死の凪
第17話 死の凪 〈1〉
18
ただ、熱かった。
熱い血潮を全身に浴びて、明はその場に立ち尽くしていた。
熱いのに、温もりが感じられない。心も体も氷づけにされたみたいに凍てついてすらいる。ひどく冷たくて動くこともままならない。
……同じだ、あの時と。それなのにオレはまた何もできないんだ。
自分を包んでいた体がゆっくりと崩れ、血の海に沈んでゆく。ぼたぼたと音を立てて血の塊が零れ落ちた。
「このッ――!」
一瞬。ほんの一瞬だけ遅れて反応したジャヤがとどめを刺そうと剣を振りかざす。だが、その必要はなかった。
トワイライトの体を喰い破った飛蝮は内側から燃え始め、一瞬にして縮んで干上がり、無惨な姿で息絶えた。
「ククッ……ざま、みろ……ヴォケ……呪術師はなァ、体、に直接符咒を書きこん、でる。コレ常識、だろォが、よ?」
血溜まりに倒れたトワイライトが中指を立ててみせる。
トワイライトの奥の手。それは自らの体――皮膚や骨に直接書き込んだ呪文を発動させることで自分に害なす相手を自爆させる術だった。
思えば、後方にいたトワイライトだけが事態に一瞬――これもまたほんの一瞬だけ早く気が付いていたのだ。
トワイライトが刹那の間に下した選択は、一つの命を諦めて二つの命を助けることだった。たとえそのために切り捨てた一つが自分の命であろうと、その判断に揺るぎはなかった。
「トワイ! トワイっ! ああっ――」
ハルの呼びかけは殆ど悲鳴に近かった。ハルは血で汚れるのも構わず地面に膝をつき、ずたぼろに引き裂かれたトワイライトの半身に覆いかぶさっている。抱きしめているのかもしれない。ああして、少しでも血が失われるのを止めようとしているのかも――。
「い、いやっ、いやなのじゃ! 妾はっ、何度おぬしを失えば――!」
大粒の涙を零し、ハルがよりきつくトワイライトの体を抱きしめる。だが、その肌は色を失いかけ、氷のような透明な白に変わり始めていた。
「……は、泣いてンの、かわい~。でも、ハルは笑え。そっ、ちのが、かわいい、し?」
「ばか、ばか、ばかぁぁ」
「もう黙って。血が止まらない!」
傍らでは胡が応急処置を施そうと努めているが、とても回復可能な状態ではない。明にだって分かる。
トワイライトの体は右肩から先がごっそりと削がれ、脇腹からは臓物が零れ、脚はずたぼろに引き裂かれている。自らの体内に張り巡らせた符咒によって、喰らい付いた飛蝮を無理やり殺して引き剥がしたのだ。喰い破られた半身も最早失われている。
ルシャがハルの隣に膝をつく。悲痛さを押し殺しながら、努めて冷静に胡に問いかける。
「……魂魄はどうだ」
「トワイ先生のことだ。おそらくは無事に保っていることでしょう。けれど、肉体の損傷があまりに大きい。転生がうまくいく確率は七……六割といったところです」
「……む」
緩慢な――ルシャにしてはひどく緩慢な動作で、彼女はベルトに吊り下げたナイフを抜こうとした。
「ルシャ。ボクが」
歩み寄るジャヤの手には先ほどの大剣ではなく、短剣が握られていた。ハルが目を伏せ、ルシャは重苦しく頷く。胡は黙り込んでいる。
ジャヤが音もなく剣を構え、振り下ろす。その刃がトワイライトの喉を掻き切る寸でのところで、ぴたりと止まった。明が割り込んだからだ。
「……なんで。なんで……そんな簡単に仲間を殺せるんですか」
「トワイライトの命はもう助からない。ならば苦しみを長引かせることはない。わからない? なら仕方ないよ。君は黙って目と耳を塞いでいればいい」
「でも……わたしはっ」
「ふうん。それじゃ、君ならばもっとマシな方法でトワイライトが救えるというの? さあ、やってみせてよ?」
突きつけられた刃以上の鋭さで以って、その問い掛けが胸を抉る。
正鵠を射た言葉だった。明にできることなどない。
ジャヤのような覚悟すらできない明には何もできない。出来る筈がない。
こうして明が立ちつくしている間にも血は流れ、ただトワイライトの苦痛を長引かせているだけだ。それ以上にむごいことがあるだろうか。
「……お師匠様」
ごめんなさい、そう言おうとしたときだった。
「アキラ、ちゃん。あるだろ、できる、ことも、やりたい、ことも……」
明の言葉を遮ったのはトワイライトだった。ハルとルシャに支えられて無理やり身を起こし、いつもの通りに、否、いつも以上に不敵な笑みを浮かべている。
「なに、いって……わたしには、もう何も」
「アキラちゃん、は、おれが憎、いン、だろが。今なら楽に殺せる、ぜ?」
血反吐を零しながら途切れ途切れに吐き出す言葉は明の胸の奥底で蟠っていた感情を揺り動かした。
……憎い。この男が憎い。
……殺す。絶対にいつか殺しきる。
「ジャヤ、なんかに……任せてる場合、かよ。美味しい、とこは、もってくべきだろ?」
本当に、この男は魔性だ。この期に及んで明を好き勝手に誘惑しようとしているのだから。
殺す。殺す。殺す。
ああ。けれど――
「できない、できないよ……。オレは、だって――おまえが」
「約束、だったろ?」
トワイライトが左手で自らのブレードを差し出し、明の手に握らせた。血で滑る柄をなんとか取り落とさぬように握りしめる。
「アキラ。もう時間がありません」
〈回復〉と〈延命〉の治癒術から〈無痛〉の術式へと切り替えた胡が告げる。
見守っていたルシャも意を決したように口を開いた。
「……我々の世界では、人には九生が与えられている。今この場ですべてを理解しろとは言わぬ。でも、アキラ。選ぶことができる限り、我々は決めなくてはならないんだ。トワイが今必要としているのはおまえだ。おまえの手に掛かって一度死ぬことだ」
たとえ仲間であったとしても。否、仲間だからこそ殺す。
この世界を生き抜くために求められる代償はあまりに大きい。明にはとても耐えられそうにない。
けれど、それでも。
「やれ、よ。アキラちゃんの、手で、おれを生まれ変わらせて」
トワイライトはまるで口づけでもせがむように甘くやさしく囁いた。胡の〈無痛〉の術が効いているのだろう。苦痛はもうない。しかしその美貌には死の影が色濃く表れている。
明は分かったともいえずに、ただ黙って跪いた。
手の震えを隠すことなどできはしなかった。震える手でトワイライトの胸に刃を突きつける。切っ先に白くしなやかな手指が触れ、心臓の場所へと導いてくれる。
顔を上げれば、まっすぐに見下ろすジャヤと目があった。
――君にできるの? その瞳は真剣にそう問うていた。
トワイライトが手を伸べ、明の両手に自分の片手を重ねる。
「ククッ……緊張、して、やがんの。殺人処女、までおれが、奪っちゃう……なんてねェ。ほんと、かわいい」
「うるさい。上手くやれる保証なんてないんだから、黙れ。それから、目、閉じろ。おまえを殺すところをおまえにだけは見られたくない」
「わかっ、たよ」
トワイライトはすっと目を閉じた。
透き通るような美貌に胸が疼く。それが失われる。たった少しの間だとしても、生と死には永劫の隔たりがある。
今在るトワイライトがいなくなる。それがどういうことかを考えると、明はひどく恐ろしかった。
そして、他ならぬ自分の手でそれを奪うのだと思うと――。
「こいよ、アキラちゃん」
明はただ頷き、ブレードを構えた。その手をトワイライト自身の手指が包み込み、支えてくれていた。
それが本当に自分の意思だったのかは分からない。
けれど、明の刃はトワイライトの心臓を突き破っていた。
19
明たちのパーティが銀月迷宮新領域の蛟を打ち破ったことは探索者連中によって瞬く間に広まった。街にも地下にも彼らを称賛する声が溢れた。
しかし、トワイライトの死は胡の幻術に依って巧妙に隠されたまま、明たちだけの秘匿事項として扱われることとなった。
地上に戻った一行は、他のクランの医術士に当てがあるというジャヤに連絡係を任せ、医院まで引き上げた。
胡とルシャが手際よく転生術式の用意をしていき――というか概ねトワイライト自身が医院の地下に構築していた大規模呪医術のプログラムを起動させただけだが――段取りを整えた。
あの悪夢のような明の転生処置もそこで行われたのだという。
ジャヤが連れて戻ったのは小柄な体躯に冬用外套を被り、迷宮深部潜行用ガスマスクで面貌を隠した怪しい人物であったが、明以外とは既知の間柄であるらしく、話は滞りなく進んだ。明はただ短いやり取りを聞いていることしかできなかった。
そいつはハルを伴って地下の特別手術室に降りると、誰も入らないように釘をさして引き篭もった。逆らおうとする者は誰ひとりいなかった。
ただそのまま時間だけが過ぎていった。
竜骨都市の夜風は生温かく、水や屋台や香の匂いが混じって、不思議な匂いがする。
今夜の風はやけに目に染みて、目に映るネオンを霧雨のように滲ませた。
「くそっ……」
目許を拭って、雫を払う。別に泣きたいわけでもなんでもないのに、涙が溢れて止まらなかった。
皆が交代で休みを取りながら、トワイライトの転生処置が終了するのを待っていた。
明は誰とも一緒にいることができずに、一人医院の屋上で夜闇に沈んだ街並を眺めていた。
どうして。
どうして。
どうして。
考えてもきりがないのに、そればかり頭の中に繰り返し連ねてしまう。
どうして、オレなんかを助けたんだ。
どうして、オレにあんな役割を押しつけたんだよ。
どうして、オレはこんなに不安で仕方なくて、哀しくて悔しくて寂しくて、あいつのことばかり考えてしまうのだろう――。
オレはもしかするととっくに屈していたのかもしれない。あいつの手に落ちて、心まで――魂までも書き換えられてしまったのかもしれない。
今の明はこの世界――理不尽極まりないこの世界を、そしてこの世界で初めて出来た仲間を憎み切れずにいる。
殺そう。殺したい。殺しつくしてやる。
そう願ってジャヤに教えを乞い、ここまでやってきた。だが、今ではもう分からない。
ルシャは気高く優しくて、それにどこか可愛らしいところもあって、つい頼りにしてしまう。明には姉がいたが、ルシャのこともまた家族のように感じ始めていた。
胡の機転にはいつも感心させられる。彼が初めて連れて行ってくれた店の飯はとても美味しかった。出来たらもっと話がしてみたい。
ハルは婀娜で美しく、それでいて慈愛に充ち溢れている。今回の件で最も傷ついたのは彼女だろう。ひどく泣いていたし、今だって付きっきりで手術室に籠っている。もしかすると、トワイライトが明に行ったような行為をするためかもしれない。
ジャヤは……つかみどころがなく、そして存外自分にも他人にも厳しい男だ。けれど何か……とてつもないものを背負っているような気がして、いつも心配させられる。出来れば力になりたいとも思うけれど、果たして本人がそれを望むかどうか。
そして、トワイライト。あいつは最低最悪だ。明の尊厳をとことん傷つけ、奪って、踏みにじって。それなのに、明は失うどころかどんどん大切なものが増えて、おかげで今だってひどく混乱したままで。明を変えてしまったのは……明を生まれ変わらせたのはトワイライトに他ならない。憎たらしくてたまらない。それなのに、今は――
「そろそろ休んだら、メイくん」
音もなく現われたジャヤが隣に立った。夜明け色の髪が夜風に揺られて靡いている。
「……まだ、ここにいたい」
明はジャヤの方は見ずに呟いた。ここにいたいというよりは、下に居たくはないという気持ちの方が勝っていた。誰にも合わせる顔がないと思っていた。トワイライトを殺したのは明だ。誰にどんな顔をして会えばいいのかすら、もう分からない。
「そっか。じゃあここで広げてしまおう。君は戻ってから何も食べていなかったものね」
ジャヤは勝手に明の横に座すと、緑色の葉の包みを三つ取り出して明の傍に並べた。鳥肉入りのもち米を蓮の葉で包んで蒸した粽だった。竜骨都市の屋台でよく見る食べ物だ。それに瓶入りのソーダ水も隣に添えられた。
「……お腹、減ってないから」
「今食べておかないと後で忙しくなったときにみんなが困るんだよね」
一つを手に取り、ジャヤはやはり強引に押しつけてくる。このまま拒めば口に無理やり捻じ込まれそうなので、明は仕方なく受け取り、包みを開けて口に運んだ。
米はまだふっくりとして温かく、ほんのりと甘辛い鶏肉の味がよく染みていた。蓮の葉のいい香りが辺りに満ちた。
「…………おいしい」
「そう。まだあるよ。沢山食べて」
一口食べるごとに、空っぽだった胃がやさしく満たされていく。
同時に、さっきまでは目元を滲ませる程度だった涙がぽろぽろと零れて止まらなくなった。
明はハルの前ではどうしても泣くことができなかった。自分以上に傷つき取り乱している彼女をこれ以上動揺させたくはなかった。そこにはどこか後ろめたい遠慮もあった。
「……なんで。どうして……ごめん、ごめんなさい、オレは……っ」
堰を切ったかのように泣きだした明は、わけのわからないことを言いながら必死に粽を頬張った。
おいしいとか、そんなこと感じている場合じゃないのに。でも、勝手に腹は減るし、腹が減ればその分思考もすり減って。こうしている間にもトワイライトが本当に死んでしまうかもしれないというのに、どうしようもなくなって――。
喉を詰まらせないように時々飲み物を差し出しながら、ジャヤは明が全部平らげてしまうまで黙って隣についてくれていた。最後は「よし、ちゃんと食べたね」と言って、涙だか鼻水だかなんだかよく分からないものでぐしゃぐしゃになった明の頬を袖で拭った。本当に、面倒見がいいのだか何なのだか分からない男だ。
「メイくん、あのさ……今日はよく頑張ったね。ボクは褒めるのが下手だとルシャに怒られてばかりだけど、今回は本当にそう思っているんだよ?」
「……はい」
「だからトワイライトが治ったら、いっぱいお祝いしなきゃね」
「……はい」
「ホットケーキ作ってもらうって約束、したし」
「…………はい」
それ以上、ジャヤも明もなにも言わなかった。
二人して、ただネオンに滲む竜骨都市の夜の姿を見つめていた。時折風に混ざって都市の喧噪が二人の耳にも届いた。
不思議と心細さが薄まって、凪いだ気分へと変わっていた。
泣きすぎたせいなのかもしれない。明は少しだけ自分の態度を恥かしく思った。
やがて階段室から顔を出した胡が、施術が終わったので降りてくるよう二人に告げた。
明は室内に戻るのを躊躇ったが、それを見抜いたジャヤによって手を引かれ、皆が待つ医院の中へと連れられて行った。
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