6.勧誘02

 静寂。2人きりの空間が再び訪れる。居心地が悪くて首の後ろをさすってしまう。

 扉を閉めた新川ミコトが振り返る。だが、そこにミコトは居なかった。

「そんなに身構えないでおくれよ」

 彼女は笑っている。その笑顔に普段の愛嬌漂う完璧さはない。不快感を煽るニヤニヤ顔であった。

「アンタ誰だ?」

 僕は思わずそう聞いていた。確かに目の前にいるのは新川ミコトであるのだが、表情や仕草がまったくの別人であった。

 新川ミコトの皮を被った別人は、僕の問いに目を丸くした。

「ほう。流石の観察眼だ。鋭いね」

 嫌味ったらしい誉め言葉に、嬉しい気持ちは微塵も沸かなかった。

「そ、私は新川ミコトではない。私の身体はね、別のところにあって、ミコッちゃんの身体を借りてこうやって君と会話している」踊るようにくるりと一回転する。どうやら喋りだけではなく、体の所作もフィードバックされてるらしかった。

「自己紹介が遅れたね。私は前川千佐子。オーバー社の機械開発部に所属してます。よろしくね。青木加地クン」

 オーバー社、というワードを聞いて、若干ではあるものの心がザラつく。自然と心は臨戦態勢になっていた。

「そのオーバー社の人間が僕になんの用ですか?」

「アルバイトを頼みたい」

「アルバイト?」

「うん。これから夏休みだろ? その期間中に、どうだい? それとも夏はどこかへ旅行する予定でもあるのかな?」

 夏休み期間中の予定は、今のところとくにない。強いて言うなら絵を描くために部室へ通うくらいだろう。だが――

「そうです。忙しいです。なので、バイトは無理です」

 僕は嘘をついた。

 オーバー社のアルバイトなんて、したくはない。

「ふむ」千佐子は、目を細めた。何かを見透かそうとするように、僕をジッと睨む。

「加地クンは、いつも鉛筆でデッサンをしてるよね。どうして?」

 唐突な質問に僕は戸惑った。

「……デッサンは絵の基本だからですよ。練習しといて損になることは、まずない」

「ふむ」千佐子は頷く。

「でもさ、それにしては絵の具で描くところをあまり見ないね」

 心の奥がチクりとする。

「素人意見だけど、色彩感覚も磨くべきなんじゃない?」

 僕はさらに動揺する。千佐子の言葉が正しかったからだ。

 彼女は僕の元まで歩み寄ると、僕の手から、今しがた使っていたデッサン用鉛筆をひょい、とつまみあげ、舐めるようにいろんな角度から観察する。

「短いね。だいぶ使い込んでいるようだ」千佐子の視線が、僕の脇にある机の上へと移る。そこには硬さが違うデッサン用鉛筆が複数並べて置いてあった。

「どれも小指以下の長さだ」

 ニヤリとほくそ笑む彼女は、おそらく核心を得ている。なぜ、僕が絵の具を使わないのか。そして、デッサン用鉛筆を使い込んでいるのか。

「金欠、なんでしょ」

 僕は黙る。図星だ。

 画材は高級品だ。高校生の自分にとってはなおさら。筆にも種類があり、絵の具の色は無数にある。それらを揃えるとなると、必然的に金額がかさむ。

 それに絵を描くことに対して、親が協力的ではない。買ってくれ、と頼めば描くのをやめろ、と否定の言葉が返ってくる。だから、少ない小遣いを削って、画材を買うしかない。満足に道具をそろえることができない環境に僕はいる。

「世界的な大企業たる弊社。アルバイトと言えど、羽振りは良いでしょうなあ」

 千佐子がほくそ笑む。

 なにやら甘い誘惑に屈しそうな気がして、葛藤により、僕は歯噛みする。

「どうするんだい?」

 勝ち誇った顔が、どうしようもなく不愉快であった。

 迷うこと数秒。結論を出した。

「よくよく考えてみると、アルバイトするくらいには、忙しくない、かも」

 千佐子は満足したように「へへ」と気味悪く笑った。

「それじゃ、今週の土曜日。よろしくね!」

 勝手に土曜日に予定を入れられた。まあ、絵を描く以外の予定はないから問題はない。

 千佐子は「じゃあね」とニヤケ面で手を振る。ふりふりと左右に動く手がピタリと止まる。ニヤケ面が徐々に愛嬌のある柔和な表情へと変わる。

 千佐子から、新川ミコトへと変わったのだ。

 同じ顔であるはずなのに、同じ「笑う」なのに、目尻のたれ具合のせいか、口角の上がり具合のせいなのかは定かではないが、まったくもって180度、受ける印象が違った。

 新川ミコトの笑顔は、前川千佐子に比べて、やはりというかなんというか、見る人を魅了させる優しい笑顔であった。

 僕は表情の違いによる印象の差異に驚いていたため、呆然としていた。だから、ミコトに両手で手を包まれ、唇が触れるくらいの距離まで接近を許してしまった。そして、大変不本意ながら胸をときめかせてしまった。やはり美人はずるい。

「それじゃ、そういうことだからよろしくね。加地くん!」

「…………」

 ドキリとしてしまう自分が悔しい。

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