竜の魂

第20話 竜の魂 〈1〉

 

 21


 ――あきらくん。


 明だけの闇の中で、甘く響く少女の声があった。

 今となってはあまりにも懐かしい呼び声に、明は一瞬それが何を意味するのかも思い出せずにいた。


 ねえ、あきらくん。

 ……あきらくんはくくりのこと、もう忘れちゃったのかな?


 くくり。

 そうだ、菊理。白糸菊理。

 ……忘れてなんかいない。忘れられる筈がない。

 今だって、いつだって、ずっと覚えている。オレの愛しい菊理のことを。

 甘くふんわりとした綿菓子のような匂い、そして声。風にたなびく赤いリボン。繋いだ手の感触。触れた指先。重ねた唇の温かさ。その体の内側にある秘密の場所までもがありありと思い出されて堪らなくなり、明は漸くその名を叫んだ。

「――菊理!」

 込み上げる狂おしさから、闇を掻くように気配の方向にむかって手を伸ばす。

 と、白い腐肉のような細い腕が闇の奥から伸びて明の腕を掴んだ。

「うっ!?」

 思わず腕を引っ込めようともがくが、身動きが取れない。

 気がつくと無数の腕によって明の身体は絡め取られていた。


 ――もうすぐよ。


「――!?」


 ――くくりはもうすぐあきらくんを見つけにいくから、だから、だからね……邪魔するひとたちはみぃんな、くくりが殺してあげるから!


 転瞬。

「あ――、あ――」

 明は粘つく血の海の中に一人で立ちつくしていた。

 周囲には、ジャヤ、トワイライト、ハルにルシャテリエライト、胡が、仲間たちが血や臓物をぶちまけて倒れている。皆死んでいる。殺されてしまった。

 震えながら掲げた自分の両手は血に塗れている。

 ああ。オレのせいだ。

 オレのために彼らは死んだんだ。

 背後から現われた白い肢体――菊理の身体が明を抱き寄せて、囁く。


 ――ほら、ね。

 あきらくんがいけないんだよ。弱いから。あなたがとっても弱いから。


「オレが、弱いから……?」


 ――だって、あきらはくんはくくりを助けてくれなかったじゃない。

 そんなあきらくんが、みんなを守れるわけがないじゃない。

 ねえ、あきら――


「――ひぐっ!?」

 悪夢から引き千切られるようにして目を覚ますと、アキラは勢いよく身を起こした。鼓動が早鐘を打ち、息が上がっている。

 深淵のより深くへ墜ちていくような恐怖がまだ胸のあたりに残っていた。

「……ん。アキラちゃん、どうかした?」

 隣で眠っていたトワイライトが目を覚まし、明の方へ視線をくれていた。その眼には純粋な気遣いの色が浮かんでいる。

「こわい夢でもみた?」

「……なんでもない」

「あれぇ、本当かな~? だいぶうなされていたようだけどォ?」

「……だったら起こせよ」

「ごめんね。ちょっと迷っているうちにアキラちゃんの方が飛び起きたからさァ」

 伸べれらた手が明の背中をさすってくれた。温かくて乾いた大きな手の感触が明のそそけた気持ちを落ちつかせた。

「修行や館でなんかあったの?」

 明はほんの少し迷って、本音を口にした。

「いや……本当は……ここのところ夢見が悪い」

 そう告げれば、トワイライトは興味深げな顔になる。

「ふうん。どんな夢を見る?」

「おぼろげにだけど……昔の、いや――オレの居た世界のひとたちのことを夢に見る。……それで気づいた。最近、オレはあまりあの頃を思い出すことがなくなっていた」

「そりゃ、まァ……そう悪いことでもないと思うけどね。アキラちゃんだって修行やなんかで忙しいだろォ? それは今が充実してるってことじゃない」

「……おまえの言う通りだ。だからこそ、余計に罪悪感があるのかもしれない。今が……きっと楽しくて、大切で尊いから……」

「なになにィ、今夜はやけにかわいいこと言うじゃなァい?」

「……別に、かわいくなんかない」

 結局、この男を相手にすると言わなくてもいいことを言ってしまう。

 心の奥底にある、本心を口にしてしまう。

「おまえのことだって、オレは……本当はそんなに……きらいじゃない、し……できれば、その……いっしょに居たい。まだ、いまのところは……」

「素直にずっとって言ってよ」

 起き上がったトワイライトは明を抱きしめると唇にキスをくれた。温かく湿った舌先が明の口内で吐き出されずに蟠っていた想いを攫っていく。

 そうだ。オレは前を向いて歩いていかなくてはならない。ここで生き続ける限り、ずっと。

 明がくちづけに応えると、トワイライトの手が夜着を引き剥がしていく。

「昨晩の続き。シよ?」

「……ん、く……腹の中、まだ熱い、から……その……するなら……やさしく、しろ」

「それはアキラちゃん次第かなァ?」

 ほんの少し抵抗してみせるアキラの首筋に、肩に、トワイライトが唇を滑らせてゆく。

 胎の奥には昨夜の行為の名残がまだ熱をもって残っている。言葉も想いも、今は体温に蕩かして忘れてしまおう。今だけは。

 明はトワイライトの愛撫に身を任せると、もたらされる快楽にすべてを委ねていった。


 §


 竜骨都市・黒数は夏の盛りの中で中元節――死者の霊魂を偲ぶ時節を迎えていた。

 鬼月と呼ばれるこの時期は、冥界の門が開き、死者の魂がこの世に戻り彷徨う季節だという。

 そこで街では燈籠を吊るし、供物をささげ、死者の魂を慰める行事を大々的に行うのだそうだ。

 其処此処で焚かれる香の匂いに、あるいは賑やかである筈の街に漂う寂寥感に、明も日本の盆に似たものさびしさを感じていた。

 それでも竜骨市骸区第三層・紅劃まで下ると、だいぶそれらの感覚も薄れ、いつも通りに探索者や迷宮商人たちが活動している姿が目に入る。

 事務所裏の空き地で、明もいつものように一人前の屠龍師になるための鍛錬に励んでいた。

 午前の基礎訓練を終えた明は、昼休憩をはさんで、午後の応用訓練へと移る。

 すなわち――

「さあ、メイくん。どこからでもかかってくるといい」

 数メートルを隔てて、明はジャヤと対峙していた。涅姫と猩々花、一対のナイフを構えた明は、対して何も構えていないように見えるジャヤを真っ直ぐにみつめた。

 悠然と構えてはいても、隙は――ない。

 だからといって闇雲にかかっていくほど、明ももう愚かではない。まずは間合いを保つこと。そして走法。呼吸。身体の隅々にまで気力を張り巡らせる。

 刹那、ジャヤの姿が掻き消えた。同時に明も動く。瞬きひとつする間もなく両者は激しく打ち合った。

 剣光がたばしる。

「踏み込みが甘い。殺意も薄い。ボクを本当に殺す気でこないと死ぬよ?」

「お師匠さまこそ、あまりわたしを見くびると痛い目にあいますよ」

 明は背後に飛び退くと再び間合いをとってジャヤと打ち合う。くるりと身を翻し、互いの位置を入れ替えながら、身体を、腕を、脚を、刃を繰り出し、少しずつ勝機を手繰り寄せていく。

「ふっ!」

 と、弾かれたように顔をあげたジャヤが虚空に目を瞠る。

 ジャヤにしては奇妙な仕草だ。

 なんだ? なんのつもりだ? だが構うものか。やってしまえ!

「隙あり!」

「あっ」

 明の一撃がついにジャヤの短刀を砕いた。砕け散った破片が光を反射しながら地に落ちる。だが、ジャヤはそれを一顧だにすることなくふたたび空の方向を――上層に聳える積層都市を睨む。

「お師匠、さま……?」

「……来る」

「くるって、なにが……」

 その様子をさすがに訝しく思った明が立ち上がったときだった。

 ごぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん――。

 爆轟。そして激しい揺れが襲いくる。

「う、わッ!?」

 再び、爆轟。辺りの建物の屋根瓦が崩れ落ちて割れ、地面には亀裂が入る。でも、そんなことはたいした問題じゃなかった。

 明たちの頭上、積層都市の一部が崩れ、下層の――ちょうど此方側へと墜落し始めているではないか。ぱらぱらと都市の欠片が降り注ぎ、大きな石までもが降り始めている。

「なっ、あ……これはいったい……」

「〈大喰らいタオティエ〉、降臨せよディセント!」

 転瞬。現われた真紅の機体が明とジャヤを取り込み、〈紅燈籠ホンタンロン〉の事務所を庇う形で立ち塞がった。

 一拍遅れて崩れ落ちてきたいくつもの瓦礫の塊が明の視界を黒く塞いだ。


 22


 赤い機体。〈大喰らい〉の中で目を開ければ、龍機融合を果たしたジャヤと自分の姿が確認できた。いつかトワイライトの〈這いずり姫〉と融合を果たした時と同様、おぞましい血肉と触手に身体が覆われている。

 視線を――意識を外の景色に向ければ、瓦礫の山と〈大喰らい〉によって守られた――けれども半壊した事務所の様子が目に飛び込んでくる。

 中には胡とルシャがいるはずだが、無事だろうか。

「やれ。間に合ったと思いたいんだけどね」

「お師匠さま、いったい何が……これは……こんなことって」

 明よりも早く、ジャヤは何かの気配に気づいていたようだった。

 宝玉に手を触れ、〈大喰らい〉の姿勢を保ちながら、ジャヤは上層よりはるか上の空を睨んだ。

「竜の仕業だ。上空に竜がいる」

「なっ――」

「市骸区表層が攻撃を受けたために、先ほどの揺れと崩壊があったんだろう」

「そんな……竜、が……襲って?」

 衝撃的な言葉に、明の身体が竦む。

 竜への恐怖は明がこちらへ召喚された直後からずっと植えつけられたままだ。それでも、その恐怖に抗いながらここまできた。だから、この先何が起きてもきっと生き残る。そう思ってここまできたのだが――。

「ジャヤ!」

 と、事務所の裏口から出てきたルシャテリエライトと胡が此方を見上げている。埃を浴びて煤けてはいるが、無事なようだ。

「上層が竜による襲撃を受けています。派閥や年齢は不明。今朝まで反長老派ならびに反親和派の竜や竜人たちが動いているという情報はありませんでした」

 胡の言葉に頷き、ルシャが続きを引き取る。

「都市外部、あるいは地下迷宮から飛来した邪竜の類と見ていいだろう。これより上層に向かい、対龍迎撃態勢を敷く。――〈黒き監獄守ビィアン〉よ、来たれ」

 ルシャの呼ばわりに応えて現われた巨大な黒い老虎が跪く。

 ルシャがそれに向かって頷きかければ彼女の姿が掻き消え、老虎が意志を得たように動きだす。その手のひらに胡が飛び乗った。

〈黒き監獄守〉。この黒い屠龍機を明も何度か見たことがあるが、これがルシャのものであることを直接は知らずにいた。

 獣のように流麗なフォルム。ルシャ本人の機動性の高さを生かすために無駄をそぎ落としたかのような機体であった。

『ジャヤ、お前は胡が結界を張る際の囮となれ。吾輩は市民の避難を誘導する』

『わかった。行こう!』

 二機は竜骨市骸区表層へと飛び立った。



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