第18話 死の凪 〈2〉

 


「……トワイ、ライト?」

「えーと……きみ誰だっけェ? アキラちゃん――」

 二階病室。

 明の顔を見るなり、ある意味鉄板のネタを披露したトワイライトは全員からくまなく殴られ叱り飛ばされた。

 再び死なずにすんだのは転生直後であり、前衛であるルシャとジャヤが本気で叩かなかったためだろう。彼らが本気を出せば今の無防備な状態のトワイライトなどひと捻りで死んでいる。

 明は心臓を潰されそうな思いを一瞬だけ味わい、自分の名前を聞いた瞬間にその場にくずおれてしまった。

「……おまえは、本当に最低で最悪だ」

「もちろん、知っているよ」

 怒りと共に吐き出そうとした言葉は、結局涙と一緒にぽろぽろと零れ落ちてしまった。

「ククッ。ほんと、アキラちゃんは可愛いよなァ?」

 寝台の上に身を起こしたトワイライトはいつもと変わらず妖艶な笑みを浮かべてそうほざいたのだった。

 〈転生〉したトワイライトの外見は概ね以前と変わりなかった。ただ黄昏色の髪は色素が抜け落ち、アッシュグレーになっていた。精気を失っただけで、放っておけばやがて元の色に戻るというが、あの艶やかな色が失われてしまったことが明には惜しく思えた。

 それに食いちぎられた臓物や半身をどう補い、繋ぎ合わせたのか。そして明が突き刺した心臓は――その命はどうやって転生させることができたのか。疑問は尽きない。だが、それを知ってしまえば本当に後戻りができなくなる。そういう恐怖心もあった。

 転生の本質について知ることは今の自分の正体を暴くことにもなりえるのだ。

 明にはまだそれだけの覚悟がなかった。時間と、そして真実を知るための強さが必要だった。

「ともかく、一日二日は絶対安静ですからね?」

「わかってるってェ」

「どうだかな。おまえのことだ、もう余計な心配はしない。勝手にやればいい」

 胡が念を押し、ルシャが深い溜息とともに言葉を吐き出す。

「……そういえば、あの人……お師匠様が連れてきた医術士さんは?」

「ああ、あのひとはちょっと多忙でね。もう地下へ戻ると言って出ていった」

 施術を終えた医術士と思しきあの人物は既に帰ってしまったという。

 代わりに胡が「そういうことですので、くれぐれも見張っていてくださいね。アキラ」と付け足した。

「ともかく、我々は蛟を打ち倒し、トワイライトも無事に〈転生〉を終えた。今後の問題はいくつか残ったままだが、皆疲れているだろう。今日のところは解散にしよう」

「あの。妾は今夜はここに残――」

「ハルはボクが送っていくよ。君は戦闘に転生医術と力を使いすぎだよ。ある意味ではトワイライトよりも休養が必要なのは君だ、ハル」

「……む、うぅ……でも」

「もしキミが倒れても、今夜この病院には怪我をしたクソ呪医と医術はできないボクの弟子しかいないんだけど?」

「くぅ……わかったのじゃ……。しかし何かあったらすぐに呼ぶのじゃぞ? 約束じゃからな!」

 ハルは名残惜しげな顔になった。しかし同時に深く安堵したようにも見えた。

 玄関先で疲労からよろめいたハルを背負うと、ジャヤはその場を後にした。そのまま館へ送っていくのだろう。

 明はジャヤにも何かを――たぶん「ありがとう」と言いたかったが、ジャヤはその隙を与えてはくれなかった。おそらく、そうさせまいと意図的に避けられたのだと感じた。

「では、アキラ。あとは頼みましたよ」

「トワイライト、あまりアキラに無理を言うなよ。アキラ、此度の働きは見事だったぞ。また後日話をしよう」

 皆が待機していた部屋の片づけを終えたルシャと胡もそれぞれ医院を後にし、帰路についた。

 トワイライトと明は病室に二人きりになった。

 明としては突然おいてけぼりにされたような頼りない気分だった。

 だが、みんなが気を利かせてくれたこともわかっていた。だから、自分から踏み出すことに決めた。

「……そっち、いっていい」

「ン。どうぞですよォ?」

 明は寝台の上にのると、トワイライトのほうへおずおずと這い寄り、太腿にのしかかる形で向かい合った。

 黄昏色の瞳が間近から明を見つめている。仄暗く渦巻く瞳はしかし明をやさしく捉えていた。今まで考えたことなどなかったが、この男はいつもこんな慈しむような眼で自分をみていたのか。

 ……オレは、本当になにも知らなかった。知ろうともしなかったんだ。

 自分の身に起きた不幸。そのありったけの憎しみをこいつに押し付けていた。でも、それさえ知った上で憎悪もなにもかも引き受けながらトワイライトは明の傍から離れなかった。

 すぐにでも謝りたいと思った。だが、それはエゴだ。全部吐き出してしまえば明だけが楽になって終わりだ。もうそんな真似はできない。明にだってそれくらいは既にわかっていた。

「……トワイライト」

「なになにィ、今日は近いじゃん? 甘えモード? それとも甘やかしてくれるの?」

「……うるさい」

 自分がこんなに真剣になっているのに、この男ときたらやはり軽口を叩いて茶化そうとする。こうしていつも明のペースには合わせてくれない。

 怒りと羞恥を堪えながら、明は手を伸べ、トワイライトの胸に触れた。ちょうど心臓の真上の位置だ。緩めの患者衣を着ているために、薄く残った傷痕が視えて分かった。言わずもがな、明がつけた刺し傷だった。

「やっぱり、痛むものなのか?」

 自分のときは術後は全く違和感なく過ごせたことを思い出す。あれさえトワイライトの業あってのことだったのかもしれない。ただ、転生にはかなりの苦痛が伴うことは容易に想像がついた。

「あーコレ? 傷はたしかに心臓に達していたけど、今は全然。いや、少しは疼くかな?  アキラちゃんったらけっこう激しいんだもん」

「……そういうのいいから」

 触れた指先に、確かに脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。ゆっくりとした拍動はちっとも動揺などしていないことを伝えていて、明としては少し悔しくて、怨みがましく感じる。

 だけど、生きている。トワイライトは生きている。その命の期限を二つに縮めてしまったが、ともかく今回は生き延びたのだ。

「……よかった、おまえが生きていて。オレのこと、忘れてなくて」

 鼓動に触れて、初めてそれが実感できた。

 明は偽らざる本音を零していた。

「まだ殺し足りないって?」

「っ、そういう意味じゃない。今のは……その、忘れろ」

「どっちなんだよ」

 淡く微笑んだトワイライトは、明の銀髪に指を絡め、愛しげに撫でた。

 窄められた瞳は明越しに他の誰かを見ているようで、それが少しやるせなかった。

「アキラちゃん。そんな無防備な表情してていいわけ?  そろそろどかないと襲っちゃうよ」

「……襲いに来たのはオレの方だ」

「は? なにそれ、冗談――」

 トワイライトが全て言い終える前に、明は自分からトワイライトに口づけていた。

 顎と頬に手を添え、小さな口でもって男の唇を食み、懸命に愛撫していく。明にとっては、心づくしのキスだった。

「ンっ、く……ん」

 深く、しっとりと、次第に激しく口づける。トワイライトがいつもそうするのを真似て、今度は明がこの男を挑発し、肉の内側から本心を探っていた。絡み合う舌は熱く濡れて、綯い交ぜになる唾液は甘い。トワイライトが呼吸を求めた瞬間に攻め込んで、それすら奪う。

 トワイライトは明の腰に腕を回し、髪に指を絡ませて頭の後ろを抱えた。明もトワイライトの胸に両手をついて、長い口づけに興じた。互いの口腔を犯し、舌先で挑発しあうような淫らなキスだった。

 唇を離せば二人の間に唾液が糸を引いて落ちた。それでも名残惜しくて、明はトワイライトの胸の傷痕に幾度も口づけた。

「アキラちゃん、どしたの。アキラちゃんからこんなふうにしてきたのって初めてだろ?」

「おまえを殺してみて初めてわかった。おまえはたしかにオレから全部を奪って、犯して、好きなようにしてきた最低男だ。でも、オレは……今のアキラはおまえのことがそんなに嫌いではないみたいだ」

「なにその殺し文句」

 明は服の帯を解き、新雪のような肌を晒した。着物を肌蹴て、ぜんぶを脱ぎ去り、裸になった。

 薄い胸はわずかに冷たい空気で桃色の先端が隆起している。細く華奢な腰にしなやかな四肢。花びらのように溢れる星屑色の髪。今の明の全部をトワイライトに見せつけていた。

「どう見える?  この世界のオレは」

 それはいつかと同じ問い掛けだった。

「……アキラちゃんは、アキラちゃんだね。おれが請い願うまま、欲望のままに造りだした」

 トワイライトもまたいつかと同じ答えを返してきた。だから続く言葉も同じだと思った、が。

「――けれど、それ以上の存在になることを、きみは自ら勝ち取った」

 満足なんかするわけはないけれど、悪くはない気分だった。

 少なくとも、一晩くらいこいつにくれてやってもいいと思えるくらいには。

「……そうだよ。オレはアキラだ。アキラ=マシロだ」

 アキラは更に一歩踏み込んでトワイライトの腰に跨ると、自分の一番柔らかな場所で円を描くように腰をおしつけた。明の中に押し入ろうとする屹立を確かに感じた。布地越しにもほんの少しだけアキラの濡れた柔肉を割って入っている。

「っ……精気、足りてないんだろ。転生したばっかで」

「だからってアキラちゃんが無理にしなくても」

「おまえは無理やりしただろうが。今だってこんなに硬くしやがって、全然カッコついてない。発情しっぱなしの獣みたいだ」

「たしかに好き勝手嬲ったことは認めるけどさ。なにもこれはアキラちゃんが無理してやることじゃないだろ」

「なにそれ。バカなの。そっちは好きにしておいて、こっちからはお断りかよ。それとも……嫌、か?」

 腰を緩く動かし、服の上からトワイライトを責め苛みながら、真剣に問う。

 無様だと思ったけど、必死だった。贖罪でも断罪でもない。明は目の前の男が欲しかった。今は――今だけは自分のものになってほしかった。

 そのためなら、この世界に生まれ変わった自分の体を使うことだって構わなかった。

「……嫌なワケあるかよ。でもアキラちゃんはおれが憎いンだろ。きっとこの先もおれを憎んだままになるだろうがね。それでも、堕ちるならどこまでも一緒に堕ちてやるよ」

「うん」

 伸べられた両腕がアキラの体をぎゅう、ときつく抱き竦めた。知っている体だと思った。オレが、オレ自身が覚えている体。

「トワイライト……」

「……アキラちゃん」

 熱く硬いものが腹に当たっている。アキラはトワイライトの腰帯を解いてしまうと、ほんの少し尻を浮かせて徐々に屹立を自らの体内に受け入れてゆく。

 鈍い痛みと、痛みではない疼きを感じた。今でも自分の中に入られる感覚は怖い。震えながらもゆっくり腰を下げていくと、竿に擦りつけるように明の尻を揉みしだいていた手の動きが緩んだ。

「……悪い。ちょっと、もう限界。だから手伝ってやるよ、アキラちゃん」

 明の尻を五指で掴んだトワイライトが一際強く秘所を貫いた。

 下から攻め立てられて軽く達してしまいながらも、明は自分の意志で腰を絡ませ、トワイライトの上で腰を振った。

 穿たれ犯し上げられて、激しく善がる様を見られることすらどこか愉しんでいた。耳元に、首筋に胸に、全身にトワイライトが口づけをくれた。

「っい……ぃ」

「痛、む? アキラ、ちゃん」

「……き、もち、いい、か? ぅあっ、オレ、の、から、だ」

 胎の奥底を苛む快楽に蕩けながら、精いっぱい問いかける。突き上げてくる快楽は背骨を抜けて、脳髄へと伝わり、明を焦がす。思考が白くかすみ始めている。痛くて、甘くて、どうしようもなくて。抑えることなんかできない。同じ感覚をトワイライトにも感じていてほしかった。

「なん、で……そんなこと、聞く、の?」

「オレ……で、よく、なって、ほしいから……だから」

「孕ませた、くなる、くらい、いい」

「うれ、し、い」

 明の体を包み込むように抱きしめ、トワイライトが口づけをくれた。その動きが徐々に細かく、痙攣するように変わっていく。

 奥底に吐き出される熱が溢れ、明を満たしていった。

 トワイライトが一度果ててしまうまで明は懸命に腰を動かし、陰気を搾り取った。互いを貪り合うような情交は夜明け前まで続けられた。


 20


「それでは。蛟討伐とトワイ先生の回復を祝して、乾杯!」

 胡が音頭を取り、全員がグラスを打合せて乾杯した。

 晴れた休日の昼下がり。

 明を含めた竜胆党の六人のメンバーは、医院の屋上に設けられた即席のテーブルを囲んでいた。銀月迷宮で話題になった昼食会を実際に開いたのである。

 蛟退治の後始末に追われながらも、明はそれぞれに話を持ちかけた。食事に招待したいと素直に申し出れば、皆喜んで参加の旨を伝えてきた。

 明はトワイライト宅のキッチンと胡の手を借りて、今まで焼いたこともないくらいに大量のホットケーキを焼いた。それにサラダをかなり多めに用意し、トッピングのフルーツやクリーム、叉焼肉、魚介類を盛りつけてテーブルに並べた。

 出来はまあまあ――というか、出来る範囲で精一杯やった結果が眼前の光景である。陽光の下で取る食事は特別感があるが、屋上という環境に助けられ、どうにかそれらしい席を用意することができた。

「えと、皆さん……って改まって言うのも恥ずかしいですが、沢山用意したので……その、遠慮なく食べてもらえたら嬉しい、です……」

 恥ずかしいことに語尾が震えている。手料理をふるまったことは殆どないに等しい。菊理や家族、そしてほぼ自分のために食事を作ったことくらいしかない。だから迷宮探索のときとは違う緊張感があった。

 果たして自分の世界の料理が仲間の口に合うだろうか、そうでなくてもこのささやかな――ささやかすぎる席を楽しんでもらうことができるだろうか?

 しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。

「これがホットケーキとやらか。何を挟んでも載せてもいいのか?」

 ひげ袋を膨らませ、大きな翡翠色の瞳を輝かせたルシャが真剣な表情で問うてきた。その手には既に白い皿とトングがスタンバイ済みだ。武器を扱うのと同じくらいさまになっている。

「はい。その……クリームもフルーツも野菜も、シーフードとか肉も用意してみましたが……基本的にはルシャさんの好きなものを好きなようにのせて食べてみてください」

「そんな……そんな背徳的なルールが存在していいのか!? まるで終わりがないじゃないか! おまえのいた世界はどうなっているのだ!? 飽食か!? 飽食の時代なのかっ!?」

「え、と……わたしはルシャさんの辿った食の遍歴のほうが気になるんですけど……」

「アキラ! こっちの薄い皮は何じゃ? やたらぺったらぺったらしておるな?」

 ホットケーキよりも薄いクレープの生地をつまんだハルが興味津津の体で寄ってくる。

 やはり彼女の紫色の双眸にもきらきらとした眩い煌きが宿っている。

「えっと、一応クレープという食べ物の生地を意識して焼いてみたんだけど……そっちも好きなものを巻いて食べてもらえるとうれしい、かな」

「アキラよ。おぬし、これがどういうことかわかっているのかえ?」

「え、え……?」

「ルシャ、アキラは悪魔じゃ! どうしようもない性悪なのじゃ! こんなのっ、こんなの全種類載せたくなるに決まっておるではないかっ! 妾が食べ過ぎて館に出られなくなったらどうするのじゃ!」

「ああ。まったく――今後のアキラに対する認識を考えなおさねばならぬな」

「えっ割と頑張ったのにちょっと不名誉なんですけどっ!?」

 女二人の結束は固く、そしてその食に対するこだわりは殊更に熱かった。フルーツの組み合わせはこれがいい、いや叉焼やソーセージと野菜もいけるなど、明としても食欲をそそられる談義が交わされ、具材が次々と消費されていった。

 しかし、やはり生地を大量消費したのはジャヤだった。さらに数ある具材の組み合わせから数多の禁忌を平然と犯し、隣で目撃していたトワイライトの食欲を削ぐという所業も成し遂げていた。

 ジャヤ本人はどんな組み合わせも気にすることなく、驚くべきハイスピードで食材をどんどん平らげていった。

「甘いものと塩気のあるものが両方あるのは困るね。手が止まらないし、無限にお皿に盛るのを繰り返してしまうよ?」

 と、言っている傍から食材が消えていく。

「ほら、トワイライト。病み上がりなんだから沢山食べなよ? こっちのお肉は最高だよ」

「うぇぇ……おれはもう酒だけでいいよ」

 ジャヤの生み出した悪魔の所業――食の暴力(生クリームと生魚肉サンド、サラダフルーツ全種盛り)を目の当たりにしたトワイライトは青ざめた顔をして酒杯をちびちびと舐めている。

 新たな〈転生〉によってその命をひとつぶん使ってしまったトワイライトだが、本人はいつもと変わらぬ様子だ。体力や気力も回復し、通常通り医院で闇医者稼業をがめつく営んでいる。

 ただ、その命の期限はあとふたつ。この世界の特殊なルールのことを思い返して考えるたび、明はふと不安になることがある。

 そもそも、トワイライトがここまで命を削って生きてきた理由をまだ明は知らない。そしてこれからもこの男は生に無頓着なまま生き、そして死んでしまうのではないかと思えてならなかった。

「ンー? なにィ、アキラちゃん。どしたの。そんなにおれのことが好きィ?」

「……うるさい。死ね」

「せっかく生きかえったってェのに問答無用でその対応かよ」

 しかし、明が何を言ってもめげないトワイライトは無理くり明を抱き寄せ猫かわいがりしてくるだけだ。

 でも、多分気づいている。明が何を考えているか気づいていて、わざとやっている。明もまたそのことに気が付いていた。

 少しでも踏み込みすぎたら最後、薄氷の上にふたりの関係性は成り立っている――。

「おや。アキラ、もう生地がなくなってしまいますよ。どうします?」

 今日は人間の姿で現れた胡が、空になりかけた皿をさした。ちなみに狐の姿をしていない理由は人間の多い竜骨都市の表層部に出てきたことと、なにより人の姿のほうがより多く食べることができるからという食い意地によるものらしい。

「みんな、まだ食べたいみたいですし……わたし、追加分を下で焼いてきます」

「手伝いましょうか」

「……はい。それじゃあ、お願いします」

 ホットケーキにクレープ。その追加分を用意すべく、明は医院の台所に戻って生地を焼くことにした。一人では手が回らないので素直に胡の厚意に甘えておく。

 予め冷蔵庫に用意していた生地を取り出し、中火で熱したフライパンに流して焼いていく。

 明がホットケーキ担当で、胡はクレープを焼くという。手先の器用な胡はすぐに焼き方をマスターしてみせ、後は明が指示を飛ばさずとも滞りなく調理をすすめていった。

 香ばしく、甘苦い香りがキッチンに漂い始めた。屋上では宴が相変わらず続いていて、わいわいと騒がしい声がここまで届いてくる。

「今日はいい日ですね、アキラ」

「そうです、かね? そうだといい、ですけど……」

「僕はみんながあんなに楽しそうにしているのを久しぶりに見ましたよ」

 零れた生地をぺろりと舐めて――それでも十分に上品に見えてしまうところが少し憎たらしいが――ふと思い出したように胡は言った。

「あなたが来てから、きっと……たぶん初めてだろうな」

 自分たちがしでかしてしまったことの責任を取る。

 巻き戻しのきかない失敗。失われた数多の命。

 彼らもまたその重みを背負うべく、戦っていたのだ。逃げることもせず、ただひたすらに。

「……そうですか」

 涼しげに言ってやったつもりだった。けれど、所詮は無駄な抵抗にすぎなかった。

 甘苦い香りが胸いっぱいに広がって、どうしようもなくて。明はぽろぽろと涙をこぼしていた。

 明から全てを奪って転生させた皆が憎くて大嫌いだった。その筈だった。

 だから屠龍師見習いとしてジャヤに弟子入りをして、全て奪ってやると決めた。九つ命があるのなら、その全てを殺して、殺し尽くすまで――。

 でも、こうして少しずつ彼らのことを知ってしまって。

 互いに命を預け、預けられながら必死に生き抜いて。今日なんか暢気に昼飯を全員一緒に食べている。

 こんなことがあって、どうして平気でいられるだろう。

 こんなことがあって、どうしてみんなを殺せるだろうか。

「ほら、いけない。真ん中が焦げてますよ。アキラ」

「……いい、です……失敗したのは、ぜんぶトワイライトに出す、から……」

「僕のクレープは上手く焼けてますけれど。いい匂いでしょう」

「……はい」

「そういえば、アキラは全然食べていませんでしたね。どうせなら少しつまみ食いしてしまいましょうか。ほら、お口を開けてくださいな」

 焼けたばかりのクレープに絞り立てのホイップクリームだけ盛ったものを胡が差し出してくる。ふわふわのクリームが今にもとろけて落ちてしまいそうだ。どこか懐かしい砂糖と卵の匂いがした。小さい頃、縁日の屋台で嗅いだような、あの安っぽいけれど誰にも真似できないような特別な香り。明は思い切りそれを頬張った。

 涙の鉄くさい味と甘苦いクレープの味が口内で混ざり合って、いままでにないくらい美味しかった。

「どうでしょう。僕はけっこう君の世界の味を完璧に再現できていると思うのですが?」

「……胡さんは、やっぱり狐狸精なんですね。わたしを化かすなんて、少し狡いですよ……」

 胡はニタリと狐らしく微笑んだ。

「それは僕にとっては最高の褒め言葉だなあ」

 きっと、彼らには明の野望も欲望もなにもかも挫かれて、奪われてしまうのだろう。こうして与えられ続ける限り――。

 何度生まれ変わることができたとしても。



 第五話 了


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