草原の一匹狼-2


 その尾は黒に近い灰色の毛並みで、先端だけ雪を被ったように白い。耳も同じような色合いで、こちらの根元は黒髪に溶け込んで色が濃かった。長い黒髪は、他の多くの少女たちと同じように二つのおさげになっていて、まとう服と同じ赤のきれで結ばれている。くりくりとまるい大きな瞳は獸そのもののような金色で、アトリをいぶかしげに見つめて瞬いていた。

「リコ、これがアトリだ。前に話したことがあるだろう?」

「うん……」

 こっくり頷いたものの、不審のいろは消えずにトゥーラの服の後ろに隠れている。どうやらおれはずいぶん警戒されていて、養母はずいぶん信頼されているようだ。少しほほえましくなったものの、少女の容貌についてのおどろきを上回るものではなかった。

「アトリ、この子はリコという。七年前にあたしが拾って、ここで育ててきた」

 養母はいとおしげにリコの髪を、耳の付け根をなぜた。少女は気持ちよさそうに目を細める。獣のようにも、素直な幼児のようにも見えるその姿に、つめていた息を吐き出してアトリは言った。

「……七年前? 気付かなかった」

「あんたがもう何年もここに寄り付かなかったからだろう」

 その自覚はあったのでアトリは口をつぐんだ。手で続きを促すと、養母は静かな声で唱えた。


「天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす」


 草原に生きる民に伝わる神話である。いっぴきの狼がこの大地を潤し、すべての生き物の始祖となったという伝承だ。山のいただきを天に通じるものと考え、仲立ち役として存在するのが狼である。家畜を食い時に人をも襲う恐ろしい動物だが、同時に強く気高い、特別な生き物だと考えられている。

 狼のように強くおなり、と言い聞かされ、子どもたちは育つものだ。

「星を見に山に出かけたときにこの子を拾った。リコは一人ぼっちのはだかんぼうで泣いていたんだ。山の強きけものがうっかり落とした子かもしれないと思って、預かるつもりでここまで育ててきた」

「おい、ちょっと」

 当事者である小さな子に聞かせる話ではないと思って口を挟んだが、そんなアトリの考えも読んでいるように養母は首を振った。

「リコは全部知っているよ。里の他の人間も、子どもたちだってわかってることだ。もし山に帰るとしても、それまで幸せに、楽しく健やかに育ってくれればいいと思って、他の子たちと変わらずに育ててきた。狼の仔を拾えば犬の中で育てるし、人の子を狼が助けることもある。あんただってそうだったろう?」

 そう言われると返す言葉がない。懐深く多くのものを受け入れる同胞たちの考え方は、アトリにも染み付いていた。彼自身がそのように育てられてきた。

「ただね、リコが大きくなるにつれ、家畜たちがリコを怖がるようになってきた。特に春先は、仔が生まれてみんな気が立っていていけない。こうして、奥の幕屋にいてもらわないとみんな落ち着かないんだ」

 なるほど、話の流れが読めてきてアトリは渋面で腕を組んだ。アトリの目には、リコは小さくて無力な少女に見える。けれど馬や羊たちにとって、彼女は確かに、狼の眷族なのだろう。小さな娘をじっと見つめていると、狼の耳がぴょこんと動く。アトリに敵意がないと分かったのだろうか。大きな瞳から不信感は消え、興味深げにアトリを見上げて星のように輝いていた。見つめあう二人に少し笑って、トゥーラは少女の背を押した。リコは前につんのめり、均衡を取るように尻尾が大きく揺れる。

「だからアトリ、あんたにこの子を預かってもらいたい」

 予想できた言葉だったとはいえ、アトリは深く息を吸って、はいた。心の整理にはそれが必要だった。あらかじめ言われていたのだろう、リコの顔にもおどろきはなく、ただただアトリを値踏みするようにじっと見つめ続けている。

「おれに、小さな女の子を預けるのか」

「酷なことを言っているのは分かってるよ。でももうリコも七つだ。自分のことは自分でできる」

 草原の民の自立は早い。七歳ともなれば家のことを手伝って、家畜の世話をしたり料理を手伝ったり、もっと小さな子の面倒を見たりして、他の子と一緒になって遊ぶものだ。外に出られずそれができないのは不憫だった。

「おれにだって、コゲがいる」

「コゲは強くて勇敢な馬だろう。家畜は群れるから異物を怖がるんだ。一頭相手ならむしろ慣れてくれる。リコにだって仲のいい動物はいるんだよ」

「おれは、ひとりであちこちさまよってるんだ。小さい子にいい環境じゃない」

「それでもアトリがいれば、リコにさみしい思いをさせないだろう」

 確信を持っている静かな声音の根拠がどこから来るのか、アトリにはいまいち分からなかった。彼にとって、孤独は既に友だった。だから、もう何年もなるべくこの故郷へ近づかないようにしていたのだ。

 一方で、自分がこの養母の頼みを断り切れないであろうこともうすうす察していた。最後の砦とばかりに、しゃがみ込んでリコと視線を合わせる。

「だいたい、この子の気持ちはどうなんだ。おれよりも、この子の意思の方が大事だろ」

 ほとんど敗北宣言に近いことは分かっていながらそう言うと、養母は皺が刻まれた手でもう一度少女の背を押した。今度はふらつかずにしっかり足をふんばって、リコは大きな瞳でアトリの顔をまじまじと見つめ、手を伸ばした。


「…………きれいな目……」


 細い指が頬に触れそうになった直前、顔をずらしてよける。目当てのものにとどかなかった小さな手が、不満げにぎゅっとかたく握られた。

「なんだい、大人げない」

「うるせー」

 誰とも視線を合わせずそう言うと、のんきな声が追ってきた。子どもらしいあどけない、けれど抑揚の少ない声だった。

「きれいな青なのに。いちばんつめたいこおりみたい」

 ため息交じりに顔を戻すと、リコは無邪気ににこにこ笑っていた。よく磨かれたつるつるの石や、切りそろえられたようにまっすぐな鳥の羽根を見つけた時の感覚なのかもしれない。人をなんだと思ってるんだと、アトリも少し笑った。彼自身は、このあたりの他の誰ともちがう青の瞳があまり好きではなかった。

 よく晴れた日の空のよう、とも言われる薄い青い瞳を細めて、分かったよ、とアトリは答えた。

「他に行くところがないなら、仕方ない。もしここより他にいい場所があるのなら、そこまでは一緒だ」

 斜に構えがちな青年らしい承諾の言葉に、トゥーラは満足げに頷いた。

「ありがとう、アトリ。よろしく頼むよ」

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