36.決意を告白

 オーバー社を後にし、次に向かったのは、小百合の家であった。

「え、これって私⁉」

 小百合は僕の絵を観るなり、感激の声を漏らした。目をキラキラと輝かせている。小百合の言う通り、僕は小百合を描いた。

 数秒間感激してから、小百合はハッとして、ベッド脇の棚にある写真立てを観る。

「そう。その通り」

 僕は彼女の気づきを肯定した。

 彼女が気づくのも当然で、僕の描いた作品の構図は、ベッド脇に置かれた写真立てのそれと一緒である。玄関の前には哲也館長と、亡くなられた小百合の母が写っている。その腕には物心つく前の小百合が抱かれている。

 幸せそうな、家族の写真。

 この後、悲劇が起こるなんて、まるで思えない幸せな写真。

 僕はあえて、その写真をモチーフに小百合を描いた。赤ちゃんを抱いた未来の小百合。僕が描いたのはそれであった。

「素敵な情景だね」

 小百合は慈しむような瞳で僕の作品を観ていた。目じりから一筋、涙がこぼれ落ちた。

「こうだったら、よかったのにな」

 それはきっと、小百合の本音なのだろう。未来を諦めている気配がある。

 違う。小百合。君は、未来を諦めなくていいんだ。

 心の中で語りかける。当然ながらそれは彼女に届きはしない。この世に以心伝心なんて存在はしない。人に伝わるのは、実情だけだ。

「小百合」

 声を出して名を呼ぶ。彼女はうるんだ瞳で僕を捉える。

「未来はわからない。だから、諦めないでほしい」

 僕の発言はどこかありきたりで、つまらないものであった。口に出すまで、それはもっと画期的で感動的な言葉のように感じたが、外へ出た瞬間に魅力は半減してしまった。

「うん」

 己で手ごたえを感じていないからか、頷く小百合の表情が曇っているように見える。

「素敵な絵、ありがとうね。加地くんの絵で、私、すごく感動しちゃった」

 そんなことを言う小百合の表情こそ、素敵だった。

 どうして小百合は心の底から嬉しそうに笑うことができるのだろう。彼女が表情を動かすだけで、周りの空気すら意のままに操るようだ。笑えば、空気が煌めく。

 だからこそ、次の発言を言うのに、それなりの覚悟が必要であった。

「残念な話があるんだけど」

「なに?」

 キョトンとした顔で首を傾げる。

「この絵を観れるのは、これが最初で最後だ」

 今度こそ決定的に小百合の表情が曇る。

「それって、どういうこと?」

「このあと、この絵を処分する」

 小百合は絶句した。

「どうして⁉ 勿体ないよ」

 小百合は僕にすがりついてくる。切迫した表情が目の前に迫る。僕の描いた絵を相当気に入ってくれたらしい。小百合の言う通り、僕がこれからする行動は、勿体ないと思う。僕もそう思う。

「しかし、やらなければならないんだ」

 緊迫感ある僕の声色に、小百合は身じろぎした。

「わからないよ。こんな素敵な絵を、処分するなんて……」

「ごめん。今は詳しく言えないんだ」

 彼女に事情を説明するためには、小百合が健常者であることを伝えなければならない。父親である哲也館長が守り抜いてきた嘘を、軽薄に僕の口から暴くことはできない。

 僕の口から言えるのは、現状、これが精いっぱいだ。

 しかし、悲痛な小百合の表情。このまま言葉を区切れば、悲痛さを顔に張り付かせたままだ。それは避けたかった。

「気にしないでくれ。これからも、僕は小百合を描き続ける。この絵は、今の僕にとって最高傑作だけど、けど、これでも満足できていないんだ。君の魅力を、描くべき全てを、キャンパスに描けていない」

 だから、処分せざるを得ない。僕にもっと描写する力があれば、その必要はないのだ。

「僕は、まだまだ力不足だ。でもそれはつまり、今からもっと伸びるということだ。この絵が下手に思えるほど、もっともっと上手くなって、綺麗に描けるようになって、それから、小百合が喜ぶような、そんなとびっきりの絵を描くよ」

 それは本心からの決意だった。

「……うん」

 小百合は納得していないような表情で頷いた。ただ、幾ばくか先ほどまでの悲痛さは、薄まっていた。

 僕が布でキャンパスを包むと、小百合は名残惜しそうに「あっ」と声を漏らした。

 すかさず僕は言う。

「またすぐに、君の絵を描く。だから、待っていておくれよ。何度でも、君自身が飽きるまで君を描き続けるからさ」

 白紙の君が、たくさんの色で染まるまで、という言葉はあまりにも臭かったのでて飲み込んだ。

「うん」

 か弱かった小百合の声に、芯ができる。ようやく納得してくれたようだ。

 僕は布で包まれたキャンパスを担いだ。

「じゃあ、そろそろ僕は行くよ」

「……うん」

 いかにも寂しそうな声であった。僕がこの部屋から出れば、彼女はこの狭い部屋で独りぼっちになってしまう。振り返ってなにか言いたい衝動にかられるが、それをあえて振り切った。向くのは前だけだ。

 最小限の挨拶を最後に、僕は部屋の扉を閉めた。

 小百合の家を後にし、住宅街を歩く道すがら、腹の奥でふつふつと滾る気持ちに気付き、自分も男なのだな、と認識した。

 これから、映画館に向かい、哲也館長を説得しに行く。

 僕の腹積もりとしては「説得」というより「勝負」であった。

 勝たなければ、小百合の未来は狭い部屋で終わってしまう。

 緊張で身震いする。人生で初めて、武者震いを経験した。

 一歩、一歩。つい、力強く踏み込んでしまう。背負うキャンパスを殺傷能力のある武器だと錯覚してしまう。腕や衣服についた絵の具は、返り血だろうか。

 紅色の夕焼けは、ついに全てを隠し、夜が訪れる。日が無くなったとはいえ、季節は夏。熱気は残っている。額や背中から自然と汗が噴き出す。垂れる汗をぬぐうことなく、僕は映画館へと向かった。

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