第8話 千堂香織の章 その1

 目覚ましの音で目を覚ました。まだ4時なので外は暗い。なんてことはない、いつもの日だ。死ぬのなら、こういう日が良いのかもしれない。

 メガネをかける。机に向かって、参考書を開き、問題を解く。朝ごはんの時間までこれを続ける。これも『いつもの』光景だ。


 なぜこんな朝早くから勉強しているのかと言うと、母が私を国立の大学に入れるためだ。母はいわゆる学歴コンプレックスで、推薦で国立大を受けて落ち、今で言う共通テストも受けたが、可能性が低いからと少しランクが下の大学に入った。ここまでは、別に普通だと思う。しかし、聞いた話によると、当時母がばかにしていた人が、母が行くつもりだった大学に合格したのだそう。

 それで、母はリベンジのために兄を国立の大学に行くように促し、兄は見事合格した。したのだが、母はそれでは満足しなかった。兄を父の子だからと言って、認めようとしなかった。

 父は、こんな田舎でも聞いたことがあるような名の知れた大学の出身で、正直、なんで母なんかと結婚したのか不思議なくらいだ。そして、そこが母のコンプレックスを更に増やす原因なのだと思う。


 結局のところ私は、母が出来なかった事をやらせて満足するための人形かなにかなのだ。そのくせ、母としてとか、母だからとか、親のような事を言ってくるので気持ち悪い。こんな生活にはうんざりしている。


 兄は、今も東京の方にいて、私がここから逃げるのを手伝ってくれようとしている。高校を出たらこっちに来い、とそう言ってくれている。あと、約2年耐えれば、母の呪縛から解き放ってもらえる。そう思うと、頑張れる気がする。


 父が家にいる時に、この事を相談したことがある。答えは、「好きにしろ」だった。力になれなくてすまない、みたいな謝罪や協力の意思を得られるとは最初から思っていなかったから、特に何も思わなかった。小さい時から、教育は母に任せきりで仕事ばかりの父が、私達に興味がないのはわかっていた。ただ、この父にしてあの母あり、なんだと思った。とりあえず、母にこの旨を言わないように口止めしておいた。どうせ、興味が無いのだから、言わないとは思ったけど。


 ここから出ていくのは、私の目標で、希望でもあるけど、後悔しないことがないかと言われるとそう言うわけでもない。私にだって、好きな人がいる。多分、ううん、絶対叶わないけど。


 参考書を半分ほどまで解き終わったので時計を見ると6時になっていて、リビングから母に呼ばれた。息を落ち着かせ、表情を整える。下に降りて、リビングに向かう。


 扉を開けると、母が


「おはよう、香織ちゃん。」


 と、いつもの気持ち悪い笑顔で言ってきた。


「おはよう、お母さん。」


 私も、いつもの笑顔で返す。今、いつも通り笑えているのか不安で仕方なかった。


 席に着いて、胃に入れ始める。今日は、スクランブルエッグ(のように見えるなにか)とハムとトーストだった。やっぱり、味がおかしい。私の舌がおかしいのでなければ、母の味付けがおかしいわけで、こんなものをあと2年も食べなければいけないのかと思うと、また少し気分が落ちこむ。よくもまあ、焼くだけのハムをこんなに不味くできるものだ。ある意味、才能だと思う。


 いつものように、なんとか残さず胃に入れて、すぐにトイレで声の出ないように吐き出す。喉に指を入れるだけで吐けるようにしてくれた神様には感謝したい。まだ少し、口の中に胃液が残っているが、さっきの料理と言えるかも怪しいものの味よりましだ。


 すぐに2階に行き、制服に着替え、準備をする。取りに戻ってきたくないので、念入りに忘れ物がないかと確認する。大丈夫なようなので、玄関に向かう。


「大丈夫? 忘れ物無い?」


 母が、さも親かのように聞いてくる。声をかけられてビクッとした。また何か言われるのかと思ったからだ。


「大丈夫だよ、お母さん。それじゃあ、行ってきます。」


 いつものように、元気に母に言って、すぐに玄関から出た。傘をさして、転ばないように早歩きで、なるべく家から離れる。曲がり角を曲がったところで止まり、息を整える。朝からすごく疲れた。


 学校に着いた。2階の2-Bまで向かう。席に着き、伸びをする。なんだかんだ、ここが一番落ち着く場所な気がする。母からの呪縛がなく、好きな人を近くで見ていられるのだから。


 まだ、あと30分くらいは誰も来ないはずなので、少し目を閉じて休むことにした。


 私は、学校だと優等生で通っている。クラスの委員長や、生徒会に推薦される程度には。誰にでも仲良く接しているし、成績も上位で、先生からの信頼もある。別にそれ自体は、嫌な訳じゃない。必要とされて、頼ってもらえるのは嬉しい。しかし、元をたどればそれもこれも母に言われてやっているのだから笑えない。でも、私のキャラというかイメージは、何に対しても真面目でしっかりこなす人だと思われているだろうし、私自身、それ以外のやり方が分からない。


 …もし、母から逃げられたとして、私は何をすればいいんだろう? 何かやりたいことがあるわけじゃないし、目標があるわけでもない。とりあえず行ける一番良い大学に入れば良いのかな。東京に行ったら、沙絵ちゃんとも離れちゃうよね。本当にここから離れても後悔しないのかな。


 沙絵ちゃん…、小此木沙絵ちゃんは、私の大切な幼馴染だ。小さいときから仲良くしてくれていて、よく遊んでいた。私が今まで頑張ってこれたのは、沙絵ちゃんのお陰だ。大事な私の心の支えで、私の一番好きな人だ。ここから離れるとなると、必然的に沙絵ちゃんとも離ればなれになるだろう。正直、離れたくない。離れることになるのなら、母の元にいても良いかもしれないと思えるくらいには。でも、私がどれだけ沙絵ちゃんの事を思っていても、沙絵ちゃんは私の事を幼馴染としか思わないだろう。好きな人としては絶対に見てくれない。辛いけど、分かっている。女の子同士なのに、好きになってしまった私がおかしいのだから。でも、それでも…、私は…。


 何を考えるにしても、母の存在が邪魔だ。自分でも、改善しようと思えば出来た部分があるのは、分かっている。でも、それ以上に母の存在は大きくて、変えられなかった。


 廊下から足音が聞こえてきた。生徒達が登校してきたらしい。少しずつクラスの席が埋まっていく。でも、私の前の席、沙絵ちゃんの席は空いたままだ。遅刻かな?携帯を見てみる。連絡は特に来ていない。もう少しでチャイムが鳴ってしまうのに。


 そんな事を思っていたところに、沙絵ちゃんが教室に入ってきた。席に歩いてくるまで、クラスの真ん中の席を見つめていた。沙絵ちゃんの好きな彼の席だ。

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