第二話 はぐれもの、二匹
はぐれもの、二匹-1
天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。
山の
清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす。
草原の北、山より出でし狼の足は、一昼夜で草原の果てまでたどり着く。
南の果てで、狼は砂漠に出会うだろう。砂漠の先に海ありき。塩の道そこにあり。
東の果てで、狼は大河に出会うだろう。大河の先に畑ありき。麦の道そこにあり。
西の果てで、狼は湖に出会うだろう。湖の先に人の街ありき。鉄の道そこにあり。
◇
アトリの旅は、これまで至って単純な朝夕の繰り返しだった。
朝日とともに目覚め、湯を沸かしお茶を一杯。馬が草を食むのを見ながら保存食で簡単に朝を済ませ、天気や星の動き、それから食糧事情などを考えその日の行く先を決める。身支度を整え、コゲに鞍と荷を乗せる。街へ行く必要があれば街へ向かったし、たどり着かなければ野宿した。野宿するには心許ないときは、少し足を伸ばして遊牧民を探し、一晩世話になることも多かった。遊牧民は、客人は必ず迎え入れ食事と寝床の世話をしてくれる。
要するに、目的も家族もない、草原で財産となるまとまった家畜も持たない彼は完全にその日暮らしで、好きなところに向かい好きに暮らしていた。それが性に合っていたし、アトリが持つ知識と技術は草原で重宝されることも多かった。
春から夏に移り変わるこの時期は、気候に左右されずどこへでも行きやすいのであちこち旅するのが楽しみだった。それが今年は、様々な人づてにトゥーラがアトリを呼び寄せていることが伝わり、普段なら寄る街々を通り過ぎて星読みの里まで帰ってきたのだった。
久しぶりに帰ってきた北の土地は、まだ少し寒い。草原の芽吹きもまばらで、大地の奥はまだ凍っているように硬く感じる。そもそも草原は、例え夏でも朝晩は冷え込むものだ。
そういう時、リコの存在に意外と助けられた。子供の体温と尻尾のぬくもりは、これまでの旅になかったものだ。
小さな女の子と接することなどほとんどなかったのでどうなることかと思ったが、アトリとリコは意外と気があった。同じ養母に育てられたからかもしれない。そのトゥーラが言ったとおり、リコは身支度など一通りのことは自分でこなし、手はかからなかった。慣れない旅暮らしにも文句を言わずついてくる。細かいことを気にしない性分は草原の民らしい。ときどき、自分に三角の耳と尻尾がついていることも忘れているかのように見える。
大きな身体のわりに心は繊細だ、と言われていたアトリは少しうらやましいぐらいだった。
「ねえ、あしたはどこに行くの?」
「……さあなあ。リコは、どっちに行きたい」
星読みの里を出て三日ばかり走った夜だった。毎朝毎晩、リコはこれを聞く。毎度適当に返事していたが、今度はリコもそれで流してはくれなかった。じっとり不信感を込めた瞳でアトリを見上げる。金の瞳は、普段より少し獣に近く見えた。
「アトリ、まいごなの?」
「おいおい」
「だって、ずっと走ってるのにどこにもつかない」
「三日やそこらじゃどこにもつかんよ」
アトリはそう答えて、焚火の上でぐらぐら揺れる小鍋を取った。干し肉を適当にちぎってお湯に放り込み、保存食のチーズを加えて塩で味を調えた簡単なスープだが、身体があたたまる。リコに半分取ってやり、アトリ自身は鍋から食べる。リコがふうふう冷ましながらそれを飲み少しおとなしくなったのを見て、アトリは再び口を開いた。
「草原に、目指す物はそんなにない。大きな街は本当にいくつもないし、小さな集落はすぐに消えてなくなる。遊牧民の居所はだいたい決まってるけど、目指していくような場所じゃない」
「ふうん……?」
まだ硬い干し肉に当たったか、口の奥をモグモグさせながらリコは顔を上げた。
「強き始祖たる狼の足なら、一晩で草原の端から端まで行けると言うけどな」
「リコはできないよ」
「知ってるよ」
それどころかリコは、拾われてからこれまで星読みの里を出たこともろくになかったのだ。草原での距離感もよく分かっていない。
「それじゃ、アトリはどこに行こうとしてるの」
「とりあえず、食料が尽きる前にどこかの街につけるよう、東南を目指してる」
指で空中に線を引きながらアトリは答えた。
「半月ばかり行くと街があって、その間には遊牧民もいるはずだ。もっと行けば交易路もあるけど――」
リコを他者の前でどう振る舞わせるべきか、落としどころを見つけるまではあまり人目に触れない道を行きたかった。その言葉を飲み込むと、リコは気にならなかった様子で、飲み終わったスープの器を置いて目を輝かせた。
「そんなに長いこと馬で走るの。なんで遊牧民がいるって分かるの。どうやって行くところが分かるの」
勢いよく迫ってきたので、アトリは小鍋を手が届かない高さに持ち上げて少し後ずさった。なぜ、どうして、と子供たちに聞かれることはよくあるが、逃げ場のない状況だった。あー、と返事に窮して子供向けにどうかみ砕こうか思案して、結局あまり考えずに答えた。
「荷物が増えたから、コゲにあまり無理はさせられない。いつもよりゆっくり行くとそれくらいかかる。遊牧民はだいたい決まったところを決まった家族が回ってるんだ。この時期なら知り合いがいる。それから……おれはこの辺りをよく知ってるし、知らないところは、オボーを見て行く先を決める」
「オボーって、おまいりするところじゃないの?」
「お参りするところだし、道しるべだし、縄張りの目印でもある」
丘の上などにあるオボーは、石や骨を小山のように高く積み重ねて作られている。中央に立てた棒に目印の布がひるがえっていると、遠くからでもよく目立った。少しでも天に近い高所に作られたそれは信仰の対象であり、さまざまな要素を示す標識でもあった。
ちょうど、昨日通ったオボーにあまりありがたくないしるしを見て、どうするべきか考えていたところでもあった。
アトリが黙ってしまったので、リコはすとんと元いた場所に腰を下ろした。豊かな尻尾が、彼女を抱くようにくるりと身体を巻く。尻尾に意思があるようで少しおかしかった。
腹が満たされるとすぐに眠くなるようで、じきにリコはうとうとと身体を揺らし始めた。夜露に濡れないよう、毛皮を敷いて前あわせの衣を開いて招くと、リコは素直に入り込んできた。幕屋でも里でも、一番寒い時期はみな寄り集まって人肌でぬくもりを求め合って眠る。
半分以上眠りながら、リコは頭をアトリの胸に押しつけた。狼と言うよりは仔犬のようだ。そんなことを考えながら、少しずつ静かになっていく焚火を眺めていた。
翌朝、アトリは普段通り夜明けと供に目を覚ました。地平線に日が昇り、徐々に朝になっていく空気が好きだった。お茶を飲み指先からじわじわ身体をあたためていると、夜明けと反対側の空は夜の名残を惜しむように、ちらちらと弱い星の光を投げかけていた。
明けの光ににじんで消えそうな星々の中に、ひときわ輝く星があった。深夜の暗闇だったら、もう少し高い位置であかあかと輝くのがよく見えただろう。炎のように赤いので、燃やし尽くすものとも呼ばれている。激しい姿と名前に反して、草原にとってそれは春を告げるうれしい知らせの星でもあった。
今年は赤い星の訪れより前に家畜の仔が生まれ始めたと、星読みの里では話していた。そういう年は激しい夏になる。だから里長の息子であるカームは、山に出かけてその兆候を探していたのだ。人には感じられない何かしらの前触れを、獣たちは察知しているのだろうか。
それではリコは予感しているのだろうかと考え毛皮の中で眠る少女を見下ろす。まだ起きなくても良いので寝かせておいたが、頭まですっぽり毛皮に隠れて、耳先が見えるだけだったので少し様子が気になった。自分一人――あるいは、自分とコゲだけなら気楽だが、たまに小さな生き物を拾ったり預かったりすると、どうしても緊張してしまう。
そっと毛皮をめくると、穏やかな寝息をたてているので安心した。
まだ寒いので毛皮を戻してやって、アトリはひとり静かに身支度を始めた。顔を拭いて頭のターバンを巻き直す。日避けや防寒の意味合いで、ここらの人間は獲った獸で作った帽子を被ることが多かったが、軽くて落としづらいターバンの方が気に入っている。裏打ちされた丈夫な作りの衣装は、夜は寝具代わりにしているので叩いて土と葉を落とす。コゲを呼び寄せ毛並みを梳いてやっていると、本格的に太陽が昇ってきた。焚火をかき回して火を大きくして、たっぷり湯を沸かす。食料袋の中を探って朝食を準備した。コゲが草を食むのを眺めながら、そろそろいいかと思い、リコに声をかけた。
「リコ、朝だぞ。そろそろ起きろ」
返事はない。よほどぐっすり寝入っているのか、アトリはため息まじりに毛皮をめくった。
「リコ」
直接声をかけてもまだ起きないのでようやく様子がおかしいと感じた。明るい日の光の中で見てはじめて気付く。リコは真っ赤な顔をしていた。
「おい、リコ。大丈夫か」
三度名を呼んでようやく少女はうっすら目を開けた。金の瞳も、熱っぽく潤んでいる。アトリ、と口だけ動いて声は出なかった。頬に触れるとじっとり汗ばんでいて熱い。それなのに、外気にさらされた小さな身体は震えていた。
「さむい……」
消え入りそうな声でささやくので、慌てて毛皮でもう一度包んでやる。小さな手があわせをぎゅっと握りしめているのが胸に迫った。
「ごめんな、気付かなかった。つらいか」
ふるふる首を横に振るリコは、おそらく半分以上眠っていて声に反応しているだけなのだろう。つらくないわけがなかった。
これまでずっと里で暮らしていたのに、いきなり外に連れ出して、旅暮らしの野宿が続いたのだ。調子を崩すのも無理はない。幸い天候には恵まれていたが、それでも風は強いし夜露は冷たい。狼の耳と尻尾に紛らわされてしまったが、まだ七つの少女なのだ。体力的にもきつかったのだろう。
考えが及ばなかった自分に腹が立ったが、過ぎたことを後悔しても仕方ない。朝食は放り出して、今度は食料袋ではない別の荷を漁る。里の女たちは必要そうなものをいろいろ詰めてくれていた。荷が多すぎても困るとトゥーラが仕分けしていたが、彼女が薬を持たせないわけがない。熱冷ましの薬を出して、子供用に少量煎じた。
「リコ、これを飲め」
小さな身体を抱き上げて匙で口元に持っていくが、リコは目をつむったままぎゅっと口をすぼめて、飲もうとしない。耳もぺたんと垂れて、全身で薬を拒否しているようだった。
「薬だぞ」
「…………やなにおい……」
リコ、と繰り返すがいやいやと首を振るばかりである。耳と尻尾だけでなく、鼻も狼並みに利くのだろうか、と埒もないことを考えつつ、アトリもめげずに匙をリコにつきつけた。
「ひとくちだけだから、飲め。よくなるから」
「やだあ!」
とうとうリコは身をよじって暴れ出した。勢いのまま火の方へ転がりそうになったので、アトリは慌てて毛皮に巻かれた身体を押さえつけた。リコはますます暴れて、とうとうするりと抜け出して警戒心丸出しの態度で小さく丸まり座り込んだ。尻尾だけが大きく膨らんでいる。
「にがいのやだ」
「分かったよ。分かったから、こっちに戻れ。寒いんだろ」
毛皮を広げて横に置くと、そろそろとにじり寄り、自らそれを被ってまた丸くなった。アトリが薬を片付ける振りをしていると、すぐにこてんと倒れてまた眠り始めたので、やはり苦しいのだろう。
さてどうするべきか、とアトリは考えた。熱だけなら、無理にでも薬湯を飲ませるか、放っておいても下がるかもしれない。今の様子を見る限りまだ元気はありそうだし、寝ていれば治るものかもしれない。アトリ自身にも覚えがあるように、子供はよく熱を出すし、環境が変わったばかりならなおさらだ。
けれどそれが本質的な解決にはなっていないことも分かっている。要は、アトリが天幕さえ持たずに旅をしていたのが原因なのだ。真冬はともかく、春から夏にかけては荷を減らすためにも天幕を張らずに野営していたが、里の女たちもまさかアトリがそこまで野性的な暮らしをしているとは思わなかったのだろう。アトリの方も、リコが見せる頑健さに狼らしさを感じて、少女の本質を見誤っていた。
一度里に戻ろうか、とも考える。しかしもう三日も走ったのだ。すぐに戻れる距離ではないし、リコは早くゆっくり休ませてやるべきだろう。
「あー……ちきしょう」
悪態をついて、アトリは放り出していた朝食の干し肉をかじった。本当は、リコが熱を出していると気付いたその時から、とるべき行動は分かっていた。
「行くしかねえか」
自分に言い聞かせるように呟いて、あたりを見回す。見渡す限りの草原だが、いくつか連なった丘の上にオボーの小さな影が見えた。方角から考えて、あのオボーにも、先日見たしるしと同じものがあるはずだ。
オボーは天に近い場所に作られた信仰の対象であり、野に朽ちた骨を祀る墓所であり、てっぺんに掲げた布や台座で縄張りの主や境界を主張する標識でもある。
旧知の遊牧民家族がそのあたりに幕屋を張っていることを、そのオボーは示していた。
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