31.興味関心
最高の画家とは誰か、と問われたら、葛飾北斎、と答えるだろう。
彼が残した作品の偉大さも素敵だが、最高だと思う一番の理由は絵への向き合い方だ。
作品数は約3万。90歳という長寿からも、北斎のエネルギッシュさを感じる。晩年に「画狂老人卍」と名乗ったらしく、お墓にもその名が彫られている。あと5年生きれば本物の画家になれだろう、と語ったらしい。
一番有名な作品と言えば、荒波を描いた浮世絵、富嶽三十六景、神奈川沖浪裏だろう。誇張表現のような波だが、実際に荒波をスローで見ると、本当にそのようになり、葛飾北斎の動体視力、観察眼の凄まじさを表す思考の一作だ。
僕はそれをプリントされたTシャツを着ている。
モナリザTシャツか迷ったが、ダヴィンチより北斎だろう。
横には小百合が並び座り、電車に揺られている。小百合は身体をひねらせ、流れる景色を眺めながら目を輝かせている。その横顔は本当に楽しそうだ。きっと彼女にとって、僕の当たり前は、どれも新鮮なのだろう。
「どこへ行こうか?」
僕が問うと、小百合はジトっとした目で睨んできた。
「こういう時、本当は男がリードするものなんだよ」
「え?」
「嘘だよ」イタズラっぽく笑う「私がいきなり誘ったんだから、プランは考えてあるよ」
今日の小百合は本当に楽しそうなのが、言葉の節々から感じる。幸せそうな彼女を見ているだけで、僕もなんだか嬉しくなる。
「私、電車にずっと乗りたいって思ってたんだ」
小百合は立ち上がると、乗車口の扉まで行って寄り掛る。
「映画とかでよくある、終電でさ、疲れた顔して流れてく夜景を見ながら黄昏るの」
そう言いながら、小百合ははあ、とため息してから遠くを見つめる。どうやら、今しがた言ったワンシーンを再現しているらしい。まだ昼間だから、完全再現とは言えないが、彼女をやりたいことはできているのだろう。
それにしても、小百合の声がでかい。彼女が喋るたび、まばらにいる乗客から白い視線を時折感じる。動きにも節操がなく、無邪気な子供を連想させる。
僕は立ち上がり、小百合の元へ歩む。
綺麗だな、と思った。
流れるような黒髪も、遮光に照らされた白い肌も、僕と向かい合う整った顔も、そのどれもが僕の鼓動を早くさせ、ひゃっほー、と跳ねて喜びたくなる気持ちにさせる。
目の前にいる小百合は、ロボットで、本物の小百合は家にいるのに、僕は目の前の彼女を本物だと認識してしまっている。
哲也館長の言い分は、あながち間違っていないのかもしれない。
彼女は十分幸せそうだ。
仮にここで、電車が横転したとしても、家にいる彼女は無事だ。
もしかしたら、小百合は外へ出なくてもいいのかもしれない。
微量ながら、そんな気持ちが出てきた。
「で、どこで降りるんだ?」
小百合は車内上部に貼られた路面図を見て答える。
「次の次」
小百合と一緒に目的地に着いて、僕は彼女の思惑をなんとなく察した。
場所は美術館。この前、亜美さんと来たところだ。
あの時、デートプランを考えたのは、横にいる小百合である。彼女は自分で考えたプランを実際に体験したいのだ。
「うわぁ~~、大きな建物!」
2階建ての美術館を見上げ、小百合は感嘆たる声を上げた。彼女の声が周りに響き、通行人の視線を集める。
不安だ。彼女を美術館の中へ入れていいものか。
「小百合」
名を呼ぶと、犬みたいに無邪気な顔で振り向いた。
「美術館では、静かに行動しよう。みんな集中して絵を観ているから、邪魔しちゃだめだ」
小百合はハッ、として、己の口を両手で塞いで、コクコクと頷いた。
うーん、不安だ。
同じ美術館に同じ展覧会。当然ながら、飾ってある作品も同じである。
なので、前回ほど熱心な気持ちもなかった。それに、作品の集中できない大きな要因があった。
「わー、あれも凄いよ」
隣にいた小百合が前方にある絵に目掛けて駆ける。静かな館内ではその足音でさえ目立つ。訝しそうな視線が集まる。
僕はやれやれと首を振って、早足で小百合に追いつく。
「加地くん、これも人が描いた絵なの?」
やはりその声は大きい。苦笑してしまう。注意しようかと一瞬思ったが、やめた。
小百合の輝く瞳に、つい嬉しく思ってしまったからだ。僕が余計な口出しをして、小百合がしょぼくれるのを避けたかった。
それに、周りなんて、僕にはどうだっていいことだ。
僕にとって大事なのは、僕が好きな小百合だ。
僕の志を馬鹿にする世間なんかより、隣に立つ彼女を優先したい。
「この展覧会は、人間の作品を中心に選出しているから、そうだよ」
僕の軽い解説に小百合は「へぇ~」と相づちをした。
「凄いね。人って、こんなに巧い絵が描けるんだね。加地くんもこれくらい巧いの?」
無邪気ゆえ不躾な質問であった。小百合の質問と言えど、心がチクりとする。
改めて正面にある作品を見やる。ビルが立ち並ぶ都会に佇む儚げな一人の少女が描かれている。油絵。作品名は「足掻き」。都会の淀んだ雰囲気を見事に描かれており、少女は呆けたような、見下すような、哀しんでいるような、形容しがたい朧げな表情をしていた。きっと、人によってとらえ方の変わる絶妙な表情だ。僕にこの顔は描けない。
「僕はこんなにも巧くないよ」
まだ、高校生だから、という言葉を言いそうになった。その言い訳は、本当に言い訳にしかすぎないので、飲み込んだ。
「そっか、加地くんの絵、見てみたいな」
「え? これより下手なんだぞ?」
「巧い下手じゃない。私は『加地くんの絵』だから見たいの。身近に人がいたら、もっと知りたいって思うものじゃない?」
「そうか、そういうもんなのか」
身近な人間をもっと知りたい、という感覚はよくわからなかった。
「加地くんだって、私が小説書いてるって言ったら、読みたいって言ったじゃん。そういう気持ちと一緒だよ」
「なるほど」
ふむ、そう言われたら、わかるような気もする。
僕が理解した感覚を租借していると、小百合はもじもじしながら、肘で小突いてきた。
「私、小説、書いてるの」
なにやら恥ずかしそうに言う。
「あ、ああ。知ってる」
「違う。私、小説書いているのっ」
僕は困惑してしまう。おそらく、彼女の中には理想とする適切な答えがあるのだろうが、皆目見当もつかなかった。脳内中の言葉を探し回っていると、小百合は頬を膨らませた。
「むぅ、前はすぐに読みたい、って言ってくれたじゃない」
「読みたい」
「遅い」
ぷいっと彼女はそっぽ向く。
「だって前に、読んでほしくない、って言っていたじゃないか」
彼女が小説を書いていることを忘れてはいないし、ずっと読みたいと思ってきた。だが、彼女が嫌がることをしたくないので、深入りはしなかった。
小百合は痛い所を突かれた、と言いたげに顔をしかめる。
「読んでいいのか?」
すかさず聞くと、彼女はコクリと頷く。
「じゃあデータを――」
「今じゃないよ。去り際。今日、別れるときに渡すから」
彼女は以前、小説を読んでもらうことは、赤裸々だから恥ずかしい、と言った。その赤裸々を晒せるくらいには、信頼されていることが嬉しかった。
「楽しみにしているよ」
素直な気持ちを伝えると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。
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