第3話 金子透の章 その3

─帰りのバスは、バス停で待っていた時間とは比べ物にならないほど長く感じた。


 家の最寄りのバス停についた。最寄りと言っても、大分歩くのだけれど。


 バックを持ち上げ、バスから降りる。降りた途端、虫の鳴き声の合唱が聞こえる。うるさいとは言わないまでも、結構な量の虫が鳴いているので騒がしい。雨が降っているというのに、よく鳴くものである。


 でも、今はそんな事どうでも良かった。バスの中でもそうだったけど、今の僕の頭にはあのお姉さんのことしかないのだから。これが、一目惚れ…というやつなのかなぁ?考えてみたけど、よく分からない。恋と言えるような経験が今までないからだ。だからと言って、何も思ってないなんて事も、無いはずだ。考えないようにしようと思っても、ずっとあの笑顔が頭から離れない。


 …とりあえず、歩きだした。考えるのは、歩きながらでも出来ると思ったから。

 あのお姉さんは、どこに住んでいるのか、何をしている人なのか、なんであの病院にいたのか…、パッと見だけど健康そうだった…、考えたところで明確な答えを教えてもらえる訳じゃないけれど、やっぱり気になるというか。…なんで言葉に出している訳でもないのに、誤魔化そうとしてるんだろう。やっぱり恥ずかしいからなのだと改めて思う。あのお姉さんのことを考えると、頬が熱くなって、ドキドキする。本当に好きになってしまったのかも知れない。…本当に?本当にそうなのかな?


 わからない。まだ混乱しているのかも知れない。一目見ただけの人を、そんな簡単に好きになってしまうものなのかと、お姉さんの言っていた『雨宿り』という言葉が引っ掛かっているだけなのではと。

 …やっぱり、わからない。


 そんな事を考えている内に、家に着いた。着いてしまった。もう少し、考えていたかった気もするけど、疲れの方が大きかった。


 駐車スペースを見たけど、母さんの車は無かった。まだ帰って来ていないらしい。夕飯どうしよう。そういえば、『カップ麺があるから適当に食べといて』と言われていたのだった。鍵を開け、家に入る。


 リビングの電気をつけて、時計を見てみる。もう9時を過ぎていた。だというのに、あまりお腹は空いていなかった。でも、寝るときにお腹が空いて寝られないのも困るので、大人しくカップ麺を食べることにした。キッチンの下の戸棚を見てみる。そばとラーメンの味噌味と醤油味が合ったので、味噌味にしておいた。蓋を開けて中に入っている袋を取り出し、ポットでお湯を注ぐ。三分待つタイプのものなので、今のうちに、バックの中身を片付けてしまおうと思った。


 バックからスーツを取り出し、二階の父さんの部屋まで向かった。部屋に入って、クローゼットの中の空いているハンガーにスーツをかける。ネクタイって、どうすればいいんだろう。分からなかったので、スーツの襟のところにかけておいた。クローゼットを閉めて、部屋の中を見てみる。ゴルフバックや釣竿が見える。あと数年すれば、僕もこんな感じになるのだろうか。大学に行って、就職して、結婚して…、そこまで考えて、結婚相手の顔にお姉さんを思い浮かべていた。恥ずかしい。…バカなことを考えていないで、早く食べよう。そろそろいい具合のはずだ。


 階段を降り、キッチンに向かう。カップ麺と箸を持ち、テーブルに着く。取り出した袋の中身を入れたところで、バターがあったのを思い出したので、冷蔵庫に向かう。開けたところに箱入りのバターがあったので取り出す。包装を開け、包丁でいい感じの大きさで切り、切った方を小皿にのせ、残りは冷蔵庫に戻した。これがあるだけで、満足感が結構変わるのだ。麺をよく混ぜ、バターをスープに沈め少し溶かす。良い香りが広がり、鼻腔に刺激を与えてくる。


「いただきます」


 麺を持ち上げ、啜った。うん、おいしい。


 なんだかんだ言って、あっという間に食べきってしまった。


 片付けたところで、外からエンジンの音が聞こえた。母さんが帰って来たらしい。扉が開き、


「ただいまー」


 と、疲れぎみな声が聞こえてきた。母さんがリビングに入ってきたところで、


「おかえり」


 と返事をした。


「着替え、持っていってもらって、悪かったわね」


「いや、大丈夫だよ。そういえば、メッセージ見た?」


「え? ああ、そういえば何かきてたわね」


「父さん、一ヶ月入院だって」


「あら、そうなのね…。様子どうだったの?」


 母さんが心配そうに聞いてくる。


「腰がまだ痛そうにしてたけど、元気そうだったよ」


「そう。それなら安心ね!」


 そう聞いて、安心したのだろう。さっきまでの疲れていた様子はどこへやら、母さんは二階まで走って行ってしまった。元気なものである。


 ご飯も食べたので自分の部屋でくつろいでいると、下から


「お風呂、準備できたわよー」


 と聞こえてきた。そろそろ寝ないと。明日も学校なのだ。


 着替えを持って、風呂場に向かう。脱衣所に入り、服を脱ぎ、風呂場の扉を開ける。体に湯気がかかり少し温かく感じる。椅子に座り、シャンプーを手に取る。しっかりと泡立て髪を洗っていく。全体を洗ったので、シャワーで流していく。めんどくさいので、リンスは使わない。流しきったので、スポンジにボディーソープをつけ、また泡立てていく。小さいときは、どこまで泡立てられるかよく遊んだものだ。肩から順番に体を洗っていく。脇と股と足を念入りに洗い、シャワーで流していく。すっきりした気がする。念のため、桶をつかって湯船のお湯をすくい、体にかけてみる。うん、熱くはない。確認したところで、湯船に浸かる。つい、「あ"ー」という声が出てしまう。


 少しして、今頃お姉さんもお風呂だろうか、なんて事を考えてしまう。まただ。また、お姉さんの事を考えている。良くないことだとは分かっていても、ついお姉さんのお風呂の様子を想像してしまった。気持ち悪さ全開である。このままだとよくないと思い、あまりあたたまっていないにも関わらず、風呂から上がった。


 水でも飲もうと思い、着替えた後、キッチンに向かった。リビングのソファーで母さんがくつろいでいた。僕がキッチンに来たのを確認すると、母さんが


「あの持っていってもらった着替えだけどね…」


 と話しかけてきた。


「着替えがどうかしたの?」


「あれ、3日分なのよ。だから、また病院に持っていってもらいたいの」


 と母さんが言ってきたので、


「あー、分かった。良いよ」


 と、返事をしておいた。


 正直、あの重さをまた運ぶのは嫌だ。嫌なのだが…、またあのお姉さんに会えるかもしれない。その可能性があるので、頑張れそうな気がした。


 水を飲み、部屋に戻ってきた。学校もあるので、寝なければ。電気を消し、布団に寝転がり、タオルケットをかける。暗い部屋の中に、時計の音が響く。外からは、相変わらず雨の音が聞こえる。

 寝ようとしても、なかなか寝られなかった。別に音が気になったからではなくて、またお姉さんの事を考えてしまったからなのだけれど。




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