楽園の太陽

明日乃たまご

高速ステルス潜水艦 〝かいりゅう〟

第1話 会社員 ⅰ

 ――ブーン――


 潮風に乗ってハリナシバチが飛び込んでくる。そこは南太平洋の島国、ニューヘブン民主国。白いビーチを望む大東亜共栄商事の本社だった。日本国内では5本の指に入る商社の本社が小さな島国の2階建ての建物にあるのには理由がある。ハリナシバチに針がないように……。


 総務部長の福田竜一ふくだりゅういちは頭の上で舞う小さな虫に目を向けた。その羽音は耳障りだけれども、刺されるような実害はない。手にしたクリアファイルで追い払うと、虫は壁掛けテレビに向かって逃げた。それが止ったのは液晶画面、ちょうど、対戦者をにらむボクサーの赤いグローブの上だ。


 ――ウォー、……スピーカーからどっとあふれた歓声に驚いたのか、虫が飛んだ。


 画面の中で2人の黒人ボクサーが打ち合っている。6時間ほど時差のあるアメリカで、世界ヘビー級タイトルマッチが行われているのだ。チャンピオンは神の左手を持つというプエルトリコ人で、挑戦者は奇跡のフックを持つというフランス人だ。


 事務所で働く総務部員は20名ほどに過ぎない。日本人は福田ひとりで、他のスタッフの9割はニューヘブン人で、他にはインド人とフィリピン人がひとりずつ。2階には経理部があって、やはり20名ほどの社員がいる。


 殴り合いを前に多くの男性は目を輝かせているが、女性は違う。ジャニス・カーベー以外の女性は表情を曇らせていた。男性と女性……、そこに闘争本能の差異があるのだろうか?


「彼らはどうして殴りあうんだ?」


 福田は間抜けな質問を投げる。科学の進歩によって神は死んだ。拳の中に神や奇跡を見るのは人の弱さだと思っている。それを他人の口から聞きたかった。


「大金のためよ」


 いつも率直なジャニスが、殴りあう理由を言った。


「殴るのが好きなのでしょう」


 皮肉屋のフランク・カーベーはジャニスを殴る仕草をした。この国の国民の3割はカーベーだから、姓で呼ぶことは滅多にない。


「殴られるのが好きな奴もいるな」


 いつも事務所を和ませるトニー・ブッシュが言った。この国の2割は、ブッシュという姓だ。


「そんなのは殴られるのにメリットがある時だけだ。ボクシングでも戦争でも、やられる側になるのを喜ぶ奴はいないさ」


 フランクが拳を握って窓枠の影を打った。


「喜ぶわけではないが、やられると知っていながら参加する奴もいる」


「金のためだろう?」


「もちろん、そうだ。殴られる痛みより、手に入る金が重要だ。ボクシングだって戦争だって、金になるなら負け戦にだって手を挙げるさ」


 トニーが陽気に笑った。


 ボクシングも戦争も同じだというのか?……彼らから、神の話を聞くことはできなかった。彼らが言ったのは金の話ばかりだ。天国の島に住みながら……、そう考えると寂しい気持ちになった。眼を窓の外に向けた。


 銀色の太陽に焼けたビーチ。そよぐ風に穏やかな波……。白い水鳥が翼をたたみ、上空から青い海に突っ込んでいく。果敢にも……。


 宇宙や地球の歴史に比べれば、人類の歴史はとても短い。もちろん、鳥や魚の歴史でさえ……。人類の歴史の中でも、文明社会の台頭と発展の歴史は神のまばたきする程度の時間でしかないだろう。人は神を殺しながら、新しい神にぬかずいている。〝満足〟という感覚がそれだ。現代社会の感覚はエネルギーのように保存されることがなく増大するばかり。それは多くの場合、金品やサービスといった物質と行為の経済的効果によって構成されている。


 波間から姿を見せた水鳥のくちばしには、銀色に光る魚の姿があった。


 人類の変化に神は驚愕しているのではないだろうか? 己のわずかな油断の間に生まれて走り始めた人類の欲望がバベルの塔を築こうとしたことに。そして、その傲慢ごうまんいましめるために与えたはずの言葉の差異というリミッターをてこにして激しい対立をつくり、独自の思想と文明を増長させたことに。あるいは、繰り返される戦いが、青い地球とその世界を破壊し尽くしてしまいそうなことに。


 しかし、別な考え方もある。人類の文明とそれに付随する戦いは、神の実験なのかもしれない。人は、平和のために闘ったりはしない。それぞれの欲求や欲望を満たすために殺し合う。神は、それら全てを承知のうえで、その戦いの果てにあるものを観ようとしているのではないか……。大きな宇宙の中では、人類の戦いなど取るに足らない小さな実験なのだ。


 福田のいる場所は、本社といっても総務部と経理部しかなく、事務作業ばかりが仕事だ。業績を左右する意思決定は、世界各地の支社が行っている。従前は機能ごとに割り振られた役員の役割も地域別に変わり、全社の運命を左右する役員会議や営業会議は、バーチャルな世界で行われている。今や地理は、経営の足かせにならない。


 かつて、企業や資産家がタックス・ヘイヴンといわれる国家にペーパーカンパニーを設立し、収益や資産をそこに移して節税するのが流行った。大東亜共栄商事もその流れに乗ろうとしていた。ところが、そうした利益移転は脱税とみなされ、規制されるのが世界の潮流になった。


 大東亜共栄商事本社のニューヘブン民主国移転は、福田が企画部に在籍していた5年前に企画、実施したものだ。様々な規制から逃れるために、金融資産とともに実質的な事務作業とデータ管理業務をニューヘブンに移した。ペーパーカンパニーを使用した手法ほどではないが、賃金が安く法人税率の低いニューヘブンなら、一定程度の費用削減効果が期待できたからだ。


 そうした福田の提案に対する会社の見返りが、福田自身のニューヘブン本社勤務という左遷させん行為だった。


「本社機能確立まで3年、君が指揮を取ってくれ。本社機能が円滑に動き出したら、東京でもニューヨークでもベルリンでも、君の好きな場所に席を用意するよ」


 企画の検討時、社長は福田の手を握ってそう言った。


 日本では、来年のことを言えば鬼が笑う。まして世界企業の判断は、国際情勢によって刻一刻と変わる。1年先のことなど、計画はあっても思い通りになることがない。それにもかかわらず社長は3年先のことを言った。


 そんな先のことなど誰が信じるだろう。福田も信じなかった。だが、信じていなくても、従わざるを得ない。それが会社員だ。


 当の社長は、本社移転による利益倍増を成果として、莫大な報酬を得てさっさと退任してしまった。そうしてニューヘブン本社移転は順調に済んでも、東京にもニューヨークにも、福田が戻れる場所はなくなった。


 越してきたころには美しい海と空に喜んだ妻の千恵美ちえみも、1年も経つと刺激のないことに飽きて、文明から取り残されると焦りを訴えるようになった。


「もう3年は過ぎたわよ」


 日本に戻ることを催促する言葉が彼女の口癖になった。


「まだ、たった4年だ」


「3年の辛抱だって言っていたじゃない」


「会社にも都合がある。俺はこの島の暮らしも嫌いじゃないよ。つまらない駆け引きがなく、精神衛生には申し分がない」


 心にもない返事を返すのが常だった。


「ああ、俊哉としやに会いたいわ」


 千恵美はいつも同じことを言って福田の気持ちをえぐる。俊哉は日本にいる初孫で、もうすぐ2歳の誕生日を迎える。送られてくる動画を視るたびに、心は喜びと怒りでうずいてしまう。それは福田も同じだった。


「しばらく日本で遊んできたらどうだ。俊哉と飽きるほど遊んでくればいい」


「俊哉には会いたいけれど、萌奈美もなみさんがいい顔しないのよ」


 萌奈美は息子の妻で俊哉の母親だ。いつの時代になっても嫁と姑の確執はなくならない。それは神が人類に与えた試練なのかもしれない。


「気のせいじゃないのか?」


 気休めだが、そう言わざるをえない。自分の言動が、どこでどう独り歩きしてしまうかわからないからだ。もし黙っていたら、千恵美は自分の気持ちを正当化するために、夫も萌奈美のことを意地の悪い女性だと思っている、と息子や嫁にそれとなく伝えるだろう。


「あなたは鈍いからわからないのよ。可愛い顔して、萌奈美さんったら陰険なのよ」


 微妙な人間の行動をどのように解釈するのか、それは解釈する側の人間性の問題だ。解釈は、心のかがみなのだ。福田は妻の横顔に眼をやりながら哀しみをかみつぶす。


 そうしたやり取りが行われるから、家にいるよりも会社が落ち着く。それは中年男の宿命なのかもしれない。

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