の誇り高き獣の落とし子だろう。だから大事に扱わなくちゃいけないよ」
「始祖の狼だと思ってるのか」
「きっとそうさ。こんな子、他にいないもの」
だから上座で丁重に面倒を見てくれるのか、と思い至って、アトリは短く息をついた。トゥーラも同じようなことを言っていたが、彼女はリコを特別視していなかったように思う。けれど常から少女に神秘性を見いだすものもいるのだ。
「……親父さんたちは?」
「遠くに出かけたわけじゃない。馬を走らせながら、水場を見に行ってる。もうすぐ帰ってくるよ」
なるべく顔を合わせたくない、というアトリの考えを読んでいるような返事に、そうか、と短く答えた。
アトリとリコが落ち着くと、しばらく別の仕事をしてくる、と言ってユンもホランも出ていった。アトリは茶を飲みながら、少し離れた場所でリコの寝息を聞いていた。
普段とちがう場所でなにもせず過ごしていると、自然と考えが深いところに潜っていく。外で遊びながら仕事をする子供たちの声がやかましくすら感じる。リコだって狼として崇められたりせず、あんなふうに一緒になって遊んでいいはずだ。けれどアトリとふたりで旅する以上望めず、それでもトゥーラはアトリに少女を託したのだ。自分たちの難しい立場を改めて理解して、どうしたものかと思う。
訳知り顔で子供の面倒を見ることについて語るホランは、アトリに自分が選ばなかったものを意識させた。いろいろな感情がないまぜになってため息をつくと、幕屋の奥でリコが身じろぎする音がそれに重なった。
「……おばあちゃん…………」
トゥーラのことだと分かって、アトリは思わずリコに駆け寄った。小さな自分を見ているような気がした。
「リコ」
名を呼ぶと、リコはぽっかり目を開けた。ぼんやりしていたそれがやがてアトリに焦点が合い、口を開くとかすれ声が出た。
「アトリ……」
「何か飲むか」
うん、と声は出ず頷く。アトリは少女を抱き起こし、ぬるいお茶を含ませてやった。最初のひとくちをようよう飲んだあとは、続けてごくごく飲む。朝からなにも飲み食いしていないし、汗をかいて喉が渇いていたのだろう。
「うまいか」
「うん、アトリのお茶よりおいしい」
「おい」
リコらしい遠慮のない言い方に、カチンときつつも少女が元気を取り戻していることにほっとした。苦笑して、飲み終わった器を横に置くと、リコはアトリの膝の上であたりをきょろきょろ見回した。
「ここ……どこ?」
「おれの知り合いのとこだ」
ふうん、とリコが首を傾げながらも納得したとき、外で大きな声がした。あ、まずいと思ったが、膝の上のリコを放り出すわけにもいかない。逃げる間もなく、出入り口の布がばさりとめくられた。
「アトリ、おまえか」
「……すみません、留守のうちにやっかいになっています」
家主のボルドが戻ってきたのだった。アトリの馬や子供たちの反応を見て、ユンやホランの話を聞かずに幕屋に戻ってきたのだろうと手に取るように分かる。昔から、なにごとも決めつけるように高圧的な態度のこの男が苦手だった。
北方の男らしく、常にしかめつらをしているので子供の頃は本当に怖かった。今もその表情は変わらないが、思っていたより背格好は小さかった。幼い頃は小山のような大男だと思っていたが、当時はアトリが子供だったこと、現在のアトリが長身になったことで印象が変わったのだろう。
それでも、家主らしい堂々とした立ち振る舞いに、リコを抱いたままアトリは背を丸めた。この家に来た時点で避けようがないことは分かっていたが、それでも怖い。
ボルドはアトリをうさんくさそうに見たあと、その腕の中におさまっているリコを見て少しだけおどろいたようだった。アトリの前に立て膝で座り、リコを見つめて静かな声で言った。
「山の強き獣の訪いに感謝申し上げる。――トゥーラのところから、連れてきたのか」
「
「おまえがこの子を?」
嘲るような言い方にむっとしたが、態度には出さずはいと深く頷いた。ボルドは呆れたように大きなため息をつく。
「トゥーラはなにを考えているんだ。狼の落とし子だろう、いつか山へ帰る子だ。それまでは、我ら草原の民で育ててやらなければ、あとでどう返ってくるか分からんぞ」
我ら草原の民、という言葉に唇を噛む。明らかに、アトリをその枠外と考えている言い方だった。ボルドにとって、それは仕方のない考えなのだと思う。けれど、直接言われるとやはりきつい。
「おまえのような、どこの者かも分からん男に、その子を任せられるのか。トゥーラのところから、勝手に連れてきたんじゃないのか」
養母からの、育ててもらった故郷からの信頼さえ否定され、思わずなにか言い返そうと顔を上げた時だった。アトリより早く、リコがボルドに向かって口を開いた。
「アトリに、ひどいこと言わないで。なんでそんなこと言うの」
まだ熱っぽい表情で、それでもまっすぐボルドを見ている。この小さな身体のどこに、壮年の怒った男に向かっていく勇気があるのだろう。それこそ始祖の狼たる証なのだろうか。
アトリはおどろいて言葉を失った。それはボルドも同じようだった。
「アトリは、やさしいよ」
「リコ、もういい」
繰り返しアトリを擁護しようとするリコに、アトリの気持ちはかえって冷静になった。気付けば、大きな声を出したボルドの様子を見に、ユンやホラン、子供たちが幕屋の入り口からこちらを覗いていた。この状況で、この男に恥をかかせるのはまずい。リコの身体を抑えるが、口は止まらない。
「おばあちゃんが、アトリといっしょに行きなさいって言ったんだよ」
「もういいから、リコ」
やだやだ、と首を振ってリコはキッとボルドを睨みつけた。獸めいた金の瞳で否定されたら、どんなに心が冷えた気がするだろう。厳しい北の土地で暮らす屈強な男にも、それは耐えられなかったようだ。わなわなと震えた手が素早く動いて、謝る間もなく、アトリの頭に延びた。
思わず目をつむったが、予想していた衝撃はなかった。強く引っ張られる感覚があって、次に髪がぱさりと額に落ちてきた。
ターバンを取られた。
「卑怯にも隠しおって。その目、その髪、その身体! 草原の民ではないものが、我らの始祖を守れるか!」
髪が伸びたね、とトゥーラに触られそうになったのはつい先日だ。その時も、伸びた前髪が視界を遮って、金の帳を通して養母を見ているようだった。
ターバンの下には、明るい金の髪が隠されていた。
トゥーラが赤子を拾ったのは二十六年前だった。赤子は、その時から青い瞳と金の髪、透けるような白い肌を持っていた。目と肌はどうしようもないが、せめて髪だけでも隠したくて、アトリは少年時代から帽子やターバンで頭を覆い続けていた。それでも、子供のころから彼を知る者にとって、それは周知の事実だった。
アトリは拾われっ子で、人種すらちがう。本来なら交わることはなかったはずの、完全にちがう国、ちがう世界の人間なのだと。
リコはおどろいたように目を丸くしてアトリを見上げている。アトリはその顔をまともに見れず、抱いていたリコを横に下ろした。ボルドを見上げると勝ち誇ったような顔をしている。
「…………」
静かに立ち上がると、思った通り彼はアトリよりずいぶん背が低かった。この大きな身体も人種のちがいを示しているようで、アトリは己の全てが好きではなかった。ボルドはアトリの心境を知らずか、上から見下ろされ気圧されたような顔になった。
それでも、家長らしく堂々とアトリと対する。
「なにか言いたいことがあるのか」
「――いえ、ありません」
そう答えて、アトリはとぼとぼ歩いて幕屋を出た。親しくない女子供はもちろん、ユンもホランもボルドの手前声もかけず、道を空けるだけだった。
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