35.バイト終了

「ブラックコーヒー。飲めば眠気も吹き飛ぶはずさ」

 コトリと眼下に置かれたコーヒーは深淵のように黒い。瞼は鉛のように重く、頭の回転は鈍い。お言葉に甘え、コーヒーを口へ運ぶと、容赦なき苦みが口の中に広がって、顔をしかめてしまう。眠気が吹き飛び、全てが活性化することを期待したが、ただ、眠る気がなくなるだけで、気だるさは未だ健在だ。

 机を挟んで正面に座る千佐子は、特徴的なニヤケ面で僕の渋い顔を眺めている。

 場所はオーバー社の小会議室。僕と千佐子だけが、この部屋にいる。

「それにしても色鮮やかなだね。風呂には入ったのかい?」

 千佐子が言っているのは、僕の身体や服に付着した絵の具のことだ。 作品を完成させて、コンビニで軽く腹ごしらえをしてから、そのままオーバー社へ来たので、汚れは洗い流してはいない。

「まあ、ずっと絵を描いていましたから」

「それが、君の作品かい?」

 千沙子は視線で僕の隣を指す。そこには布で包まれたA0サイズのキャンパスが机に立てかけられている。縦の大きさは約120㎝。小学1年生の平均身長くらいだ。

「このまま哲也館長の元へ行くので、取りに帰るのも面倒なので、もう持って移動しようかな、と」

「哲也館長ってのは、映画館の堺さんのことかな?」

 僕はうなづくと、千沙子は苦笑した。

「君がバイトに来ないからかなり怒ってたよ。ご立腹だ。君は我々オーバー社から紹介した人材だからね。ごめんなさい、って謝っておいたよ」

「それは、すいませんでした」

「構わないさ。金稼ぎなんて大人になって死ぬまでするんだ。君が今、絵を描くべきだと考えたのなら、それを優先すべきさ。大人の都合に振り回されちゃいけない」

 ふふん、と千沙子は鼻を鳴らす。彼女が僕の味方をしてくれるのは意外であった。

「さ、雑談も程々にして、本題に移ろうか」

 そう言った彼女は、ゴホン、と咳払いをしてから、事務的な口調で、バイト終了についての説明をはじめた。「この仕事を終了するにあたって注意していただく点があります」からはじまったその内容は主に情報漏洩についてだ。中には、もし口外したなら訴えるケースもある、などと物騒なワードが出てきたが、僕はあえて右から左へスルーした。

 説明を聞き終えると、僕は首の「フェイス」を外し、千沙子へ渡した。

 ただの道具とはいえ、なんだかんだ1ヶ月を共にしてきたからか、別れを惜しむ気持ちがある。

 千沙子は「フェイス」を箱に収めると、大きくうなづいた。するべき事柄を全て終えたことを自分の中で確認するような、そんな素振りであった。彼女の顔にあった緊張が消える。

「はい、これで完了。1ヶ月間お疲れ様でした」

 千沙子が深々と頭を下げるので、僕も頭を下げる。

「ま、最後の5日間はサボったけどね」

 それを言われると肩身がせまくなる。縮こまる僕を見て千沙子は「冗談冗談」とケラケラ笑った。

「これからその大きな絵を堺さんに見せて、弁明するつもりなんだろう?」

 千沙子は再びA0サイズのキャンパスを視線で指した。布で包まれているので、中身は見えない。

「まあ、そんなところです」

 説明も面倒なので、千沙子の言葉をそのまま受け入れると、彼女は渋い顔をした。

「つまらんなあ。彼女を救い出してきます、くらいの決め台詞は言ってほしいね」

 その発言に僕は驚愕した。

 肩をすくめる千沙子を凝視せざるを得なかった。

「……どこまで知っているんですか?」

 彼女の発言は堺家の内情を知り、なおかつ、僕の思惑を理解していなければ、できない発言であった。彼女の底知れぬ何かに触れた気分になる。

「私が知っているのは、堺家の内情だけさ。小百合ちゃんは健常だけど、病人として扱われている。当たってるだろ? けど、君の行動に対しては推測にすぎない。絵を描くことに熱心な君。それに大きなキャンパス。説得の道具だろうと、考えたわけさ」

「小百合のことを知っているなら、どうにかすべきだと考えないんですか?」

「考えたさ、でも、私が首を突っ込むべき事柄ではない。小百合ちゃんへ強い思い入れもないし、堺さんほどの覚悟もない。浅はかな正義を振りかざし、世間的な悪を打ちのめす趣味もない。だから、私はただロボットを造り、ただ彼に売った。私は私の役割をしただけさ」

 薄情だと思いつつも、真っ向から否定できない自分がいた。千佐子の言い分は、どこか冷徹で達観したものだが、間違っていないように感じた。

「じゃあ、僕のやることは、余計なお世話ですか?」

「そんなことはないさ。私と君では、決定的に違うものがある」

 千沙子は細い人差し指を立てると、僕の胸部を指してきた。

「思い入れさ。君は小百合ちゃんを好きだから、行動している」

 好きだから。

 甘酸っぱい響きに、頬が熱くなる。

「その想いの詰まった作品、ぜひ見てみたいなあ」

 千佐子は頬杖をついて、ニヤリとほくそ笑む。やはり、千佐子に対してあまり良い印象はない。それは論理的なものではなく、生理的嫌悪であった。理性では彼女を受け入れようとしている反面、本能部分が拒否を示している。

 とどのつまり、千佐子に絵を見せたくはないのだ。

 彼女のニタニタ顔がその決意をより強固にさせる。

「…………」

 だが、この作品の寿命は短い。

 より多くの人に観られたほうがこの作品も本望だろう。

「わかりました」

 両手を広げ、キャンパスを持つと、机の上に置いた。キャンパスを包んでいた布を解くと、作品があらわになる。

「どうでしょう?」

 千佐子に見せるからとて、感情に起伏はない。緊張なんぞ微塵もない。ないが、どうせならいいリアクションが貰えると嬉しい。物陰から顔を出すようにして、千佐子のリアクションを確認する。

 千佐子は驚いたような顔をしていた。呆然とした顔で目を見開いていた。善し悪しのどっちのリアクションなのか、分かりにくい表情であった。

 ぽかん、としていた口が動き出す。

「ふふ、人の成長というのは、無条件で人を感動させるね」

 嬉しそうに彼女は微笑んでいる。救われたような、浄化されたような、普段のニタニタ顔ではない無垢な笑顔であった。

「成長って、僕の絵を観たことがないでしょ」

「あるさ。一度だけね」

 そうだったろうか。オーバー社へ自分の作品を持ってきたことはない。

 ……そういえば、千佐子は新川ミコトの視点を覗き観ることができる。彼女が僕の作品を観たのは、新川ミコトの視点を借りた時、たまたま僕の絵が視界に入ったことを指しているのかもしれない。

「いい作品だ。きっと堺さんの感情も動くだろうね」

 そんなことを言いながら、拍手をする。先ほどの言葉とは真逆で、なんとも社交辞令めいた台詞である。まるで説得力がない。

 僕は再び布で作品を包む。

「そろそろ行きます」

 キャンパスを担いだタイミングで、いつか千佐子に聞くべき質問を思い出した。

「そうだ。一つ聞きたいことがあったんだ」

「なんだい?」

「どうして、僕だったんですか?」

「ん?」

「バイトの人選です。誰でもよかった中、どうして僕だったんですか?」

「あ~~……」

 千佐子は思案するように上を見上げた。

「なんというか、自己満足さ。罪滅ぼし、と言ってもいい」

「罪滅ぼし……?」

 要領を得ない。どうして僕を選ぶことで罪滅ぼしになる?

「罪滅ぼしってのは言い間違えた。うん。まあ、アレだ。君が学校の中で一番コミュニケーション能力が低そうだったから、選んだだけさ。うん。とくに深い意味はないよ」

「はあ……」

 僕を選ぶ理由として真っ先に浮かんだのが、それであった。面白い種明かしでもあれば儲けもの、程度の意気込みで聞いたので、面白みのない回答を残念に思いながらも、まあ、そんなもんだろう、と納得していた。

「しかし、別れたら、もう会うことはないだろうね」

「え?」

「バイトは終了した。会う理由がないだろ?」

 まあ、たしかに、そうかもしれない。

 千佐子と積極的に会いたいと思わないが、名残惜しさがある。彼女の突き放すような言葉を素直に嫌に思った。

「また来ても、いいですか?」

「ふえ?」

 意外な言葉だったのだろう、千佐子は間抜けな声を発した。

「オーバー社の内部の人間とせっかく知り合えたんだ。僕としては、ロボットを超えるヒントも欲しいし、ここで縁を切るのは、勿体ない」

 僕としても、僕の言葉は意外であった。千佐子に対し、本能的嫌悪感を抱いているのにも関わらず、彼女との別れを勿体ないと考えている。

「ほぇ~~~? 私との別れが寂しいのォ~~~~?」

 千佐子は非常に嬉しそうに、しかし、非常に憎たらしい笑顔で問うてきた。

「名残惜しいっすよ」

 本音を言った。腹立たしいその顔のせいで、恨み節を吐きたくなるがこらえた。

「ふ~ん、ふぅ~~~ん」

 ニヤニヤと嬉しそうに何度も頷いている。

 多分、やっぱり、友達、少ないんだろうなあ。この人。

「まあ、ここは会社だから、気軽に遊びに来るのは無理だけど、ミコっちゃん越しに会話するのなら、問題ないね」

「そうですか」

 彼女のムカつく表情を観ていると、それくらいが丁度いい気がしてきた。千佐子は天然で人の気を逆なでる。いつかプツンと来てぶん殴る日が来ても、おかしくない。新川ミコトが間に入ってくれないと、暴力沙汰だ。

「じゃあ、今度こそ行きます」

「うん。またね」

 再度キャンパスを担ぎなおす。手を振り別れを告げる千佐子を背に、会議室を出た。

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