第5章

28.根幹

美術室。


「     」


真っ白なキャンパスが僕の前にある。

 右手に筆を握り、脇の机には彩り豊かのアクリル絵の具。描こうと思えば、すぐに描ける状態である。


「     」


 だけども、僕筆を握ったまま、僕は動けずにいた。

 白紙のキャンパスに色を塗ることもせず、僕はただボーっと白いキャンパスを眺めている。描かなければ、という気持ちがある。しかしそれは、都会の星空ほどか細い光だ。

 都会の光の役割を担っているのは、

それは、

描いて、どうなる?

 という、

気持ちだ。

光、とは対照的に、どす黒く重い気持ち。

 僕の存在理由を根こそぎぶち殺すような、最悪な気持ち。

 それを強く僕は感じていた。

 

「     」

 

 絵を描くのは、楽しい行いだったはずだ。

 僕にとって強い意味を持つ行為だったはずだ。

 過去10年以上、そして未来永劫を賭けてもいいと、思えるものだったはずだ。

 他人に蔑まれ、親にも否定され、それでも筆を握り続けてきた。

 だけども、それで、何ができるのだろうか。

 人を笑顔にできない。

 人と仲良くもなれない。

 人を救えない。

 そもそも、ロボットが絵を描く時代に、人間が描いてどうする?

 自動車があるのに、人力車を担ぐようなものだ。


 もし、僕が絵に費やした時間を、熱意を、もっと有意義なことに、例えば、人と係る時間やAI技術みたいな、社会貢献に役立つ勉強に対し注ぎ込めば、もっと、僕という存在のランクが上がったのではないだろうか。

 それこそ「フェイス」起動時の僕みたいな行動を、僕自身ができたならば、

 絶望する哲也館長を励まし、亜美さんの恋心を傷つけることなく両者が納得できるところへ着地して、和気あいあいとクラスメイトの中心に立ち、そして、ウィットに富んだトークで小百合を笑顔にさせる。

 

 僕のやってきたことは、

 無 駄 だったのだ。


「   /   」


 手近にあったパレットナイフで切るように、突き刺した。

 穴を空けるつもりで突き立てたが、パレットナイフは刃物ではない。

 パレットナイフはキャンパスに弾かれてしまって、なにもスッキリしなかった。

 キャンパスは木製の枠に、紙を張り付けたものだ。まあまあ硬い。

 もう一度、刺そう。

 今度こそ、突き抜こう。

勢いをつけるため、腕を振りかぶり、ナイフがキャンパスへ向かおうと動き出した瞬間、手首を掴まれた。右手を掴んだ主を確かめるため、振り返る。

「なにしてるの」

 トモセンは、呆れと心配を足して2で割った顔で僕の手首をつかんでいた。


 パチン。

 トモセンが壁のスイッチを押すと、美術室の蛍光灯が光った。先ほどまで真っ暗だった室内が急に明るくなり、僕は顔をしかめた。

時刻は午後8時。トモセンは、僕の隣まで丸椅子を持ってきて、それに座った。

「…………」

 俯く僕は、視界の端で、隣に座るトモセンの気配を感じていた。顔を上げて、彼女と話すことが、とても億劫だった。なにもしたくなかった。だから僕は、項垂れたまま、彼女に対し、なんのアクションも起こさなかった。

トモセンは、傷ついた白紙のキャンパスを一瞥する。

「絵、諦めるの?」

 彼女の言葉に驚いた僕は顔を上げた。

 トモセンは、僕の現状を何も知らないはずだ。「フェイス」のことも、バイト先でのことも、小百合のことも彼女には一切言っていない。なのに、あまりにも的確な言葉に、びっくりしたのだ。

 僕の驚く顔を見て、トモセンは「ふっ」と噴き出した。

「キャンパスにナイフを突き立てるのなんて、絵を諦める人間がいかにもやりそうなことでしょ。原因とか理由とか、細かいことまではわからなくても、そんくらいはわかるわよ」

 彼女は僕に向かって、優しくほほ笑んだ。冷え切った心に、温もりを感じた。

 人に優しくされることが久々で、素直に嬉しく思った。

「何があったの?」

 何があった。

 その問いに、僕は困った。

 それを正確に説明できる自信が僕にはなかった。

「フェイス」の情報漏洩の件もあるが、それ以前に自分のトーク力では、自分が体験したこれまでと、自分が感じてきた心境を適格に言葉で表現できる気がしなかった。

 そしてなにより、僕の今の現状は、長い年月をかけて、カリカリと徐々に削れてきたゆえの結果なのだ。

アンドロイドが描く時代に僕が描いて意味があるのか?

 心の奥底に沈めてきた反対意見が弱った僕に牙をむき出しにしてきたのだ。

 その反対意見を作ったのは、僕にぶつけられた言葉の数々だ。親、クラスメイト、大人、あらゆる人間が、あらゆる言葉で、僕の志を否定してきた。そういった過去の出来事をくどくど説明する気もなれない。

 なので僕は、経緯をすっ飛ばし、結論だけ述べることにした。

「絵を描く意味って、あるんですかね?」

 トモセン目を丸くしたまま静止した。そりゃそんな反応になるだろう。彼女の問いに対し、僕の答えはあまりにも乱暴だ。彼女も困惑しているだろう、と思ったがトモセンは「ぷはっ」とまたも噴き出した。

「アハハハハ!」

「えぇ⁉ なんで、笑うんですか!」

 僕は爆笑するトモセンに文句を言った。

「いや、青木らしからぬ発言に思わず、つい」

 言いながらトモセンは目尻を指でぬぐう。涙まで出たらしい。こちとら本気で悩んでいるのに、笑われるのはなんだか心外だ。

「青木は意味とか関係なく、描きたいから描く人間だと思っていたよ」

 描きたいから、描く。

 その志は、純粋かつドストレートがゆえに、とても尊い響があった。

「僕だって人間です。無駄な行為に虚無感くらい覚えます」

「じゃあ青木は、ロボットが絵を描く現代で、どうしてこれまで絵を描いてきたの?」

 トモセンの質問は、僕の根幹に係わる問いであった。

「…………」

 どうして、と問われて人生を振り返ってみると、明確な理由が出てこなかった。

 「なぜなら」から続く言葉がまったく浮かんでこない。

 絵を描く行為は、「吐息」や「瞬き」と一緒だ。己にとって無意識的に行う自然な挙動の一つであった。好きだから、とか、画家になるため、といったそれっぽい理由を後付けすることも可能だが、心の最も正直な部分に従うと、やはり明確な理由は出てこない。

 今は画家になるために描いているが、結局のところそれは、一生涯絵を描き続けるための手段だからだ。

 絵を描かなければ、青木加地ではない。

 過言ではなく、等身大として、そのように感じた。

「描くべきだから、描いてきました」

 僕の口から飛び出た言葉は「描きたいから、描く」の上位互換な気がした。「描きたいから、描く」より僕の感覚の方が「描く」行為が己に近い気がする。

 トモセンは「ふふ」と嬉しそうに笑った。

「じゃあ、筆を握り続けるべきね」

 気合を入れるように、軽く背中を叩かれた。前進を促される刺激に、胸が熱くなる。

「天才の貴方は、凡人の私と違って描き続けるべきよ」

「僕が、天才? 天から才能を与えられていない」

 僕の画力の中身は純度100%己の努力だ。僕は天才ではない。だが、トモセンの言う「天才」には確信めいた響きがあった。

「前にも言ったでしょ。天才や才能は得てして負けた側の言葉だって。敗北者には敗北者の視野ってのものがあるのよ」

「敗北者の視野?」

 僕が復唱すると、トモセンは悪だくみするように、ニヤリと笑った。

「私から見て、青木は勝者ってことよ」

 ドヤ顔とともに放たれた言葉を僕はあまり理解できなくて、小首を傾げたい衝動にかられたが、トモセンはの顔には「いい台詞を言ってやったぜ」という、してやったりな雰囲気があったので、僕は苦笑した。

 ガラガラと引き戸の開いた音がした。顔を向けると、

「おや、もう一人の天才だ」

 大樹が肩で息をしていた。どうやら走ってここまで来たらしい。

「加地、見てくれ」

 興奮して笑う大樹の顔。手元にVRゴーグルを持っていた。

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