第21話 竜の魂 〈2〉

 


「こんな……ひどい……」

 上層へと向かう間に、被害の甚大さが明たちにも伝わってきた。

 数々の尖塔が倒れ、無数の建物がその下敷きとなっている。街からは火の手が上がり、逃げ惑う人々や懸命に救助に当たる警ら隊や探索者、屠龍師たちの姿があった。

 医院は、〈館〉は無事だろうか。トワイライトやハルはどうしているだろう。それに今まで明が関わったこの街の人々は。

 焦燥感が胸を締めつけ、鼻の奥がツンと痛む。でも、今は泣いている暇なんかない。

 速度を緩めず飛翔し、二機は竜骨都市の上空へ到達した。

 渇いた風が空の彼方に向かって巻き上がっていく。その先にはどこまでも薄情な蒼穹が広がっている。空気は肌がひりつくくらいに張り詰めていた。

「あいつだ」

 ジャヤの視線を辿ると、明の目にも竜の姿が飛び込んできた。

 そこから徐々にスピードを緩めると、竜のいる方向へ近づいて行く。

 やがて都市の上空に渦をまくグロテスクな竜の姿が見えてきた。

 ジャオアオロンや蛟、明が今まで目にしたどの竜種とも異なるおぞましい姿。そう、まるで青黒く膨らんだ腐肉の塊。それは異界生物や迷宮生物のあらゆるパーツを掻き合わせて生み出されたかのような、醜悪な姿の黒竜だった。

 そいつは今はもう人々が退避し閑散としたバザールの上を舐めるように滑空し、何もないことが分かるとブレスを吐きながら旋回、破壊を撒き散らしては都市に肉薄するという奇妙な動きを繰り返しながら飛んでいた。

「何かを……探しているのか?」

「……でも、いったい何を?」

 明たちの目には黒竜が何かを探して上空を飛翔しているように見えていた。

 一方、眼下ではルシャの駆る〈黒き監獄守〉が胡を手近な鐘楼へと降ろしたのが視認できた。

 胡が結界を張るために意識を集中させ、呪文を唱え始めている。

 明たちは――というかジャヤは胡の結界が完成するまでやつの気を引かねばならない。

 竜の気配を前にしてもジャヤは怯む様子ひとつみせない。その眼差しには鋭い光が宿り、まっすぐに前を見つめている。

「会敵する。準備して、メイくん!」

「はい……!」

 竜が再び上空へと飛翔したのに合わせ、〈大喰らい〉は一気に距離を詰めた。

「……うっ……」

 だが、間近で目にする竜の姿は想像を絶する凄惨なものだった。

 腐肉の塊――明がそう形容したことは何も間違ってはいなかった。

 竜の体表はあちこちから腐りかけた人間の腕や足が無数に生え、臓物めいた鮮紅色の肉が露出し、膨れた身体がまるで蛭のようにぬらぬらと禍々しい光を帯びていた。地上に打ち上げられ、膨れた深海魚のように膨張した骨と肉で不格好な身体が形作られている。

 見かけから雌雄の判断は出来ない――むしろ雌雄の特徴をどちらも備えたアシンメトリーの竜だった。

「雌雄モザイク、か。こんな時でなければトワイのバカがいい検体が手に入ったと大喜びしたろうにな」

 雌雄モザイク。突然変異なのかなんなのか、一つの個体の中に雌性部分と雄性部分の両方が境界をもって存在している希少な個体のことをそう呼ぶのだ。それは明も知っていた。だが、まさか竜にもそのような現象が起こりえるとは。

「邪竜よ。てめえがいったい何を狙ってやがるかは知らないが、お遊びはここまでだ」

 とうとう〈大喰らいタオティエ〉は腐肉の竜の前に立ちはだかった。

 正面から竜の相貌と向き合った明は、しかし、何も言うことができなかった。

 黒竜の頭部には少年とも少女ともとれる人間の上半身が融合し、生えていた。

 明はその姿に見覚えがあった。

 朽ちた真っ白な髪の色も、ぎらぎらと光る淡紅色の瞳も、そして性別さえもかつての姿と〈反転〉しているが、あれは間違いない――白糸菊理。菊理だ。明のクラスメイトで、そして恋人だった愛しい少女。

「く、くり……? どうして……!」

「メイくん? きみ、あれを知って――」

 その時、ジャヤの言葉を掻き消す形で竜が咆哮を上げた。

 それは聴く者の胸を掻きむしるような、激しく狂おしげな呼び声だった。

『あ――、アァ――あっ! ああアあアアアっ! ああああっ! アキラ、アきラ、あキらくん、あきらくんっ! やっとみつけた、あきらくんだぁっ!!』

 菊理の上げる歓喜の声に竜が同期し、激しい雄たけびを上げる。

 歪んだ声はところどころにおぞましいノイズが混じっていたが、まごうことなく菊理のあの甘い声だった。

「菊理。なんで……どうして……おまえがこんな……」

『あきらくん! ああっ、あきらくんっ! その中にいるのね。くくりは迎えに来たんだよ。ちょっと時間がかかっちゃったけど、それにこんな姿しかできなかったけど、それでもいいの。さあ、元の世界へ帰るの。行こう、あきらくんっ!』

 歓喜の涙すら滲ませて、菊理のかたちをした何者かが叫ぶ。

 奴はこの街の中にある――他ならぬ明自身を探して旋回を繰り返していたのだ。

 伸べられていた菊理の腕がぞるり、と腐り落ちる。菊理が『ああもう、邪魔っ!』と言って頭を振ると、出鱈目に増殖する肉襞が再び不格好な腕を形作っていく。

『あは、あはははは! ほら、大丈夫、だいじょうぶ。なにも問題なんかない。菊理、ちゃんとあきらくんの大好きな姿に成れるから、ほら、ね!』

 竜と融け合う真っ白な裸体は少年のもの。だが、相貌は明らかに菊理そのものだ。

 ありえない。こんなこと、あっていいはずがない。

 そう思ったが、明はその考えを打ち消した。そうせざるを得なかった。

 自分がこうして〈転生〉し、生まれ変わったのだ。それはトワイライトたちの手による術のおかげだったが、だとしても菊理が、あるいは他のクラスメイトが同様に転生を遂げている可能性を何故今まで考えなかったのだろう。

 ――無事な魂魄や肉体を、きみという形でしか救えなかった。

 だが――そうだ。ジャヤはそう言っていた。だから例外などないと思っていた。皆死んでしまったのだと。

 それに、菊理の腰から下は竜だ。まるで人機融合を果たしたかのように竜と融け合った菊理の姿はどう考えても異常だ。

『ほら、ね、帰ろう。あきらくん』

「……帰るって……おまえ……なに、を、言って」

『なにって、学校、覚えてるでしょ? 図書室も、教室も、屋上も、ぜんぶくくりたちのものだったよね。映画館、図書館、くくりたちの家や近所のケーキ屋さん。また映画をみたり、本を読んで笑い合ったり、河原にねころがったりして、どうでもいいことをずっと話していよう。帰ろう。帰るの。あの世界に。くくりたちは、現世へ!』

 穏やかな笑みさえ浮かべて、菊理が此方へ両手を伸べる。

『さあ、いこう。あきらくん!』

 白い腐肉の両腕が痛ましい。ところどころ膨らんで、新たな指や腕の欠片が生えかかっているその両腕を、明は握り返すことなどできずにただ茫然と立ち尽くしていた。

 どのみち、菊理の手を取ることはジャヤが許さないだろう。だが、差し伸べられた腕に手を伸ばすことが堪らなく怖かった。そして、そんな恐怖を抱く自分を恥じた。

「ほだされるなよ、メイくん。あれはなんであれ邪竜なんだ」

「でもっ……あれは、あいつはどうみたって……」

「きみのともだち――ククリくんとは別物だ。邪竜は立ちはだかる敵の望む形をとってボクたちの心を乱そうとする。そういうふうに出来た存在なんだ。ボクだって……幾度も幻影を見てきた」

 眼前の光景に圧倒されながらも、明は必死に頷いた。

 黒い邪竜。あれはもう菊理なんかじゃない。

「おまえは……だって、おれの目の前で……」

 目の前で千々に引き裂かれたあの姿は忘れようもない。無数の肉塊となって虚空ではじけ飛んだ菊理の肉体。未だに悪夢に見る光景。

 しかし、それを自ら否定するように菊理は健気に微笑んで見せた。

『ああ、あのこと。それならもういいの』

「もう、いい……だって?」

『くくりね、とっても、とってもがんばったんだよ。寄せ集められた異界生物や死体の欠片、魂魄の欠片の中でぐちゃぐちゃになりながら、あきらくんのことだけを考えて、そうしてようやくこうして身体を手に入れた。に頑張って耐えたの。だからね、もう心配しなくていいの。くくりが明くんを守るから。あきらくんを元の世界に返してあげるから』

 行こう、と。彼女はなおも両手を広げる。違和感があった。

 あの人たちとはいったいなんだ?

 それに、明の身に起きた変化は不可逆の筈だ。結果として少晧明は死に絶え、今の〈転生体〉であるアキラがここにいる。

「でも……オレは……もう死んで……あっちには、もう戻れはしないんだ。戻れないんだよ、菊理。もうあの世界にはおれたちの居場所はない、どこにもないんだ!」

 これが精一杯の言葉だった。これ以上を口にすれば明の心が壊れてしまいそうだった。

「オレたちはあの時、あの日死んだんだ!」

 頭を振りつつ、明は菊理に言い聞かせるように叫んだ。

『あきらくん? あきらくんは、くくりを、ぼくを……否定するのっ!?』

「ちがう! そうじゃない。オレは……オレはおまえを助け」

『うるさい! うるさいうるさいうるさい!!』

 ぐわぉ、と黒竜が口を開け、ブレスを放とうとしたその時。

「――させませんよ!」

 狐狸精の本性を露にした胡の姿が大きく膨らんで聳え立つ。

 巨大な狐は両手を伸ばして菊理ごと邪竜を包み込んだ。

『邪魔をしないで! 菊理はあきらくんと――』

「皆さん、ここは僕が時間を稼ぎましょう。――〈縛〉!」

 狐の精霊は膨張を続けると、激しく抵抗する黒竜を無理やり飲みこみ、結界化した。丸いドーム状の結晶の中に黒竜が囚われていくのが見て取れた。

 千年を生きる空孤としての本性を出した胡の術――その真骨頂が眼前の結界というわけだ。

『間に合った、か……僕がこの結界を保っていられるのは長くて三時間ほどです。迎撃の準備は任せましたよ、皆さん』

 己の身を結界に変えた胡の言葉に〈黒き監獄守〉――ルシャが頷き返す。

『ジャヤ、アキラ……一度撤退だ。対竜迎撃都市を立ち上げ、竜胆党のメンバーを集めて指揮をとる』

「わかってる。けっ、薄汚ねえ邪竜野郎が……首を洗ってまっていな!」

 二機は旋回すると、その場から素早く離れ、街へと降下していった。

 明は身の内からくる震えと吐き気を堪え、なんとかその場に立っているだけで精一杯だった。

 菊理。亡くしたはずの明の半身。

 目の当たりにした光景の意味を理解してしまえば最後。明の心が砕け、内側から壊れてしまうだろう。

 突き付けられた過去。

 逃げ場などもうどこにもなかった。



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