TSのおまけ『社子ちゃんチョーシに乗る』

『社子ちゃんチョーシに乗る』




 そのおっさんは、疲れたおっさんであった。


 割かしブラックな会社に勤め、多少は上の地位につき。

 言う事を聞かない生意気な部下と、理不尽を押し付ける強面の上司に挟まれ、日々胃壁をすり減らすかわいそうな中間管理職であった。


 趣味は無く、またそれを探す時間も無い。

 友人や、妻子でも居れば多少は潤いもあったのだろうが、それすらも無く。


 毎日毎日ただ一人、狭いアパートで寝起きしては、会社に行ってまた帰るだけの繰り返し。

 月に一度あるかないかの休日も、ただ横になっているだけで消費される。


 ……疲れていた。

 疲れていたのだ、おっさんは。



「……はぁぁぁぁ」



 遅く、穏やかな夜。

 月明かりと街灯の照らす暗い夜道を歩きつつ、おっさんは深く長い溜息を吐いた。


 仕事は今日も散々であった。

 ヘマをした部下のミスを尻拭いし、取引先に謝罪行脚。当然自分の仕事は滞り、更には上司から大量の書類を押し付けられ、全てを終えた時にはこんな時間。

 これで残業代が付けばまだ我慢も出来るのだが、上司がそれを許さない。正直何らかの法律に違反しているとは思うものの、それをどこかに訴える元気も無かった。


 おっさんは、日々をやり過ごすだけで精いっぱいであったのだ。



「…………」



 どうしてこうなってしまったのだろう。夜空を見上げ振り返りかけ、すぐにやめた。


 だって楽しかった頃の記憶を思い出すと、その眩さに目が潰れて死んじゃうんだもの。

 故にまた下を向き、薄汚れた革靴の先をじっと見る。そこに映り込むくすんだ月明かりくらいが、今のおっさんにはお似合いだった。



「……あ」



 コン、と。落ちていた空き缶を蹴っ飛ばす。

 爪先ばかりを見ていて、落ちているのに気づかなかった。


 おっさんは喧しく転がる空き缶をしばらく見つめ、やがて無視して通り過ぎ……すぐに引き返し拾い上げた。

 まだ残っていたらしい缶の中身が指先を汚すが、まぁ構うまい。おっさんはとっくの昔に、薄汚れているのだから。




 そのまま近所の公園に入り、ゴミ箱に空き缶を放り込む。


 本当はコンビニに寄ってウェットティッシュを買いたい所ではあったが、近くに無かったのだから仕方ない。代わりに公園の水道を使い、指を流した。



「……遊んだよなぁ、昔……」



 そうしている内に、公園で遊んでいた子供の頃を思い出す。


 ゴミ箱の中から適当な空き缶を拾い上げ、それを使って友達と缶蹴りをしたなぁ。

 終わった後は水道から水を飲んで、蛇口を指で抑えて水の掛け合いをした事もあったっけ。


 おっさんは脳裏に浮かぶそれらに柔らかな笑みを浮かべ――直後に目が潰れて死んだ。

 だから言ったじゃないか、眩しすぎて死ぬって……。



「はぁ~あぁ~あぁ~~~……」



 なんて茶番を一人でやりつつ、先程よりももっと大げさな溜息を吐く。


 何かもう、嫌だった。

 部下も嫌だし、上司も嫌だし、仕事も嫌だし、自分自身も、過ごす毎日ぜんぶ嫌。

 なのに何かを変える事も出来ず、逃げ出す気にさえなる事が出来ない。終わっとる。



「…………」



 そうして一通り溜息を吐き出し終えると、おっさんは再びのたのた歩き始めた。

 帰るのだ。眠って、また働き、嫌な思いをして、もっともっと疲れるために。


 おっさんは鉛のように重い足を引きずりながら、もう何度目かも分からない溜息を吐き――。



「――ねぇ、おっさん」



 その時、声をかけられた。


 まるで透き通るような、美しい声だった。

 ハッとして顔を上げれば、そこには人影が一つ立っていた。



「――……」



 声と同じく、とても美しい少女だった。


 高校生ほどだろうか。艶やかに煌めく長い御髪に、あどけなさと妖艶さの混在する甘い顔立ちをしていた。

 少しアウトロー系の入った服装の、如何にもギャルと言った風体だ。


 おっさんはその少女の美貌に暫しの間目を奪われ――やがて我に返り、後退る。



「ええと……何か用かな……?」


「…………」



 問いかけに少女は何も答えず、ただおっさんへと近づいて行く。


 正直、めっちゃ怖かった。

 こんなギャルっぽい美少女が疲れたおっさんに声かけるなんて、危ない匂いしかしない。



(……よろしくない、な)



 冤罪からのカツアゲか、それとも美人局からのカツアゲか。或いは、今流行りのパパ活とやらでのカツアゲか……。

 おっさんは小動物のようにぷるぷると震えつつ、近づく少女の言葉を待ち、そして、



「――あ、あのさぁ!? アイヤ、あ、あのねェ!? おお、おっ↑さん↓暇なら俺、ちゃう、あーしとぉ! ぉお、あそ、ぉ、あぉ、あそ、あの、あそ……ばぃまセンカ……?」


「具合悪いの?」



 突然どもり、つっかえ、蚊の鳴くような声となり。

 おまけに真っ赤な顔から冷汗と脂汗を流しながら俯いたその姿に、おっさんは思わず心配の声を投げかけた。







「……はい、お茶」


「アッ、どもス……じゃない、えと、あざまる~」



 公園のベンチに座り、落ち着いた後。その少女は、社子とだけ名乗った。

 本名か源氏名かは不明ではあったが、おっさんは何となく本名だろうなと思った。



「それで……本当に大丈夫なんだな? 具合悪いとかでは……」


「や、ほんとそんなんじゃないス……あ、やっぴ~☆」


(何だか無理してる感あって痛々しい子だな)



 そう思えども、口には出さない。

 何でもかんでも指摘して話を拗らせる上司のようにはなりたくないと、おっさんは心に決めているのだ。


 ともあれ、体調が悪い訳で無いのならもう付き添う必要も無い。


 結局何が目的で話しかけてきたのかは分からず、雰囲気的にカツアゲするような子でもなさそうだったが、こんな深夜におっさんが女子高生と共に居るのは大変なリスクを伴うのには変わらない。

 早急に離れるべきだろう。


 社子がペットボトルのお茶をちびちび飲んでいる隙に、おっさんはじりじり少しずつ距離を取り……ふと、周囲の状況を思い出す。


 深夜。明かりも少なく、人気も無し。

 おっさんがここで逃げたら、この子はそんな場所に一人きり……。



「……あー、君? 誰かお友達とか一緒だったりしないかな?」


「んえ? や、一人スけど……」


「……じゃあ親御さんに電話を……」


「施設育ちなんで、まぁ……」



 しまった、デリケートな所を踏んだ。

 おっさんは顔を青くしたものの、しかし社子は気に留めた様子も無く、ハッと気づいたように身を乗り出した。



「そ、それよりおっさんさん! さっきの話だけど、暇だったらあーしと遊ばない? ね、あのー、お茶してあげるから、あっ、割り勘で……あいや、自分で払いまスから! アノ、ねっ!」



 何かもう色々とボロボロだな、この子。

 ギャルになろうとしている頑張りは感じるのだが、見た目以外の全てがダメだ。


 おそらく完全な非行少女という訳では無く、それに憧れているだけなのだろう。

 その必死とも言える姿に今まで抱いていた危機感も薄れ、おっさんの目が優しくなった。



「……残念だけど、俺は暇って言葉とは無縁なんだ。ほら、明るい所まで送るから、今日は帰んなさい」


「えっ、あれ、ちょっ」



 そう言って社子を立たせ、多少強引に街の方角へと連れて行く。

 途中に職質されたとしても、彼女の様子ならそう酷い事にはならないだろう。むしろ警官に押し付けてしまえば、色々な意味で安心である。



(お、おかしい、うまく手玉に取れない……自信、少しはあったのに……)


「まぁ、君も色々と大変そうだけど、身体は大切にしなさい。せっかくそんな可愛いんだから、薄汚れてしまうのはもったいない」


「! か、可愛い、えへ、そスよね、可愛いスよね、俺、違うあーし、ね。えへ、えへへ」


「……聞いてる?」



 そうしてぽつりぽつりと会話を交わしつつ、まだ明かりの残る大通りまで歩き。

 社子の住むという寮の近くにまで送り届けた後、おっさんは彼女がおずおずと伸ばした手を背に立ち去った。


 少し後ろ髪は引かれたものの、流石にこれ以上向こうの事情に深入りしたくはない。

 おっさんは明日も仕事であり、そして物凄く疲れる予定なのだ。この上、更に疲れそうなものを背負いこむ余裕など無いのである。


 ……だが、まぁ。



「少しだけ、癒されたな……」



 外見的にも中身的にも、可愛らしいものを見た。

 なんとなく、軽くなった足取りで。おっさんは月を見な上げがら家路についたのであった。







 とはいえ、それで何かが変わる訳でも無い。

 おっさんの日々はやっぱり疲れる事だらけで、その日も夜遅くまで仕事が長引く事と相成った。


 日に日に態度が悪くなり、指示すら無視し始めるようになった部下。あからさまな憂さ晴らしで、書類の無意味な手直しを何度も要求する上司。

 ここまで来ると自分に何か問題でもあるのかと疑いたくもなるが、さっぱり思い当たる事は無し。

 聞いても返るのは罵倒ばかりであり、改善も何も出来ないまま悪意を受け止め、流されていくだけ。


 深夜の街中。淀んだ眼で歩む暗い道先は、まるで自分の未来を暗示しているようにも思える。

 おっさんはやはり大きな溜息を吐き――ふと前方に見た事のある顔を見つけ、重たい足を止めた。



「…………」


「アッ、ど、どもス……」



 あの美しい少女、社子だった。


 今度はギャルの装いではなく清楚系の服装をしていたが、その美貌に違いは無い。

 何故こんな所に居るのだろう。思考力の落ちた頭でぼんやりと眺めた。



「……ああ、うん。ええと……何か?」


「あいや、あのこれ、この前貰ったお茶のやつ……」



 そう言って社子が差し出した掌には、以前おっさんがあげたお茶の代金が収まっていた。



「こんな事のために会いに来たの……?」


「や、こういうの、ちゃんとしなきゃっていうか……はい」



 深夜徘徊する割に、結構真面目な子であるらしい。

 この程度の金額別に良いのにと思ったが、一々断るのもめんどくさい。とりあえず素直に受け取り、ポケットに放り込んでおく。



「あー……律儀にどうも。それじゃあ、用が無いならこれで……前も言ったけど、こんな遅くに出歩かないようにしなさいね……」


「えっ、あ、はい、あざした……や、てか大丈夫スか……?」



 そうしてフラフラと歩き出す姿が余程危うく見えたのか、社子は心配そうな顔でおっさんの後を追った。

 職質されそうな構図だと若干危機感を抱いたものの、前と同じくそれでもいいかと放置する。



「うわ、また性欲ゲージほぼ0……なんてーか、その……元気ないスね」


「……ちょっと、疲れちゃっててね。それより、君も早く帰んなさい……ああそうか、それなら送ってかないとな……」


「き、今日はだいじょぶス。大丈夫なようにしてきたんで、だいじょぶス、はい」


「……そう?」



 なら良いかぁ。深く考えずにそう思い、のたのたと家路を辿る。

 そして何故か社子も離れないまま、静かな夜道に二人分の足音が重なった。



「……その、この前はすいませんでした。変な絡み方して……」


「……?」



 ぽつり。

 唐突にそう謝られ、おっさんは首を傾げた。



「えー……ああ、あーしと遊ばないとか何とか……」


「すんませんすんませんホントすんません。えと、あの時は夜が穏やかすぎて、昔の事ちょっと思い出してぐるぐるしてて、そんでその、えいやーってなっちゃってて、はい……」


「えいやー……」



 あまり要領を得なかったが、自暴自棄になっていたという事だろうか。

 それでギャルの格好をしてああなるという事は、まぁ男絡みで何かあったんだろうと察する。これだけ可愛ければ、縺れ話の一つや二つはあってもおかしくはない。



「そう……何があったのかは聞かないけど、ああいう事はもうやめなよ。声かける人によっては、とんでもない事になるんだから」


「……はぁ、まぁ、はい。へへ……」



 分かっているのかいないのか。判断の付きづらい愛想笑いに不安になったが、そこまで深く干渉する義理も無い。

 おっさんは敢えて見ないフリをして、歩き続けた。



「…………」


「…………」



 歩き続けた。



「……………………」


「……………………」



 歩き続け……。



「…………なぁ」


「! あハイ、なんスか」


「いや……どこまで付いてくるんだ……?」



 そうしておっさんの住むアパート前まで到着した時、とうとう社子へと問いかけた。


 その内帰ると思っていたが、結局ここまでついてきてしまった。

 流石に疲れた頭でもまだ何かしらの用があるとは察せられ、忘れていた危機感が鎌首をもたげる。


 すると社子は途端にどこか期待するような光を目に宿し、数歩離れて軽く腕を広げた。



「……ど、どうでしょ」


「……何が?」


「や、だからその、服装……ってか、カッコどうかな、っていうか……」



 後半の言葉は尻すぼみになり聞こえなかったが、つまり服装の評価が欲しいという事だろうか。


 言われてじっくり眺めてみるものの、おっさんにはファッションの善し悪しなど分からなかった。

 シックで清楚な着こなしだとは思うのだが、そもそもシックってどんな意味だろう? そんなレベルである。


 ……なので、素直に感じたものを言う事にした。



「……似合ってるんじゃないか。清楚っていうの? 可愛いと思うよ。特にその、青い植物のブローチとか……」


「!! そ、そスか? えへ、スよね。えへへ……あ、あざまス……!」



 すると社子は途端に嬉しそうにはにかみ、ぺこりと一礼。

 満足したようにおっさんから離れていった。



「あの、この前はほんとすいませんでした。もう嫌な絡み方しないんで……その、また見かけたら、話しかけても良いですかね……?」


「……止めといた方が良いんじゃないか。パパ活? だの援交だの変な噂立つかもしれないし、君だって嫌でしょ」


「やー、そこらへんなら大丈夫なんで! ほんと、戻れば何の心配もいらないんで! じゃ、あの、そゆことで、たのまい!」


「もし」



 おっさんの呼びかけは間に合わず、社子は儚げな見た目に似合わぬ健脚で走り去って行った。



「……帰り、大丈夫かな」



 ぽつり呟くも、答えは無い。

 おっさんは暫く彼女の去った方向を眺めていたが、やがて溜息を吐くとアパートの自室へと向かった。


 疲れた……と言いたいところだが、何故か少しだけ気力というか精力というか、そういったものが戻った気もする。

 どうにも厄介事になりそうなのに、不思議だ。おっさんは窓から差し込む月明りを見上げ、その日を静かに終えたのだった。







「あ、ぐ、偶然スね。えへへ……」


「……いやぁ、流石に公園に待ち伏せててのそれはちょっと」



 それ以降、社子はおっさんの前に度々現れるようになった。


 初めて会った時の公園、会社帰りに通る小路、たまたま寄ったコンビニ、そしておっさんのアパート。

 場所は違えど深夜帯という事は共通し、偶然を装ってまぁぴょこぴょことやって来る。


 ……既に知られている帰り道やアパートはともかく、立ち寄るコンビニはどうやって特定しているのだろうか。考えると怖くなるおっさんである。


 ともかく、その度に社子は纏う衣装を変えていた。

 最初のギャル系、次の清楚系はもとより、ロリータ系やらボーイッシュ系やら更にはおっさんが知らないようなジャンルまでよりどりみどり。正直に言って、ついていけない。


 そしてそれを見せびらかした後、彼女は毎回何かを求める目を向けてくる。

 最初こそおっさんも分からなかったが、今は察していた。


 ――『可愛い』と。彼女はきっと、誰かにそう言われたいのだ。



「んで、ど、どスか、今日は。おっさんさんの青春時代イメージで、レトロな感じに纏めてみましたケド……」


「ああ、うん……可愛い、可愛いね……目が潰れて死んじゃうよ、俺……」


「!!! えへ、えっへへへへ……!」



 若い頃を思い出して死に絶えたおっさんをよそに、社子は素直に喜び身をくねらせる。


 ……よく考えれば、なんだか闇の深い子だ。

 この美貌なら『可愛い』など言われ慣れている筈なのに、よりにもよっておっさん相手にこの反応。

 加えて言葉遣いも若干妙で、深夜徘徊を繰り返していると来た。幾ら施設育ちと言っても、どうにも。



(児相……いや、虐待されている様子も無いんだよな……)



 もしそうだったら、こんなにも多種多様な衣服を取り揃える事なんて出来ないだろう。謎だ。



「えへ……あ、あれ、どしたんスか。そんな死んじゃって……」


「……いや、いつも通り疲れてるだけだよ。死ぬほど」


「うーん社畜」



 社子はかわいそうなものを見る目でおっさんを見ると、ベンチに座る彼の横に腰掛ける。


 衣装の評価が終わったら、そのまま少し雑談する。

 いつの間にかそれが二人の習慣になっており、おっさんはその時間が嫌いではなかった。



「あの、そんなキツいんスか、お仕事」


「……業務内容としてはそれほどなんだけど、その量と人間関係がね」


「……えと、お疲れさまです。その、帰る途中につき合わせてる俺が言えた義理じゃないスけど……」


「いやまぁ、割といい気分転換になるから……君と会った日は、何でかよく眠れるし」



 それはお世辞ではなく、事実であった。


 アレな部下とソレな上司に挟まれ常時ずっと瀕死状態であるおっさんだが、何故か社子と会った夜は若干ながら体力気力その他諸々が回復するのだ。

 最初は気のせいかとも思ったが、何度も同じ事が起き続ければ流石にそうと確信していた。



「何というかな……君が精気を分けてくれてる、みたいな。いや、よろしくないなこの言い方」


「アッ、エッ、どどうスかね。はは、不思議な事、あるスね……!」



 ギクーン! と何故か白く光っている指先を隠して跳ねる社子に気付かず、おっさんはゆっくりと立ち上がり、伸びをする。

 バキボギと背骨からものすごい音が鳴り響き、先程とは別の意味で社子の身が跳ねた。



「うお……ヤバい音しましたけど……」


「……明日久々に休みだし、整体行くかな」



 まぁ、実際は動けず寝ているんだろうけど。

 おっさんはトントンと軽く腰を叩くと、ベンチに置いた鞄を拾い上げ、社子に手を振った。



「さて、今日はここらでお開きにしようか。君、明るいとこまで送ってくから……」


「毎度言うけど、全然へーきスから。いつも無事でしょ?」


「……そうなのかなぁ」



 彼女は余程夜遊びに慣れているのか、危険な目には勿論補導の類にも遭った事が無いそうだ。

 おっさんはそれを全て信じている訳では無かったが、送る最中にいつの間にか姿を消している事も多く、逃げ足が速い事は実感していた。


 そして撒かれるのならば、強く言い募っても意味は無し。

 おっさんは心配を呑み込みつつも、社子の言に従う事とした。



「うん……ならまぁ、気を付けてね、ほんとに」


「あざまス。……そんじゃ、また」



 社子は照れくさそうに小さく笑うと、手を振りながら駆けて行った。


 相変わらず、凄い速度だ。

 一瞬の内に公園外に消えた彼女を最後まで見送ると、おっさんもまたいつも通り、月を見上げて歩き出す。


 ……そういえば最近、くすんだ月明かりを見てないな。

 おっさんはぼんやり、そんな事を考えていた。







 翌日。

 なんと驚くべき事に、おっさんには動く元気が残っていた。


 休みの前日に社子と出会えたのが良かったのだろうか。

 おっさんは感動に打ち震え、敷きっぱなしだった布団を久々に干した。


 この調子だったら休みの日を満喫できるぞ――と言いたい所であったが、残念ながらおっさんは無趣味である。

 なのでとりあえず部屋の掃除をしてみたものの、隣部屋の住人が騒音に敏感ですぐ壁ドン(本来の意味)が飛んでくるため本格的には行えず、そもそも物が少ないためすぐに終わってしまった。


 他にする事と言ったら昼寝くらい。これじゃいつもの休みと変わらないじゃないか……おっさんはそう肩を落としかけ、しかしふと昨夜の事を思い出す。



「……整体、行ってみるか」



 言ってみただけで本当に行く気は無かったのだが、いい機会だ。行ってみるのも良いだろう。

 おっさんは珍しい事にイキイキとしながら、アパートの扉を開けたのだった。




 ――数時間後、おっさんはとある自然公園のベンチで酒を飲んでいた。


 整体は大成功。

 腕のいい整体師により様々な場所のバキボギが解され、慢性疲労が吹き飛んだ。


 そうして苦しんでいた頭痛、肩こり、腰痛、関節痛などが良くなれば、帰り道に散歩として遠回りをしてみる気にもなる訳で。

 そうしてたまたま見かけた自然公園に気まぐれに足を踏み入れ、緑を楽しみながら晩酌用に買った缶ビールを一本開けてみたりして。


 これだよ、これ。

 おっさんは何年かぶりに過ごす充実した休日に、ほろりと一筋の涙を流していた。



「――あっ」



 と、その時、どこかで少年の声が上がった。

 それになんとなく聞き覚えのある気がしたおっさんは、声の主を探しきょろきょろ辺りを見回して、



「お、おっさんさん! 偶然スねっ!」


「えぇ……」



 すると歩道横に生い茂る木々をすり抜け、こちらに走り寄る社子の姿が見えた。


 どうやら、また待ち伏せていたらしい。

 気まぐれに寄った自然公園にまでとは、流石にストーカーも過ぎないかと、また怖くなるおっさんであった。



「いやぁ……ちょっとこれはとぼけるの無理筋じゃない……?」


「や、今度はほんと偶然ですって! ちょっと蜜……ぶらぶらしてたら、おっさんさんの事見つけて、慌てちゃって……」


「……何で?」



 慌てる事なんてあるだろうか。

 おっさんは怪訝な顔で首を傾げ――いつもの癖で社子の服装に目が行き、眉を上げた。



「あれ……今日の服は何か、いつもと違う感じだな」


「え? あ、あぁハイ、今日はほんとに偶然だったんで、そのぅ、普段着というか……へへ」



 そう言って身を縮こませる彼女はいつもの整えられたファッションと違い、サイズの違う男ものを適当に合わせた、なんともダボッとした格好をしていた。


 普段着にしても、ちょっとだらしないのでは……。

 そう思ったおっさんが何かを言うより先に、慌てた社子が勢いよく彼の横に腰掛け、話を逸らすように言葉を重ねる。



「と、というか、そっちはどしたんスか。休みらしいスけど、ねぇ、こんなまっ昼間からお酒とか……」


「あー……いやほら、昨日ちょっと話に出たろう、整体――」



 そう、横の社子を見下ろした瞬間。

 おっさんの動きが一瞬止まった。


 ――社子のダボついた襟元の隙間から、二つのふくらみと白い胸板が見えていた。



「――に行くって。それが存外効果あって。いい感じに気分良くなったんで、ついな」



 しかし、おっさんはもう初心な純情少年ではないのだ。

 すぐに悟られない自然さで目を逸らすと、普通に会話を続けていく。

 幸い社子も気付いた様子は無く、おっさんは内心ほっと息を吐く。セクハラ怖い。



「……、……へぇ、まぁ、身体の調子良くなったんならよかったです……っと、そだ俺ちょっと用事があったんでした。なもんですいません、話しかけといてアレですけど、また今度……」


「え? ああ、そうなのか。それじゃまた」


「あッス。そっちもお休み楽しんでくださいね。そんでは」



 社子は唐突にそう告げると、来た時と同じように走り去って行く。嵐のようだ。

 どうやら本当に偶然見かけて来ただけらしい。ものすごい勢いで遠ざかる背中を眺めながら、おっさんはまた缶ビールを傾ける。



(……下着、つけてなかったな――いやいや、よろしくないぞ、それは……)



 先程の一幕を思い出しかけ、首を振る。


 心身共に充実しているせいか、枯れ果てていたモノまで若干潤っているようだ。

 おっさんはしっかりと脳裏に残ってしまったものを忘れるため、ぬるくなった缶ビールを一気に煽ったのだった。



 ――走り去った社子が赤面しつつもゾクゾクと、戸惑いと恍惚の入り混じる表情を浮かべていた事を、知る由もなく。




 *




 たった一日充実した休日を過ごした所で、おっさんが疲れたおっさんである事は変わらない。


 仕事の量が減る訳でも、部下や上司が真っ当で優しい人間になる訳でも無し。

 疲労も悪意も残業も、変わらずにおっさんを圧し潰し続け、気を抜けば息すら出来なくなりそうだ。


 ……だが、少しだけ夜空を見上げられるようにはなっていた。

 目が潰れないよう俯いて、薄汚れた革靴に映るくすんだ月明かりを眺めるのではなく、ちゃんと天に輝くお月さまを瞳に映す事が出来ている。


 そして、それはきっとあの少女の――社子のおかげなのだろう。


 眩き存在感を持ちながら、こんな薄汚れたおっさんにわざわざ絡む変な子供。

 可愛いと言われた彼女がはにかむ度に、他愛のない雑談で笑う彼女を見る度に、おっさんは自らの心身が癒されてゆくのを確かに感じ取っていた。


 だからきっと、その笑顔こそが月だった。


 社子と言葉を交わす僅かな時間は、いつの間にやらおっさんにとって、かけがえのないものとなっていたのだ。


 ……いたのだ、が。





「じゃ、じゃ~ん……」


「……………………」



 とある日の深夜。

 いつも通りにおっさんの前に現れた社子は、中々に煽情的な格好をしていた。


 大きく開いたタンクトップの胸元に、丸出しになった白い腋。

 他にもダメージジーンズから覗く太腿をはじめ全体的な露出の高い、おっさんとしては目のやり場に困る服装だ。


 社子も一応恥ずかしくはあるらしく、どこか落ち着きなくソワソワ身体を揺らしている。



「……え、えと。ど、どう……あの、何か言って貰えるとぉ……」


「あ、ああいや、もちろん可愛いよ。可愛い、けど……」


「……けど、けどなんでしょ? えへ、えへへ」



 おっさんが言葉尻を濁すと、社子はその先を求めて擦り寄って来る。


 これである。

 どうも最近の彼女は可愛いと言って貰うだけでは飽き足らず、何か別のものを求める素振りを見せていた。


 それが金品や現金など下世話な類の物で無いとは、おっさんも分かってはいる。

 分かってはいるのだが……。



「……いや、何でもない。それより何か羽織るものは無いのか? 流石にこの時間にそんな恰好は色々とまずいだろ」


「! な、何がまずいんでしょ……その、ちゃんと言ってくれないとぉ……」


「言ったらセクハラで俺が捕まるんだ。いいからほら、これでも着て――」



 仕方なくおっさんが上着を脱ぎ、社子の肩にかけようとした瞬間、その胸元が彼女自身の手で大きく引っ張られた。

 いつか見た、形のいい白いふくらみ――反射的におっさんの視線がそこを向き、



「~~~! え、えへへ、あざまス! あざまス! じゃあ、あの、今日はこれでっ!!」


「えっ!? あ、ちょっ」



 その瞬間、社子の顔が喜色と共に真っ赤に染まり、目にも止まらぬ速さで駆けだした。

 呼び止める時間も無し。おっさんはあっという間に姿を消した社子を呆然と眺め……やがて溜息を吐くと、近くの塀に背を預け、座り込む。



「よろしくない……よろしくないよなぁ……」



 おっさんは月を見上げ、一人呟く。


 ――ここ数日、社子の纏う服装が露出の激しいものへと変わっていた。


 今のような胸元の開いたものや、足を大きく晒すもの。

 半分くらい臀部が見えていたり、限界ギリギリまで鼠径部を見せつける作りのものまで、本当に目のやり場に困るものだらけだった。


 そして何かを期待するようにおっさんを見つめ、時には先程のようによろしくないイタズラを残して去って行く。

 一体何がしたいのか、全く訳が分からない――と言いたい所ではあったが、何となく理由を察せてしまうのが困りもの。



(……自然公園の時、たぶんバレてたんだろうな……)



 恥ずかしさに顔を覆う。


 偶然にも社子の胸元を直視してしまった、あの一幕。

 おっさんはバレていないと思っていたが――おそらく、彼女にはその視線がバレていたのだ。

 そして何らかの悪影響を与えてしまい、こんな行動をさせるに至ってしまった――。


 ……ただの推察といえばそこまでだが、社子があんな格好をし始めたのがその直後だった事もあり、無関係とは思えなかった。



(ああいう視線がクセになったとかだったらどうするよ……どうにも出来んわ……)



 注意にしろ説教にしろ、おっさんには上手く出来る気がしなかった。


 そういうファッションであると言われてしまえば、詳しくないおっさんには二の句が継げず。かといって無理矢理抑えつける事もしたくはない。

 おっさんは自分の上司のような人間にはなりたく無いのである。


 ……そして何より問題なのは――おっさん自身が、多かれ少なかれ社子にそう言う目を向けてしまっている事だった。



「……よろしくないなああぁぁぁぁ……!」



 例の休日以降、ちょっぴり心身に余裕が戻ってきているせいか、よろしくない部分にも段々元気が戻っているのだ。

 少し前まではあの美貌にもピクリとすら反応しなかったというのに、今やふとした時にピクッとしてしまう。いや、心の方がね。


 そしてその揺らぎも、おそらく社子にはバレている。

 でなければ、先程のようなイタズラなどするものか。これでは何を言っても説得力など生まれまい。



(……いや、だからといってほっとく訳にもいかんのよ)



 というか、放っておいたら社子は勿論おっさん的にもよろしくない事態になりそうだ。


 また蘇る白いふくらみを頭を振って散らしつつ、おっさんは苦労して立ち上がる。

 社子がどういったつもりかは知らないが、ああいった視線を送ってしまったおっさんをキモがっていないのなら、まだ説得の目はある……と思いたかった。


 次だ。次に会った時には、ビシッと言うぞ。

 おっさんは明るい月を見上げて気合を入れると、敢えて靴底を鳴らしながら歩き出した。


 ……こんな状態でも心身が疲れるどころか癒されている事に気付き、流石に自分を疑うおっさんであった。





 ――そして、機会はすぐに来た。


 その日は重たい雲が空を覆う、湿った香りのする夜だった。


 煌々と輝く月も雲に隠れ、くすんだ光が辛うじて届くのみ。

 夜の暗闇の方が圧倒的に強く、夜道を照らすには頼りなかった。


 そんな中、おっさんは早歩きで帰り道を急いでいた。

 おっさんはこういった雨天時に備えて予め傘を会社に常備していたのだが、いつの間にかアレな部下に持って帰られ失くなっていたのだ。立派な盗難である。


 幸い仕事が終えるまで降り出す事は無かったが、長くはもたないだろう。

 おっさんはチラチラと真っ暗な夜空の様子を窺いつつ、アパートへの道を急ぎ――。



「……ど、どもス」


「うおっ」



 突然、曲がり角から社子がひょこっと首を出した。

 いきなりの事に驚いたおっさんがたたらを踏めば、彼女は申し訳なさげに身体も出した。


 ……やはり、露出度の高い格好だ。

 今回は胸元や太ももに加えヘソまで露出しており、おっさんはそっと目を逸らす。



「あ、すいません……より偶然の出会い感を演出してみたくて……」


「演出て。いやいいけど、あー、今日もそんな感じの格好なのか」


「え、えへへ……ストリート風……どスかね」



 可愛くない!


 ……と言えれば一番良いのだろうが、以前試しにそれを言って泣かせかけた事があるため、おっさんには出来なかった。

 おっさんは女の子に泣かれると弱いのだ。



「ああうん、勿論可愛いが……その、もう少し控えめには出来ないのか?」


「……何を、スか?」


「いや、だからな……」



 社子は漏れそうになる笑みを必死に押し殺したような顔をして、衣服の裾を広げる。

 途端目に飛び込んでくる白い肌に、おっさんの視線がまたもや自然に吸い寄せられ……それを感じた社子は、何故か嬉しそうに頬を紅潮させていた。



(ぐ……これは、やっぱりそういう事か……?)



 明らかに『そういった』視線を悦んでいる。

 この調子では、放っておけば危惧通りどんどんよろしくない方向にエスカレートしていくだろう。



「……なぁ、少し話があるんだが」


「え……、っぇあ、は、あハイ、ハイ……はい」



 何故か社子は緊張し、居住まいを正した。


 ……どうも何か勘違いさせてしまったようだが、気にしている場合ではない。

 今まさに彼女を悦ばせてしまった自分が何を説教出来るのかという話だが、ここはちゃんとしなければならない所だ。

 おっさんはセクハラと詰られる覚悟を決め、社子へと一歩踏み出して、


 ――バケツをひっくり返したような豪雨が二人に降り注いだのは、丁度その瞬間の事であった。






「…………」



 おっさんの部屋。

 物の少ない殺風景なその一室に、シャワーの音が響いていた。


 それは外で降り頻る豪雨の音に紛れた、最早ホワイトノイズにも近い微かな音だ。

 しかし、一人冷や汗を流すおっさんの耳には、いやに大きくそれが流れ続けている。


 ――社子の、シャワーを浴びている音が。



(……よろしくない、よろしくないぞ)



 どうしてこうなった……など、語るべくも無い。


 突然の豪雨に見舞われたおっさんと社子は、ひとまず屋根のある場所を求めて逃げ惑った。

 しかし付近に店の類が見当たらず、そうこうする内に二人揃って濡れ鼠。こうなっては急いでも仕方が無いと諦め、ひとまずおっさんのアパートで雨宿りしつつ身体を乾かす事にした。

 ただそれだけの話である。


 ……が、もうちょっと他に良い方法は無かったのか?

 おっさんは今になって後悔したが、後の祭りであった。



(もし今誰かに通報されたら言い逃れは出来ない……色々と細心の注意を……)


「……どど、どもス。お先、出ました」


「!」



 あれこれと考える内、身体を拭き終えた社子がシャワー室の扉を開けて姿を現した。


 使い慣れたシャンプーに混じり、ふわりと少女の香りが舞う。

 またも自然と視線が向かいそうになるが、おっさんは今度こそ我慢した。


 今この場所で先程と同じ轍を踏むのはまずい。彼女の姿を見ないまま、何事も無いかのように振舞っておく。



「……悪かったね、こんなとこに連れて来て。狭いし臭いだろ、色々」


「エ、あいや、全然……。散らかって無いし、サッパリしてるし……ハイ。てかこちらこそすんません、タオルとか着替えとか貸して貰っちゃって……」


「いやぁ、それもむしろこっちが謝る側だから……」



 抵抗なく着てくれて、おっさんは本当に助かっていた。

 こんな可愛い子におっさんの服やタオルを使わせるとか、それ自体が何らかの法に触れそうだ。



「あの、おっさんさんの方は、ほんと入らなくていいんスか……?」


「まぁ俺はタオルだけで十分だから……身体もそんな冷えてないし」



 本当はちょっと寒かったが、おっさんは我慢した。

 今の状況で女子高生の使った後のシャワー室におっさんが入るなど、こちらも何らかの法に触れそうだ。



「それと悪いんだけど、君の着替えは帰ったら自分でなんとかしてくれるか。この部屋、洗濯機無いから……」


「あー、ランドリー族で」


「隣が些細な事で壁ドンしてくるんだ……大きな音の出るものなんて、とてもじゃないけどな……」



 多少ぎこちなくはあったが、意外と会話は弾んだ。


 その美貌の割には同性と話しているような気安さもあり、おっさんの肩から力が抜ける。

 そしてそれは社子にとっても同じであったようで、少しずつ緊張が解れていっているようだった。



(…………)



 薄暗い室内。豪雨が建物を叩く音をBGMに、ゆったりと夜が過ぎる。

 こんな落ち着く筈も無い状況にもかかわらず、おっさんの心は凪ぎ、身体の芯から癒されているような心持ちとなっていた。


 天候に反し、とてもとても穏やかな時間。

 やがてどちらからともなく言葉も止まり、ただ雨の音だけが続く。


 ……よろしくない。

 おっさんは頭のどこかでそう思ったが、どうしようもなかった。



「……最初見た時、昔の俺みたいだなって」



 そうして互いに黙り込む内、ぽつりと社子が零した。



「初めて会った時ス。疲れた感じで、フラフラになって、溜息とか、呻き声とか繰り返しながら、夜遅くを歩く。そんなおっさんさんに、昔を思い出しちゃった」


「……君、そんなのだったの?」


「まぁ、ゾンビでしたわ。ガリガリの、脳みそ腐ったやつ……」


「そうか、なら俺もゾンビだったのか……」



 今の社子からは想像もつかないが、彼女が言うならそうなのだろう。

 どこかぼうっとした頭で、おっさんは全てを信じた。



「んでまぁ、空き缶拾ってたの見て、悪い人でも無いとも思って。俺も俺で、夜が穏やか過ぎてうわぁーってなってたんで、行ったろって思って、絡んで」


「その穏やか云々が分からんのよ……」


「今、こんな感じ」


「……なるほど」



 それはおっさんにも心から共感できるものだった。

 確かに穏やかで、凪いでいる。

 流石に、うわぁーとはなっていないけれども。



「俺、こんな姿になったの、つい最近で。いきなりだったんで、友達もちょっと引いてて……や、オシャレの楽しさ教えてくれたのもその娘なんスけど」


「良い友達じゃないか」


「はい。でもまぁ、似合ってるとは言ってくれても、可愛いとは言ってくれなくて……だからおっさんさんにそう言われた時、すごく嬉しかった」


「…………うん」



 なんとなく、止めた方が良い流れだとおっさんは思った。

 しかし頭がぼうっとして、動けない。



「しかもゲージほぼ0で、純粋に言ってくれたって事じゃん? もっと言って貰いたくなっちゃった。そしたら……し、自然公園で、あったでしょ」


「……ごめんね、ほんと」


「い、いや、むしろ何かゾクゾク来たというか、気持ちいいというか。ゲージ0だったおっさんさんが、急にそういう目してくんの、なんか……」


「…………」



 じり。

 社子がほんの少し、おっさんとの距離を詰めた。


 おっさんは離れようとしたが、やはり動けず。



「あの、俺も恥ずかしかった。恥ずかしかったけど、もっとそういう目、欲しくて。頑張ったらその分そう見てくれて、したら、何かキちゃって」


「……よろしくないよ、それは」


「自分でも分かってんス。これ、俺のぬけるやつじゃないって。でも、でもね」



 言葉を重ねる度、社子はおっさんに近づいて行く。

 だが、彼はやはり動かないまま。まるで、頭の芯が痺れているように思考が働かない。


 おっさんは疲れたおっさんであるが、それなりに酸いも甘いも嚙み分けてきたおっさんでもある。

 故に、今自分に起きている事についても経験があった。


 ――端的に言えば、おっさんは社子の『色』に呑まれていたのだ。



「あの……どうすれば、いいスか」


「……何が」


「どうすれば、もっと嬉しくなれますか。どうすれば、もっと可愛いって言ってくれますか」


「……、……」


「どうすれば、もっとそういう目で見てくれますか。ど、どうすれば――」



 社子の身体は、おっさんのすぐ目の前にあった。

 少女の香りが意識を包み、痺れが増して。そして瑞々しい唇がその耳元に落ち、熱い吐息が鼓膜の奥、脳の内側を引っ搔いた。



「――どうすれば、もっと気持ちよくなれますか」



 ――おっさんを縛る頭の痺れが、弾けた。


 ぼうっとした思考が熱を帯び、動かなかった身体が自由を取り戻す。


 よろしいとか、よろしくないとか、そんなものは跡形もなく消えていた。

 今はただ、社子の『色』に溺れたかった。ひたすらに貪り、蹂躙してしまいたかった。


 おっさんの手が、社子のしなやかな肢体に伸びる。

 一瞬怯えたように身が強張るが、すぐに弛緩し委ねられた。


 この激しい雨音の中ならば、どのような音であっても覆い隠してくれるだろう。

 おっさんは滾る衝動の導くまま、その柔肌へと被さった。



「――――」



 ……その、時。

 おっさんの目に、月が映った。


 仰向けとなり、熱っぽく潤む社子の瞳に入り込む、雲でくすんだ月明かり。


 それを認めたその瞬間――おっさんは、ただの疲れたおっさんへと戻っていた。



「……やっぱり、よろしくないな」


「え……?」



 先程までおっさんの身体を動かしていた衝動が消え、思考も熱を失い冷えていく。

 起き上がり、優しく社子の身も引き起こせば、彼女は戸惑ったようにおっさんを見つめた。



「……あの、な、何で……」


「俺は、月が好きなんだ」



 社子の言葉を遮り、おっさんが静かに呟く。



「真っ暗な夜空の中で、眩しく光るお月さま。昔からしょっちゅう見上げてて、その度元気を貰えてた」


「…………」


「楽しかった頃は、いつも月を見てたんだ。見る事が出来ていた、何でもない、普通の事として」



 おっさんは、自分でも何を言っているのか分からなかった。

 ただ心の零すまま、言葉を吐き出し続けているだけ。



「……だが、いつからか出来なくなった。疲れて、辛くて、月の光が眩しくなって、見るのも嫌になっていた」


「……はい……」


「つい最近までそうだったんだ。俯いて、薄汚れた革靴に辛うじて映るくすんだ光を眺める。そのくらいでしか……」



 おっさんはそう区切り、社子の肩に手を置きその瞳を見つめた。

 そして、



「――くすまないでくれ」



 優しい瞳で、ただ社子にそう告げた



「え、あの」


「俺がまた月を見上げられるのは、君のおかげだ。笑顔を見れば、話をすれば、いや、会うだけでだって元気になれた」


「そ、れは、だって、チート――……」


「今は少し、雲に包まれているだけだよ。いずれ晴れるものに惑って、方向を見失っているだけで……」



 それはは社子だけではなく、自分に言い聞かせるようでもあった。

 社子の両手を握ると、最後の想いの丈を吐き出した。



「――君は、眩しいお月さまなんだ。そのかけがえのない輝きを、こんな薄汚れた靴に映るものになんて、しちゃダメだよ――」



 ……その切なる言葉は、すぐに雨音の中へ消えて行く。


 沈黙。

 おっさんと社子は互いに向き合ったまま、動かない。


 一分か、十分か。いつまでも、ただ無言の時が過ぎ――やがて俯いた社子が数歩下がり、ゆっくりとおっさんから離れて行った。



「――すいませんでした。もう変な絡み方しないって言ったのに、変な風になっちゃって」



 そしてぺこりと頭を下げると、すぐに身を翻し、おっさんに背を向ける。

 その足元には、数個の水滴が落ちていた。



「あの、もう帰りますね。服とか、後で返します」


「……雨、酷いけど」


「大丈夫っす。……大丈夫に、出来るんで――」



 社子は震える声でそう言うなり、人差し指を天へと向けた。

 おっさんは思わず部屋の天井を見上げるが、当然そこには何も無い。首を傾げつつ、視線を戻し、



「――え?」



 ――社子の指先に、白く輝く球体が生成されていた。


 正真正銘、本当の光の塊。

 おっさんは突然の光景に絶句し、呆け――次の瞬間、光は音も無く発射されていた。


 それは天井を傷つける事無くすり抜け、天高く昇り、雨雲の中に入り込む。

 そして雲の中で幾度か閃光が起きたかと思えば、激しい轟音が耳を劈き――



「そいっ」



 パン!

 何かが破裂したような音と共に、あたり一帯の雨雲全てが消失した。



「……は?」



 おっさんの口から間抜けな声が漏れる。


 夢かと思い目を擦れど、しかし現実は変わらない。

 窓の外。あれほど分厚く広がっていた雨雲は跡形もなく、夜空には数多の星々が鮮やかに瞬き、大きな月が煌々と輝いていた。


 おっさんは開いた口が塞がらないまま、ただ月を眺め――そんな姿に、社子は泣き笑いを落とした。



「え、えへへ……ど、どスか。お月さま、出ました」


「あ、ああ……ああ? うん……そう、だな? えぇ……?」


「んで、どう、ですかね。どっちが……そのぉ……」



 社子は何かを問いかけようとしたものの、きゅっと唇を引き締め、堪え。

 涙を振り払うように激しく首を振ると、精いっぱいの笑顔をにっこりと浮かべた。



「――たくさん可愛いって言ってくれて、あざました! じゃまた、会えたら!」



 最後にそう大声で言い残すと、社子の腰元から歯車の翼が生え、窓から飛び出し宙を舞う。

 そしてまたも呆気に取られるおっさんをよそに、あっという間に夜空の闇へと消え去った。



「…………」



 ……一人残されたおっさんには、何もかも意味が分からなかった。

 分からなかったが、しかしたった一つだけ、分かる事もある。



「…………多分、会えないんだろうなぁ」



 おっさんは深く息を吐き出すと、力なくその場にしゃがみ込んだ。


 謎の現象に関する疑問は無い。問える者も居ない以上、考えるだけ無駄なのだから。


 代わりに去来するのは、途轍もなく大きな喪失感。まるで心に大穴が空き、何かが流れ出ているようだった。

 のろのろと月を見上げるものの、その穴を埋めるにはとてもじゃないが足りはしない。


 ……だが、これで良い。


 自分は月を穢さずに済んだ。だからこれで、良かったのだ。

 おっさんはそう強がりはしたものの――暫くの間、立ち上がる事が出来なかった。







 ピリリリリ、ドン ドン。

 ピリリリリ、ドン ドン。


 煩く響く着信音と、隣室から続く壁ドンの音。

 二つの騒音に脳を揺らされ、おっさんの意識は覚醒した。



「う……あぁ……?」



 瞼が重たい。頭が痛い。

 苦しみながら顔を擦り、手を伸ばしてスマホを探る。

 そうしてようやく探し当てた時には着信は止んでおり、それに合わせて壁ドンも止まっていた。



「……あー……」



 霞む視界でスマホの画面を確認すれば、そこには会社からの着信通知が十数件。

 時計を見れば既に昼過ぎ。最早遅刻どころの騒ぎではなく、おっさんはもうどうでもいいやとスマホを投げた。



(……ああ、そうか。昨日、酒飲みまくったんだったか)



 そのまま暫くぼうっとしていると、やがて今に至る経緯を思い出す。


 ――昨夜、社子とあの衝撃的な別れを果たした直後。

 おっさんは喪失感に苛まれるまま、部屋の酒をあるだけ全部煽ったのだ。いわゆるヤケ酒である。


 そうしていつの間にか泥のような眠りに落ち、起きてみれば今の時間。

 部屋に転がる酒瓶や空き缶の数を見る限り、アルコール中毒にならなかっただけ幸運だったのだろう。



「……はぁ」



 ……二日酔いの頭痛に苦しむ中、考えてしまうのは、やはり社子の事だった。


 あれで良かったのだろうか。

 何も言わず、受け入れるべきだったのではないのか。

 そうすれば、輝くものの全てをこの手に収められた筈なのに……。


 醜い欲望混じりの後悔がぐるぐると渦巻き、苦いものが込み上げる。

 ゲロである。おっさんは慌ててトイレに駆け込み、便器とお友達になった。



「……ちくしょー、よろしくねぇなぁ……!」



 どうにもこうにも情けない。

 嘔吐感とは別のムカムカしたものが胃の奥底より沸き上がり、グラグラと頭が煮立って来る。


 社子にあれだけ格好つけたのだから、もっとシャッキリ出来んのか?

 今更になってグダグダしてたら、彼女を泣かせた意味が無いだろう。


 もう帰る夜道は一人きりなのだ。俯き、振り返ってばかりじゃいられない。

 おっさんに残っているのは、夜空の月だけなのだから、これからは胸を張り、いつでも見上げられるように――。


 ――ピリリリリ、ピリリリリ。



「…………」



 ……着信音が、響く。


 先程投げたスマホを振り返れば、当然その画面には会社の二文字。

 しかしおっさんはスマホを取らず、静かにじっと眺め続ける。


 ――ピリリリリ、ピリリリリ。

 ――ドン ドン。ドン ドン。



「……………………」



 しばらくそれを見ていると、再び隣室の壁が叩かれ始めた。


 今は昼過ぎなのに、何をしている人なのだろう。

 おっさんは疑問に思ったものの、何も言わない。


 ただムカムカと沸き上がり、グラグラと煮え続け。

 更には耳の奥でキリキリと何かを引き絞る音さえ聞こえ、そして、


 ――ピリリリリ、ピリリリリ。

 ――ドン ドン。ドン ドン。


 ――ピリリリリ、ピリリリリ。

 ――ドン ドン。ドン ドン。


 ――ピリリリリ、ピリ、

 ――ドン ドン。ド、



「――うるせええええええええぇぇぇぇぇ!!」



 ブチン。

 鼓膜の裏でそんな音が聞こえた瞬間、おっさんは吠えた。


 そうして素早くスマホを拾い上げると、通話ボタンをタップし同じように叫んだ後、隣室側の壁へと思い切り投げつける。

 激突したスマホの画面が砕け散り、隣室から「ひぇ」とか細い声が響いた。


 煩い音は消えた。

 しかしおっさんは収まらず、そこら辺に転がっていた通勤鞄の中身を全てぶちまけ、代わりに箪笥にしまっていた無数の封筒を詰め込み始めた。


 今の会社に入社してから、書いては出せずにしまい込み続けた退職届達だ。



(そうだ。パワハラ上司がなんだ、クソボケ部下がなんだ! こちとらあんな可愛い子を振ったんだぞ!? それ以上のよろしくない事があるか!? あってたまるかそんなもん!! ならもう怖いものなしだろうが!!)



 百や二百では済まないそれらでパンパンになった鞄を手に、おっさんは乱暴に立ち上がる。


 髪はボサボサ、服は寝間着。目の下にはクマがあり、無精ひげも剃っていない。

 だが、構うものか。あんなクソみたいな会社に払う礼儀など無い、このまま突貫して、鞄いっぱいの退職届を叩き付けてやる――。



「…………ッ」



 おっさんは窓から空を見上げた。


 昨日社子が行使した謎の力が効いているのか、未だに雲一つない快晴だ。

 当然そこに月は見えない。だがおっさんは、見えなくともそこに在るのだと知っている。


 ――社子の最後の笑顔が、そこに浮かんだ。



「――いってきまアアアアアアアアアアアアアアアす!!!」



 咆哮。

 隣室から届く「い、いってらっしゃーい……」という小さな声を背に受けて、おっさんは自室の扉を蹴り開ける。


 空に座る太陽の輝きは、穏やかではあれど月のそれよりも激しく、眩い。

 しかしおっさんは欠片も怯む事は無く、新たな一歩を力強く踏み出した――。







「ひっく……ぐすっ」


「……なぁ、ウチ言ったよな? ラブホに入ってくお前なんて見たくねぇって、言ったよなぁ?」


「うぅ、あう、えぐえぐ……」


「あ? ラブホには行ってない? むしろそういうのが無かったから泣いてる? お前バカか???」


「うあぁ……うっうっうっ」


「あーはいはい……優しいおっさんだったと。女じゃなく、ずっと子供として見てくれてたのが良かったと、はいはい……」


「うぁぁぁ……ひっく、ひっく」


「……で、そんなおっさんにエロい目で見られるようになって、調子乗ったと。ノリにノリすぎて、アッパラパーになってたと……」


「あう、ぁぅぅ、ぐす、うええん……!」


「でもそんな自分が嫌じゃなく……いやこれいつまで続くんだよ! 勘弁してくれよ聞きたかねぇよこんな話マジで! 助けてくれ葛ー! 心白ー! 何でこんな時に限って休みなんだあいつらー!!」



 *本日深夜、社は悲しみの余りスイカズラや甘酒グミのヤケ食いを行った。

 それと葛・心白らの欠席との因果関係は不明である。



「うっうっうっ……」


「つーかお前何でわざわざ女になってまで男に走んだよ!! 自分で言いたかないけどお前の周りキレイどこばっかだろうが!! いっつもドキドキしてんの知ってんだぞ!!」


「ぐすっ、うううぅぅ……あぁ」


「はぁ? それとこれとは別……? ティーエスにはティーエスの純愛がある……? いや何言ってんだ爛れてんだろうが今の話どう聞いても」


「うわあああああああん……!!」


「もとから気になってたけど、最後の最後でガチ惚れしたぁ? でもその瞬間に失恋確定して情緒グチャグチャになったぁ? しらねーーーーーーーーよ!!」


「うぐっ、ぐす、ひく、ひっく、あうぅぅぅぅ……!!」


「だああああもおおおおおよーし分かった! もう泣け! 泣いてろ! 今日一日ウチの胸はお前のハンカチだ! 好きに使っていいから、そろそろ落ち着――」


「ぐすっ……ぐすっ……」


「どわあああああ!? ちょま、そういうのは、そういうのは違うんじゃねぇの!? それはちょっ――いや女になりゃ良いって訳じゃなくて、んっ、ああもうお前まだ情緒グチャッたまんまだな!?」


「ひっく、う、うぅ……」


「あーあーはいはい分かった分かったもう好きにしろや! んあぅっ、ああもうこんなんばっかかウチは! 葛ー! 心白ー! マジで助けてくれーーーーっ!!」


 *両名の欠席理由は疲労困憊。

 それ以上の詳細は不明である。


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