10.母への嘘
バイト先から家へ帰る途中。夕焼け染まる住宅街を歩きながら、僕は憂鬱な気分でいた。
日々、フラストレーションは溜まっていく一方であった。
バイト先の人間から好意を浴びるたび、心の中に泥がたまっていくような気がした。
「ああ、絵を描きたい」
自然と言葉が漏れた。バイト中は『フェイス』を起動させている。自分の口から己の気持ちが正直に言えることが、とても居心地がよかった。
夏休み中に絵を一枚仕上げたいと思っている。部活の方針とか、コンクールがあるわけではなく、自分で定めた目標だ。
家に帰り、そのアイデアを考えよう。
誰にも犯されぬ空間で、自分の内にある世界に籠るのだ。
しかし、その微かな願望すら、叶わなかった。
帰宅後、母に問い詰められた。どこから情報が漏れたのか、無断でバイトをしていたことが、バレたのだ。
「あなた、来年は3年生よ。バイトなんかしている暇なんてないでしょ!」
リビングにて、僕は甲高い声でそんなことを言われた。叱られることには慣れている。主に、絵を描くことに対して、いつも詰められる。向こうが一方的に喋り続けている時は楽だ。湿気た面で俯いているだけで、その場は成立する。
「――小遣いは十分にあげてるはずよ。どうしてバイトなんかしたの?」
だが、こちらが答えないといけない場合は面倒くさい。頭で言葉を考え、自ら口を動かさなければならない。自発的な行為は、労力が大きい。
なおかつ、僕にはその場が丸く収まるような言葉を思いつくことができない。いつも失言をしてしまい、相手を怒らせてしまう。僕としては、思ったことを口にしているだけなのに。なので、今回も「画材を買うため」と本音を言うため、口を開いた。
喉を震わす直前で、まてよ、と思った。
僕は「画材を買うため」と言えば、母が怒ることに気付けている。
気づいているのなら、当然ながら言うべきではない。
以前にはなかった気づきだ。
以前ならば、思うがままに口を動かし、母の機嫌悪くさせていただろう。
「…………社会勉強のため」
「え?」
「少しでも社会を知るために、考えた結果がバイトだったんだ。もう少しで僕も働く年齢になる。自分でお金を稼ぐということが、どのようなことなのか、身をもって体験しようと考えたんだ。僕がバイトをするのは、お金が目的ではなく、社会勉強が主な目的だよ」
僕は嘘をついた。嘘を、つけた。
母親は、目を丸くさせてから、頬を緩ませた。
「そうね。仕事をして、社会を知ることも大切よね。加地も加地なりに将来を考えているのね。頭ごなしに言って、悪かったわね」
そうして、母からの説教は、拍子抜けするほどあっけなく幕を閉じた。
母は、台所へと行き、夕食の支度をはじめた。その後ろ姿を目で追いながら、僕はどこか呆けたような気分で、自室へと向かった。
ガチャリ。バタン。
自室のドアを閉めると、僕は本当の意味で帰宅した気分になる。
さてと、絵のアイデアを考えねば。
机の引き出しからスケッチブックとデッサン用の鉛筆を取り出し、ベッドに胡坐をかいて座る。右手に握った鉛筆で、脳内のイメージを白紙のページへ黒く描きこむ、つもりが、右手はまるで動こうとしない。
心は、数分前の出来事に縛られていた。
久しぶりに、母の笑顔を見た気がする。
嘘によって得た母の笑顔は、どことなく空虚な手ごたえがした。
僕はそれでも、右手を動かした。
心赴くままに右手を動かすと、スケッチブックには先ほど見た母の笑顔が描かれていた。
いつぶりだろうか、母の似顔絵を描くなんて。
子供の頃なら、この絵を見せれば喜んでくれただろうが、今は違う。
自分が長年かけて積み上げた技術よりも、取り繕った言葉のほうが、母は喜ぶ。
「…………」
僕はスケッチブックと鉛筆を放り投げると、枕へと顔をうずめた。
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