21.誠意
早く終われ、そんな気持ちで、食後のコーヒーを飲んだ。
砂糖もミルクも入れていないコーヒーは、うげ、と顔をしかめたくなるほど苦かったが、「フェイス」により、僕の顔は朗らかな笑みを浮かべている。そして、相対する亜美さんは、嬉しそうに、幸せそうな微笑みを浮かべている。
美術館を出てから、小百合のプラン通り、約8分歩き、オシャレなレストランに来ていた。ランチメニューを食べ終え、談笑している。
口は勝手に動き、亜美さんがそれに答え、笑う。
この空間に、僕の居場所はない。
まるで他人のデートを覗き見ているような感覚。楽しいものではない。
「それじゃあ、そろそろ解散にしましょうか」
僕の願いが「フェイス」に届いたのか、不意に、僕の口がそんなことを言った。
笑い合う中、あまりにも唐突に投げ込まれた提案だったので、亜美さんは「え?」と残念そうな顔をした。
僕はクスリと笑う。
「嘘ですよ。残念に思いました?」
亜美さんは頬を膨らませた。
「意地悪ぅ」
亜美さんはぷ、と噴き出すと、堰を切ったようにアハハ、と笑った。僕もアハハと笑った。僕は、なんだこれ、と思った。
会話は盛り上がった。定型句で言うなら「時間を忘れるほど」なのだろうが、僕の場合、逆に時間を強く感じるほど、会話が盛り上がった。
暮れなずむ頃、ようやくにして、僕と亜美さんはレストランを出た。
「今日は、楽しかったです」
僕が心から満足したように言うと、亜美さんは「私も」と頷いた。
二人並んで最寄り駅へ向かう。
会話はない。
妙な緊張感が互いの中にあった。それはまるで、ガンマンのにらみ合いのようだ。どちらが先に腰のマグナムを抜き出すのか、探っているようだった。
言わずもがな、そこに僕の場所はない。
「「あの」」
声が重なった。
「え、あ、先に先輩、どうぞ」
「いや、加地くんが言いなよ。大したことないし」
「いえ、僕は、亜美さんの言葉が聞きたいです」
「ここは後輩が先に言うべきなんじゃないかな」
「いえ、先輩が先に言うべきでしょう」
と発言権をたらい回しにした末に、どうしてか亜美さんが先に言う流れになった。
「…………加地くんは、彼女とか、いるの?」
彼女の声はか細くなって、最後の「いるの」は耳を傾けてようやく聞こえた程度だった。
彼女は顔は俯かせ、頬を赤く染めている。
それは実質の告白であった。
仮に、僕が「いませんよ」と言ったならば、すぐに「付き合ってください」という言葉が飛んできそうな勢いである。そうなってしまえば「フェイス」は二つ返事で了承し、見事カップル成立してしまうだろう。
僕は速やかにフェイスの電源を落とした。
顔の主導権が己へと返ってくる。
すると、言い知れぬ不安感が去来した。服をはぎ取られ、身を蔽う物が何一つ無くなってしまったようなそんな感覚になった。「フェイス」という仮面を脱いだからだ。
幾度となく亜美さんと相対してきたが、僕自身が彼女と話すのは、初めてだった。
いわば、「フェイス」に頼ってきた反動だ。
喉が渇き、口がまごつく。
「…………」
どういう顔をして、どんな言葉を発せばいいのか、わからなかった。
亜美さんの問いに対し、僕は緊張のせいで答えることができなかった。それを彼女は否定的に捉えたらしく、不安そうに上目遣いでこちらを見ている。視線を強く感じると、僕はたまらず目線を外した。図らずもそれは彼女の好意を拒否したような素振りであった。
「なんか、ごめんね。えへへ」
今にも泣きだしそうな顔で、無理に笑う亜美さんは悲痛であった。
いたたまれない気持ちになった。何か言うべきだと思った。
「すいません」
まず謝ってしまった。己の肩に乗った罪の意識を軽くしたかったために、反射的に謝罪をしてしまった。だが、言ってから気づく。またしてもそれは拒否反応だ。
ダメージを負ったような亜美さんの表情。
何を言うべきなのだろうか。
何も言うべきではない気がしてきた。
亜美さんは、「フェイス」のことを知らない。「フェイス」を起動させた僕しか知らない。
僕が嫌悪した亜美さんの恋心は、だがまぎれもなく、彼女にとって本物の恋なのだ。
「フェイス」は、相手が望む行動をする。
先ほどまで、僕は亜美さんが望む行為をしていた。
だけども、「フェイス」の電源を落とした僕自身は彼女を拒否した。
理不尽な行いだ。
彼女の恋心を弄ぶような、最悪な所業だ。
罪悪感がみぞの内側で膨らみ、気が重たくなる。
何かしら、誠意を尽くすべきだと思った。
「……亜美さん、僕には、好きな人がいます。亜美さんではない、別の人です」
僕が思いつく誠意は、正直に話すことだった。
「うん」
亜美さんにとって、追加ダメージにしかならない発言なのに、僕の言葉を聞き入れてくれた。やはり、この人はいい人だな、と思った。
「だから、その……すいません」
僕は頭を下げた。それしか言えなかった。僕の語彙力は、フェイス起動時に比べ、限りなくゼロに近かった。
「加地くん」
つむじから声がした。僕は顔を上げた。
「謝れば、全て済むと思っているでしょ」
声が冷淡であった。目尻に涙は溜まっていたけど、先ほどまでの悲痛さは消え失せていた。
「人の心を弄んで、楽しかった?」
挑戦的な笑み、目には敵意が宿っていた。
正直、優しい亜美さんのことだから、許されることを期待していた。
――現実なんて、そんなもんだよ。
不意に小百合の言葉を思い出した。人は内面を見ることができない。僕の謝罪が誠意からくるものであっても、行動だけで考えれば、やはり最低な部類だ。
「加地くんが、そんな恋心を弄ぶような人だとは思ってなかった。さよなら」
亜美さんはそう言い残し、踵を返して帰って行った。
夕日に照らされ、小さくなってく背中を眺めながら、僕は自己嫌悪に陥っていた。
なにかもっと素晴らしい選択があった気がするが、人との係わりについて無知な僕は何も答えを導き出せず、亜美さんの背中が消えても、ただしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「加地くんの行動、間違いじゃないと思うよ」
それは小百合の言葉だ。
亜美さんに嫌われた翌日、僕はたまらず小百合の部屋に訪れていた。自分の本音を話せるのが、小百合だけだから、吐き出したかったのかもしれない。彼女にデート内容の一部始終を話したら、そのように彼女は答えた。
ベッドの上で、己の膝を抱える彼女は、大きな黒目の整った双眸で、真っすぐにこちらを見て、なおも言葉を続けた。
「亜美さんにとっては、完全に最悪な動きだったと思うよ。最初に手を繋ぎ、笑顔を見せ、いかにも自分もあなたが好きです、って顔をしながら、最終的に『別に好きな人がいる』って、そりゃ嫌われるよね。でも、加地くんにとっては違うよね? 加地くんは、加地くんなりに正しい行いをしようとした。結果が失敗に終わったとしても、加地くんなりの『誠意』に沿った行動であることに、揺るぎはない」
「加地くん」と小百合は改めて僕の名を呼んだ。
「加地くんにとっての『誠意』は、亜美さんや私には見えなくても、本人にとってはたしかに存在している。君の心は君だけが認知できる。だったら、唯一それを見ることができる貴方が、それを尊重してあげなきゃ、君の心が可哀そうじゃない?」
それは、自分にとって、とても都合の良い考えに思えた。
それと同時に、そういう考えもあるのか、と感心した。
なんというかそれは、自分の心を慈しむような考えであった。
「我思う故に、我あり。自分にとっての唯一の自分を大切にしなきゃ。周りの人が敵になっても、味方になってあげられるのは、自分だけだよ」
僕は静かに頷いた。
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