第5話 過去−貧民街 前編

絶えず吹きつける砂の混じった風、乾いた空気、ぼろ布とトタンで覆われた簡素な家。ここは宝石の街『ディラ』の周囲にいくらか存在する貧民街の一部地域である。この地域で生まれ育った子供は最低限の教育も受けられず、素行の悪い者も多くいる。その中でも一際目立った問題児がいた。ネヴァである。手癖の悪さと身体能力の高さで有名で、さながら「自由」と「我が儘」を体現したような子供だった。教育を受ける機会にこそ恵まれなかったが、どうやら地頭は相当いいようで、狡猾な思考を持ち合わせていた。

のちにネヴァにとっての記念日となるこの日も、ネヴァは街の大人たちと追いかけっこをしていた。いや、追いかけっこなんて楽しい気分で走っているのはネヴァだけで、大人の方は必死そのものであっただろう。店の商品を盗られたのである。パン屋の店主と従業員数名が息を切らしてストロベリーブロンドの髪の少女を追いかける。ネヴァは常習的にこのパン屋の商品を盗んでいたため大人たちも「今日こそは捕まえてやる」と躍起になっている。時折からかうように振り返る少女の目が陽光を反射してさまざまな色に光るのが人混みに紛れて目につく。目立つ容姿をしているのに、本気で逃げてなどいないのに、大人たちは全く追いつけない。わざと付かず離れずの距離を保っている。そうして大人たちの体力が尽きて諦めるのを待っている。いつもそうだ。ネヴァは生きるための食糧調達と同時に無作為的に大人たちをからかって遊んでいるのだ。目線が低く、地形をよく知る貧民街の子供の方が、追いかけっこでは有利になることをネヴァはよく知っている。こんな生意気な子供に振り回されて可哀想だな、とまるで他人事のように面白がっている。

人いきれを裂き、路地裏を駆け抜け、そうしてネヴァはある場所を目指していた。街のはずれにある小さな教会。熱心な信者と近所の子供が集う明るい教会だ。ネヴァはこの教会を大人たちとの追いかけっこのゴールに決めていた。とは言っても教会そのものに用はないし、無関係の人々を巻き込むつもりもない。実は、教会の中を通らずに屋根に登ることができる秘密の抜け道がある。育ちの悪い貧相な体つきの子供なら余裕を持って通ることができる広さの抜け道。裏を返せば、不自由ない生活を送っている大人では絶対に見つけることすらできない抜け道である。

ネヴァは屋根の上から憤慨する大人たちを眺めるこの時間が好きだった。子供を探している大人は下の方にばかり目を向けて、屋根の上など見もしない。

「あは、ははは、大人5人がかりでガキ1人捕まえられないとか」

ここでなら大口を開けて笑っても誰にも聞こえない。恵まれない環境で育った何も持たない自分のような子供が、いわゆる「まともな大人」を振り回すのが滑稽で楽しかった。

「さぁて、そろそろ戻ろうか」

パン屋の店員たちが諦めて引き返すのを見て、ネヴァは屋根から降りる。そろそろあのパン屋も警戒して売り場に見張りをつけるかもしれない。別の店を探そう。そんなことを考えながら居住区に歩いていく。

「あ、ネヴァ」

「帰ってきた!」

「おかえり!」

共に暮らしている子供たちがネヴァを出迎える。

「おーリズ、モニ、ユダ、ただいま」

リズとモニは実の姉妹。黒髪に深い青の瞳が夜の海を連想させる。幼年の頃、生活が苦しくなった親に2人揃って捨てられた。ユダは1年ほど前にふらっと現れ、そのまま貧民街に住みついている。おそらく戦争孤児だろうと踏んでいるが、どこから来たのか、なぜここに来たのか、本当のところは誰も知らない。親の有無すら語らない彼の内側に踏み込もうとする者はいなかった。自分から話すまで放っておくのがここに住む者たちなりの優しさだ。ユダについて何も知らなくても、彼の淡い紫の瞳と、限りなく白に近いグレーの髪がみんな好きだった。

「飯だぜー」

ネヴァの掛け声に歓声が湧く。

「パン盗ってきたんだ。1人1個ずつな」

ネヴァの手元にはいくつかの惣菜パンがあった。華奢な身体にはサイズが合わずに余らせている服の生地で、パンを包んでいたのだ。衛生面を考慮すると誉められた行為ではないが、そんなことを気にするような余裕は彼らにはない。

「ほれ、カラット」

ネヴァが惣菜パンを差し出した相手、カラットはネヴァよりいくつか年下の男の子だ。生まれつき両足の膝から下がなかったために、産まれて間もなく親に捨てられた。誰かの手を借りないと移動できないため、一日のほとんどを窓の近くで外を眺めて過ごす。窓と言ってもガラスがはまっている訳ではなく、ただ四角く穴が空いているだけだが。

窓越しにパンを受け取り、声変わりもまだ済んでいない高い声で呟く。

「……ありがとう」

身体が欠けているのを卑屈に捉えてしまうこともあるが、率先して面倒を見てくれるネヴァには素直だった。

「よーし、お礼言えて偉い」

可愛らしいキャラメルの色の髪がぼさぼさになるほど強く撫でると、カラットは嬉しそうに目を細めた。

ネヴァが持ってきたパンは合計5つ。年下のカラット、リズ、モニ、ユダ、そして年寄り1人の分だった。はなから自分の分は勘定に入れていない。たくさん盗んで捕まるリスクを増やすよりは、何回かに分けてリスクを分散させた方がいい。腹が減ったら今度は自分の分を盗めばよいのだ。飯を買う金などない。だが食わねば人は死ぬ。ならば盗むしかない。貧民街で生まれ育ったネヴァは、他人、この場合はパン屋の店主と従業員にあたる者の境遇を思いやることが出来なかった。商品を頻繁に盗まれて生活が苦しくなるなど考えもしない。自分と仲間以外は心底どうでもいいのだ。

「ネヴァ」

最後にパンを受け取った年配の女性がネヴァを呼び止める。通称「スイばあちゃん」。この貧民街に住む子供たちの祖母のような存在だ。ばあちゃんとは言っても実際はかなり矍鑠としていて、90歳前後であろうと思われる今も健在である。

「おー、どうしたスイばあちゃん」

スイは心配と警戒が入り混じった顔をしていた。

「ノヴァが兵隊と一緒にいるのを見たよ、ありゃ誰だい」

スイの言葉に目を見開く。

「えっなにそれ、私も聞いてない。あいつ今度は人間拾ったの」

その場の空気が一気に凍りつく。ネヴァの兄弟、ノヴァは捨てられた犬や猫をしょっちゅう拾ってくるのだが、さすがに人間は想定外だ。しかも兵士となれば、何かしら訳があるだろうことなど誰にでも想像できる。

慌ててネヴァとノヴァの家へ向かう。粗末だが一応家の形状を成したそれの中には、床に座るノヴァの隣に大柄の男が横になっていた。少し癖のある赤髪が陽光に照らされて、まるで燃えているみたいだった。炎のような赤髪と澄んだアンバーアイが明らかに異質な存在感を醸し出している。

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