星読みのアトリと狼の娘

なかの ゆかり

第一話 草原の一匹狼

草原の一匹狼-1

 アトリが馬の背で顔を上げると、黒い影にしか見えない丘の向こうに星が落ちるのが見えた。

 このあたりをよく知るアトリであっても、夜になるとその丘が遠いのか近いのかがよく分からない。目安になる建物や遠近を測る木々がない草原では、動くものでもない限り距離感が掴みにくい。

 馬の足を止め手綱を放し、両手の指で四角を作り、夜空を切り取ってみる。

 赤く燃える大きな星、小さな点がまとまって輝く光の群れ、しろく存在を主張する、静かな星。

 落ちたのは、だれの星だったのだろうか。

 星の動きと空の様子からさまざまなものごとを読み解く星読みだが、彼はその中でも落ちこぼれを自称している。結局答えを得られず、諦めて片手で頭巾と口布の位置をなおす。ポンと相棒である馬の首を叩き、励ました。

「もうすぐ着くさ。どうせ今の星を見て、みんな外に出ているだろうから、ちゃんと迎えてくれる」

 分かっている、というように相棒は鼻先を少しあげてアトリの言葉に答えた。ほほえんで手綱を握りなおすと、彼はすぐに走り出す。冷たい夜気が肌を切り裂き、アトリは目を細めた。


 ◇


 地平線からのぼる日の出とともに始まる草原の朝は早い。

 太陽がずいぶん高い位置にきてアトリが起きたころには、すでに里の人間は忙しく動き出していた。一人で湯を沸かし茶を飲んでいると、そこにもどってきたあるじが彼の様子を見て笑った。

「ようやくお目覚めかい。子どもみたいによく眠る」

「おれとコゲは夜を徹して駆けてきたんだぜ。それに、久しぶりのまともな寝床だった」

 苦言を呈しながら、あるじ――アトリの養い母でもあるトゥーラ――は、次々と堅焼きのパンや干した肉、チーズなどを出してはアトリの前に並べていく。それを受け取り、小さなナイフでパンを切って具材を挟む。トゥーラのぶんも作ってやったが、いらないと首を振るので自分で食べることにした。

「ばあさんたちだって、昨日は遅くまで星を見ていただろう」

「よくあることだよ。ここは星読みの里なんだから」

 まあそうだよな、と頷いてアトリはパンを口に放り込んだ。彼がここで育っていたころからそうだった。

 もうずっと昔から、星読みの里の人間はそうやって暮らしている。夜も不寝番が空を見上げ続け、なにか変わりがあれば長を呼び解釈を得る。そしてまた、早朝からふつうの里と変わらず、羊や山羊を牧に出し、生活を始めるのだ。トゥーラはアトリが小さなころから既に長で、夜中に呼び出されてはアトリを置いて空の星を読みに行った。

 トゥーラは、朝食代わりにアトリが沸かした茶に干しブドウを入れて飲む。これも昔からのことだった。

「昨日の星をどう読んだ?」

「仮にも星読みを名乗るなら、自分で考えな」

 こういう物言いに辟易するが、だからといってじゃあ辞めるとも言いがたい程度には、彼らや己の生業に未練があった。ため息をついて、チーズの最後の切れ端を食べる。

「じゃあ質問を変えるよ。今回おれは、どうして呼び出されたんだ」

 トゥーラはゆっくりお茶を飲む。わざとやっているとしか思えないほど時間をかけもったいぶった所作で茶器を置き、アトリをまっすぐ正面から見つめた。深い、黒い瞳は彼の心まで見透かすようで苦手だった。ほんのわずか視線をそらすと、まだターバンをしていない髪が揺れ、視界を遮る。ふ、と養母がほほえんで空気がやわらいだ。

「髪が伸びたね。ずいぶん放ったらかしにしてる」

「そこかよ」

 手を伸ばそうとするのを押しやって、アトリは椅子の背にかけていた布を頭に巻き始めた。ターバンはこのあたりの風習ではないが、彼は常日頃からそうする習慣だった。

 養い子がきっちり頭を包み終えるのを待ってから、トゥーラは立ち上がった。

「ついてきな。アトリに会わせたい子がいるんだ」


 外に出ると、気持ちのよい晴天だった。春から夏に移り変わるところである。草原の下草は青々として、あちこちに白い花が咲いているのがかわいらしい。春に生まれた家畜の仔の世話に忙しい時期である。大人も子供も、色あざやかな衣装をまとって走り回っている。しぼった乳を桶で運ぶ少年や、小さな子羊に順に乳を飲ませている少女、もっと小さな子は絨毯を干して叩いていた。

「アトリだ! いつ来たの?」

「なにしに来たの?」

 珍しい客人にまとわりつく子供たちを適当にあしらって、トゥーラの後を追う。草原の小さな里には、彼女の家のように家畜の糞と泥を混ぜて焼いたレンガ作りの家と、遊牧民らしい幕屋が混在している。養母は小さな幕屋に入っていった。やや不審に思いながらも追ってそこに入って、アトリは目を丸くした。

「リコ、いい子にしてたかい」

「うん。でも、ひとりだとつまらない」

 リコと呼ばれて、幕屋の隅にちょこんと座り込んでいた少女が明るい声でこちらを向いた。その動きに合わせて、三角の耳がピンと立ち、やわらかそうな尻尾が跳ねる。それから、見知らぬアトリに気付いて警戒するように耳を伏せ尻尾も丸まった。長い黒髪を緩く編んだ少女は、まだ十歳に満たないだろう。


 ――少女は、狼の耳と尻尾を持っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る