草原の一匹狼-3


 そうと決まれば、準備は早かった。アトリにはあまり長居したくない理由もあった。女たちが少女の旅装を整えるのを眺めて再び茶を飲みながら、トゥーラに尋ねる。

「カームはいないの?」

「一昨日から山に行ってるよ。だからあんたも、もう少し長居してもいいんだけど」

「いや、いいよ」

 折り合いの悪い義理の兄――つまりトゥーラの実子の顔を思い浮かべながら、アトリは首を横に振った。養母にこのような気遣いをさせるくらいなら、自分から距離を取った方が楽だった。

「アトリ、今年の薬湯は出来がいいから、少し多めに持っていきな」

「ありがたいけど、いつも通りでいいよ」

 そっちが足りなくなると困るだろ、と続けたが、なじみの老女は遠慮するんじゃないよと笑って薬湯の袋をいくつもアトリの荷に詰める。助かるのも事実なので、もう一度礼を言ってさせるがままにしておいた。


 アトリはリコと同じように、草原でトゥーラに拾われこの里で育った。懐かしい顔、懐かしい空気は居心地がよい。けれどどうしても居着く気になれないのは、自分が彼らとはちがうと知っているからだろう。リコを見て更にその思いは募った。違いを分け隔てしないからこそ、自分が浮いているのを感じる。おそらくこれは、性格の問題だ。

 リコは気にしていない様子で、のびのびと、羽根ならぬ尻尾と耳を思い切り伸ばして暮らしていたようだ。外に出て、みんなにお別れを言っておいでと言われ、わかったと元気よく頷いて走って行ったきりである。


「アトリ、ロバかヤクを連れていくかい。荷が増えるとコゲだけじゃ大変だろう」

「いや、コゲとリコが慣れなきゃいけないのに、もう一頭増えるのは大変だ。荷物は少なめにしてくれ。必要だったら、街でいろいろ調達するよ」

 アトリにもリコにもいろいろ持たせてやりたい女たちは不満げだった。勝手知ったる様子でトゥーラが荷を仕分け始めたのを見て、アトリは立ち上がった。

「ちょっと出てくる」

「どこに?」

「誰かに、今年の星の動きを聞く。ばあさんに聞くと、小言の方が多くて時間がかかるからな」

 なんて言い草だよ、と眉をつり上げるトゥーラに、女たちは明るくけらけらと笑った。


 ◇


 星読みは、星の位置や動きを観測し、気候や人の運命までもを読み解く。それらは観測結果の分析と経験、そして最終的には第六感によって導かれるものである。だからか人の未来まで識るような優れた星読みは、女の方が多い。人の細部まで入り込みそれらを最終的には勘で判ずるという行為は、女の方が得手なのだろう。

 対して気象や家畜・作物の出来不出来を読むのはどちらかというと観測と検証の繰り返しであり、これはトゥーラよりも息子のカームの方が優れていた。

 アトリはどちらも苦手だったが、ひと通りの知識と方法は理解している。草原でひとり流れ旅しているとたまに頼みとされることもあり、一応でも最新の観測結果を知っておく必要があった。

 家々から少しだけ離れた星見やぐらにいた顔見知りに色々聞いていると、ふと頭の上から子供の声が聞こえた。レンガと石作りの階段の上は小さいが座れるようになっており、ふだん星読みはそこに座って夜を徹して空を見上げるている。昨晩もその前も、そして今晩もこれからもずっと。

「だれかいるのか」

「リコだよ」

 予想外の名前だったのでおどろいた。小さな娘は、走って友達のところへ行ったものだとばかり思っていた。

「アトリの少し前に来たんだ。リコはなんだか、ここが好きでね」

 上にあがって良いかと聞くともちろんと頷くので、アトリは今にも崩れそうな階段に足をかけた。ここに登るのはもう何年ぶりだろうか。アトリは里の中で一番背が高かったので、どんどん大きくなる体で古いものを壊してしまうのが怖くて、いつしか星見の当番の時もやぐらの外で見るようになった。

 今はもう、古いものも案外強く、これぐらいでは壊れないと知っている。

 やぐらの上で、リコはちょこんと座っていた。アトリには既に気付いていて、半分ほどこちらを振り返っている。緩めの三つ編みが風に遊ばれ、はたはたと耳と尻尾が揺れる。棒切れのように小さくて細い体なのに、半分だけ見えるその表情はなぜかしら大人びていた。

「こんなところで何してるんだ。ちゃんと、挨拶してきたのか?」

「したよ。みんなにまたねって言ってきた。だから今は、ここからみんなを見てたの」

 確かに少し高いここからは、里の全景が見えた。無謀にも、いち、にい、さん、と何百頭にもなる羊の数を数えている。その声は乾いていて湿っぽさは感じられず、少し不思議でアトリは尋ねた。

「リコ、おまえ、さみしくないのか」

「うーん、ない」

 リコはもう一度アトリを振り返った。夜に輝く星そのもののような瞳が、まっすぐにアトリを射抜いた。

「リコはいつか出てくんだっておもってたから、だからさみしくはないよ」

 それから、ひと呼吸置いて。

「アトリは、さみしいの?」

「いや……」

 思わぬ問いにおどろいて勢いで答えてしまってから、おかしさがこみ上げてアトリはふっと吹き出した。

 頼まれたこととはいえ、穏やかで友達や親代わりの大人も多い里での暮らしから、その日暮らしの放浪生活に連れて行くことに、自覚のない後ろめたさがあったのかもしれない。リコの、ある意味子供らしい、からりとした態度や離れがたいものへの執着のなさは、それを忘れさせてくれた。

「さみしくはないさ、ただ……」


 ただ、彼らと同じでいられない自分がもどかしいようで、けれど同じように過ごすこともできず、手を放しきってしまうのも、ずっとその手を取り続けていることも耐えがたく、中途半端なところを漂っている。もしかするとそれを一言でまとめてしまえば、さみしいということなのかもしれなかった。

 それを口には出さず、アトリはひとつ息をついてリコの横に腰掛けた。

 狼の耳も尻尾も、アトリの深いところまでのぞき込むような不思議な色の瞳も、人ならざるものの気配を伺わせた。しかしちょこんと座る寄る辺ない姿や小さくて薄い体躯は、そこら中で転げ回って遊んでいる子どもたちとなんら変わりなかった。


「……おれみたいなのを、一匹狼というんだ」

「おおかみ? リコと同じ?」

 リコは自身を狼だと認識しているのか、と考えながら、アトリは薄く笑った。

「狼は群れる生き物だろ? でも中には、ひとりで生きているやつがいて、そういうのを一匹狼というんだ。おれはそれだよ」

「リコもそうかな?」

「さあなあ……」

 肯定も否定も避け、アトリは小さな頭にそっと手をのせた。少しひやひやしながら耳に触れると、あたたかく柔らかな毛並みで覆われていて、ぴくぴく動く。嫌そうな顔はしなかったので、犬にするように力を込めてなでてみるとリコは目を細めた。

「……まあ、しばらくはおれと行くんだ。ひとりじゃないさ」

 アトリになでられるまま、分かっているのかいないのか、リコはうんと頷いた。

 神秘的で、大いなる力持つ狼の化身のように見えるときと、そこらの子供と同じ顔をするときがある小さな娘を見下ろして、外に出ていくなら、この耳と頭は隠した方が良さそうだな、と考えた。


 ◇


 女たちが準備した旅支度の中には、頭を覆う頭巾と尻尾を隠す大きめのスカートや巻き布が含まれていた。赤い頭巾を被り同じ色のスカートを着ると、草原というよりは街の少女のような趣があった。かわいいかわいい、とちやほやされてリコは嬉しそうにニコニコ笑った。

 愛馬に荷物を積むと、昨晩着いて休んでいたばかりなのにもう行くのか、と言いたげに鼻を寄せてくる。悪いなとその眉間を軽く叩いて謝ると、コゲは人間のように顔を斜めに傾けアトリを見つめた。仕方ない、とため息まじりの声が聞こえてきそうだった。

「ほら、リコ。こっちに来い」

 ぽてぽてと走ってきた少女を抱き上げると上手に馬上にまたがった。草原の子供たちは、歩くのと同時に馬に乗ることを覚える。耳と尻尾があったとしても、それは同じだったようだ。

 そしてトゥーラの言ったとおり、コゲはリコを恐れなかった。それは相棒が肝が据わった馬だからなのか、あるいはトゥーラが言ったように一対一の関係だからなのか、両方なのかは分からない。とりあえず安堵して、アトリも少女の後ろに飛び乗った。

「それじゃあ、行くよ」

「気を付けてね!」

「また戻ってくるんだよ」

「リコをよろしく頼むよ」

「アトリ、またリコと来てね!」

 放牧やそのほかの仕事で、里に残っている人間はそう多くなかった。それが全員集まって二人を見送る。別れの挨拶は幾重にも重なってなかなか途切れなかったが、やがて静かになると一番前にいたトゥーラが静かに口を開いた。

「アトリ、リコのことは任せたよ。リコ、いろいろな声をよく聞いて、元気でいるんだよ」

「うん」

 育ての親との別れであってもなお、リコはあっさりと頷くだけだった。トゥーラはそんな様子に逆に安心したように微笑んで、馬上の二人をまぶしそうに見上げる。

「おまえたちふたりとも、あたしの大事な、立派な子供たちだ。どうか元気で。そのうちまた、顔を見せにおいで」

 最後の一言は、明らかにアトリに向けて言っていた。わかったよ、と頷いて、アトリは彼らをもう一度見た。


 この養母に拾われ、ここで育った。この人たちに大きくしてもらった。その一員になることはできなかったけれど、こうして帰ってきてもよいのだと、いつでも言ってくれる。

 はなれがたいものからはなれようとするとき、どうしようもない寂しさと切なさと、かすかな安堵がある。


 矛盾するものを抱えて、身体の前には物理的に荷物を抱いて、アトリは馬の首をゆっくり回した。

「また来るよ。みんなも、元気でな」

 そして馬の腹を擦ると、コゲは元気良く走り出した。わあっと子供たちが追いかけてくるが、すぐに引き離され、景色はどんどん遠くなっていく。リコはどうしているかと見下ろすと、気配を感じたかぱっと顔を上げアトリを見つめた。

「ねえ、これからどこに行くの?」

「んー? さあなあ、決めてないんだ」

「決めてないんだ!!」

 なにがおかしいのか、けらけら笑う。これまでの旅とは随分ちがうにぎやかな出発に、アトリも笑って、ますます早く馬を飛ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る