16.メモ

 なんか、成長へのきっかけっぽいね」

 小百合がニヤリと笑う。

 情報漏洩を避けるため、彼女からだした条件「小百合の家に来て、彼女に日常で起こった出来事を話し伝える」今、僕はそれを実行中なのだ。

 トモセンとの会話。大樹の話、それを受けて僕が何を感じたのか。そういったことを彼女に伝え終えたところで、小百合はニヤリとほくそ笑んだのだ。

 ベッドに座る小百合は何やら興奮するように「面白いね、面白いね」と体を揺らす。彼女が笑ってくれるのはいいが、別に面白いことを言ったつもりはない。事実を淡々と述べただけだ。

「なにが面白いんだ?」

 僕が問うと小百合は「うふふ」と笑みを強めた。

「そりゃ面白いよ。外の話だし」

「…………」

 彼女の言葉のせいで、微妙な気持ちになる。

 そうだ、僕にとっての普通も、部屋から出ることのできない小百合にとって、とても特別なことなのだ。手を伸ばしても、届かない出来事なのだ。

 部屋で独り、窓辺を覗く彼女を想像すると、そのあまりにも孤独な情景に胸が痛くなる。

 僕が憂鬱のせいで俯いていると、小百合はおもむろに戸棚からノートとペンを取り出し、なにやらスラスラと文章らしきものを書き始めた。

「何しだすんだ急に」

「私、実は小説を書いているんだよね。加地くんの話は、その資料になるの。だから、そのメモ」

 疑問の視線を感じた小百合は照れくさそうに言った。

「小説」

 言葉を口に転がしてみて、その意味を確かめてみる。

 小説。絵描きの僕にとってそれは理解しがたい代物だ。「理解しがたい」とは、軽蔑の意味ではなく、自分の理解の上をいっている、という意味だ。

 絵や音楽は見て、聞いて、瞬間に善し悪しがわかる。人の本能的な部分に訴えかける。だからこそ、直感的に創作ができる。

 だが、小説は違う。文章という緻密で知的で具体的な「言葉」という代物を使う。勢いや感覚だけで成立はしない。

 視覚での感動はわかる。美しい絵を描けばいいのだから。

 だが、美しい文章となると、言葉や文法の知識が必要だ。

 言葉で人を感動させるのは、偉業だ。ましてや物語なんて、さらに想像の外だ。世界から人物まで、あらゆる部分を考えなければならない。どう創るのか皆目見当もつかない。

「すごいじゃないか。ぜひ読みたい!」

 僕は心の底から尊敬の念をこめて言った。

「駄目だよ。恥ずかしい」

「でも、人に読ませないと書く意味ないだろ?」

「……人には読んでもらってるよ。ネット上にアップしてる」

「だったら、僕が読んでもいいんじゃないか?」

「駄目だよ。顔見知りに読まれるのは、恥ずかしい」

 そういうものなのだろうか。僕は小首を傾げる。

「小説って、かなり赤裸々なんだ。私は未熟だから、嘘偽りじゃ書けないの。魂を削って、言葉に変えて、形にする。本音の羅列になっちゅうから、私を知っている人に読まれるのは、少しキツいの」

 嘘、偽りなく。

 小百合の表情はどれも本物だと思う。何も装っていない。外の人間とは違い、純粋な気持ちをそのまま顔に、言葉に、出している。

 それなのに、彼女の本心はまだ深いところにあるようだ。

「そうか、それは仕方がない」

 と僕は嘘をついた。

 仕方ないとは、微塵も思っていない。

 彼女の本心がどんなものでも、覗いてみたい、と強く思っている。

 そう思える相手は、初めてな気がした。


 しかしながら、僕の初恋は小百合ではない。

 中学一年の時、クラスメイトの女子を好きになった。

 最初は無自覚であった。自分の席に座っている時、なんとなく目の方向が彼女に向いていた。無意識的に目で追っていたのだ。それが恋愛感情だと自覚すると、気持ちがよりいっそう強くなった。

 付き合いたい、と単純に思った。

 告白しようと、決めた。

 僕は絵描きだ。他より優れているのは画力だ。だから、彼女の似顔絵をプレゼントしようと考えた。僕の目にあなたは、こんなにも美しく見えているのだと伝えるために、花束に佇む彼女を描いた。

「キモ」

 その絵を渡した時、軽蔑するような顔で、そう言われた。

 疑いようもなく、彼女の喜ぶ顔を予想していた僕は、真逆の結果にみぞおちに風穴ができたような錯覚に襲われた。

 それから僕は恐れるようになった。

 人を好きになることが。

 いや、人の心が。

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