第6話 過去−貧民街 中編

慌てて自分と兄弟の二人で住んでいる家へ向かう。粗末だが一応家の形状を成したそれの中には、床に座るノヴァの隣に大柄の男が横になっていた。少し癖のある赤髪が陽光に照らされて、まるで燃えているみたいだった。炎のような赤髪と澄んだアンバーアイが明らかに異質な存在感を醸し出している。

「ノヴァ!誰だよそれ!」

噛み付く勢いで尋ねるとノヴァはしれっと答える。

「俺も知らん。行き倒れてたから様子見てたらちょうど今起きたとこ」

男は何か話そうとするが、寝起きで声がうまく出せないらしい。それをいいことにネヴァが捲し立てる。

「どう見たって敵兵じゃねえか。ほっとけよそんな奴」

「でも怪我してる上に腹減らしてんだぞ、死んじまうよ」

眉根をひそめて不安そうな顔で言うノヴァを見て、ネヴァは忌々しげに吐き捨てる。

「敵兵なんて勝手に死ねばいいだろ」

軍人には苦い記憶がある。貧民街に住んでいるというだけで自国の軍人に乱暴されたのだ。敵国の軍人ともなれば何をされるか想像したくない。ネヴァの軍人嫌悪は皆よく知っているが、ノヴァは目の前の弱った人間を見捨てられるほど冷たくなれなかった。

「まあまあ、訳ありっぽいし、せめて話聞いてからでもいいだろ。ほら、水飲めよ」

血色の悪い痩せた腕で軍人の頭を支え、水を飲ませてやる。喉を潤し、唇を湿らせ、ようやく声が出るようになった。その間ネヴァは狭い家の中でできる限り軍人から距離をとって立っていた。美しい瞳を警戒の色で濁らせて軍人を睨み続けている。

警戒心をむき出しにするネヴァを放ってノヴァが話し出す。

「俺はノヴァ。こっちは兄弟のネヴァ」

軍人は軽く咳払いをして、真剣な面持ちで口を開く。

「俺はアイザック・トンプソン、隣国の軍人だ。君たちの国とは敵対しているというのに助けてくれて礼を言う」

無骨な印象を与えるざらついた低い声とは裏腹に丁寧な態度で名乗った男は、ネヴァとノヴァには馴染みのない隣国の方式で一礼する。

「いいよー、国なんて単位で生きてないし。それに腹減るのは誰だって辛いもんな」

「よかねぇけど、まぁ、うん」

全面的にアイザックの世話を見るつもりはないが、出ていけ、そのまま飢え死ねばいい、と言い放つこともしなかった。決して姿勢の低いアイザックに絆されたわけではない。ネヴァの中に残るほんの少しの良心がそれを押し留めたのだった。今とはちょうど真反対の季節、乾燥した冷たい空気の中で身を寄せ合い、飢えを凌いだ経験は山ほどある。国王が死んでどの店も休業が続いた時期があったが、あれはきつかった。痩せた土地では食べられるような植物は育たないし、動物たちも不活になって、腹を満たせるだけの食料は手に入らない。そんな経験があるからこそ、僅かにではあるが同情せずにはいられなかった。

「アイザック、食えないもんある?」

「アレルギーも好き嫌いも特にない」

「じゃあ俺が何か盗ってくる。ネヴァも今日まだ何も食ってないだろ?」

おー、と適当に返事をする。ネヴァは年下の子らと年寄りは自らの庇護下にあると思っているため、方法がどうであれ、食事もネヴァが用意することが多い。唯一、兄弟のノヴァだけは対等な関係を築くことができている。

「パンでいい?」

「いや、当分は行かない方がいい」

「おおマジか、じゃあクッキーだな」

この程度の簡単なやり取りでも相手の意図を汲み取ることができる。二人は兄弟であり相棒であった。

ノヴァが街へ降りていくのを横目に見ながらネヴァが尋ねる。

「ところで、身なりのいい軍人様がこんなとこでどうしたんだ」

好奇心が半分、警戒心が半分。距離を測りかねて、とりあえず適当な質問で間を潰そうという思惑もあった。

だがアイザックはつれない態度で首を振る。

「守秘義務があるので言えないな」

アイザックは隣国の軍人だ。自身の任務内容についてはおいそれと話していい訳がない。ネヴァもこの程度は想定内だ。これはきっと答えてくれないだろうと踏んだ上で訊いた。質問し、断られ、話題を切り替えれば「その程度は答えてもいいか」と何か話してくれることが多い。ネヴァが身につけた処世術の一つだ。

アイザックのコートを持ち上げて襟を指し示す。分厚い生地で作られた立派な重たいコートだ。

「隣国の軍人は襟の線が金色なら偉い人、そのラインが2本なら更に偉い人なんじゃなかったか。私の記憶が正しければだけど、あんた凄いな」

間を潰すついでに何か有益な情報でも引き出せれば儲け物だと思って言ったに過ぎないのだが、予想外にアイザックは乗ってきた。

「ほう、よく知っているな」

ネヴァからコートを受け取り、袖を通さずに羽織る。床に畳んで置かれていては、少し立派なだけの何の変哲もないコートだったのに、アイザックが肩にかけた途端、素晴らしい仕立ての軍服に様変わりした。

「物知りな君に一つ教えてやろう。うちの国では、武勲を立てることで賞を授与された者は裏地を好きな色にできる。ちなみに元は表と同じく黒だ」

そう言ってコートを捲ってみせる。その裏地は鮮やかなワインレッドに染まっていた。

「赤は俺の色なんだ」

「……マジで?」

「マジも大マジだ」

恐らくは鮮やかな赤髪からイメージがついたのだろう。だが軍人が赤とは笑えない。その身に大漁に浴びた返り血からイメージが固まったと言われても何も不思議ではない。もしかして本当にそうなのかも、とネヴァは軽く怖気を覚える。

そして何よりも驚いたのは、貧民街で倒れていたこの軍人が、賞を授与されるほどの有能な男であったことだ。

「どんな無茶すりゃそんな優秀な軍人様が貧民街でぶっ倒れんだよ」

呆れ顔で呟くと、アイザックは余裕の笑みで答える。

「さてね、諸事情とでも言っておこうか」

平均よりも遥かに長い脚を大きく開いて座り直す。膝にそれぞれ腕を置いて、前屈みになってネヴァの怪訝そうな顔を覗き込む。

「時間はまだある。仲良くしようじゃないか」

そして目を細めて笑う。ぎらついた欲や警戒心こそ見せないが、常に緊張感をまとっているのを肌で感じる。気を抜いている瞬間など微塵もない。貧民街で休んでいる今のシチュエーションも、肉食獣が縄張りでじっと身を休めているだけに過ぎない。

「食えない奴」

「褒め言葉として受け取っておこう」

いっそ胡散臭いとも思えるような軽やかな口ぶりでアイザックは言った。

何か情報を引き出してやろうと思ったのだが、逆にアイザックに一本取られた形となってしまった。どうやらこの軍人、相当頭の回る切れ者のようだ。

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