第13話 銀月迷宮攻略 〈2〉

 

 14


 浴室は相変わらず槐の香りで満たされていた。

 湯船に浸かると、骨の髄まで温かみが伝わり、明の意識も身体も蕩けそうになる。

「なァンだ。アキラちゃん、風呂場だとやけに無防備になるんだねェ?」

「ん~……なっ、あ! ち、ちがう。べつにそんなんじゃない。というか誰のせいで朝風呂浴びてると思ってんだよ。てゆうか離れろ、離せ。馬鹿」

「やだね。アキラちゃんの肌質、すべすべのてろてろで気持ちィンだもん」

 明は背後からトワイライトに抱えられた状態で浴槽に座していた。

 それもこれも、この男が浴室に明を連れ込み、房中術と称したあの行為を風呂場で行ったせいである。火照った体を背後から何度も攻め立てられて、明は絶頂と同時に意識を失い、気が付いたらこういう体勢で入浴させられていた次第である。

「狭いとこでヤるのが好きなら先に言ってくれればいいのにィ? 今朝のアキラちゃんたら、いつもより乱れて、あんなことやこんなことをおれに」

「うるさい! 死ね! 死なす!」

 振り返ってばしゃばしゃと水を跳ねながら拳を叩きつけるも、すべて受け止められるか受け流される。呪医の筈なのに、トワイライトは相変わらず明よりも強い。あの〈這いずり姫〉を操る力を持っているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、いくぶん修行を積んでも拳を中てられないのはやはり悔しい。

 明と向かいあう形になったトワイライトが、逆に明の背に手を回して押し倒してくる。

 銀色の髪が花弁のように零れ、湯船に浮かぶ。間近から覗き込む黄昏色の瞳は蠱惑的に渦を巻き、明を誘っていた。

「もう一回、いい?」

「い、いや、だ!」

「ねーえ、昨日の今日で気が足りてないんだよ。お願ァい」

 片手が明の内股を這いまわり、撫で上げる。もう片方の手は明が溺れぬように、頭の後ろに回されている。首筋から肩へと口づけが振って、最後に甘くねだるように唇を食んだ。濡れた肌の感触と湯の温もりがじんわりと沁みて、互いを隔てる肉体という境界を曖昧にしていた。

 もっと。もっと近く、深く。一人であることを忘れてしまうくらいに隙間を埋めて欲しい。ひとつに溶け合ってしまいたい。明の中にも仄かな欲望の火が灯っていた。

「っは……、やめ、ろって……そこ、だめっ……わ、わかった、わかっ、た、からっ、あッ!」

「ククッ。それじゃ、いただきまァす」

 体の相性――というか、気を練りあげるにあたり、明はこの男以上に都合のいい相手はいないと思い始めていた。何よりこの通り見てくれだけはいいし、肌の感触だけを言えば……たぶん嫌いじゃない。交われば互いに内丹を練り、気を高めることができる。要するに強くなれるのだ。

 ……もちろん、だからといって好き勝手にやられていい気はしないのだが。

 所詮、この体は生まれ変わった後の依り代。肉体……肉だけの享楽ならば、甘んじて受け入れてしまえばいいのだ。それならむしろ、何の思い入れもない相手のほうがいい。

 そう――魂までこの男に受け渡すことなど、ありはしないのだから。

 結局、朝の湯浴みは太陽が高く昇るまで続けられた。


 §


 竜骨都市第四層、昇降機乗り場。

 小規模ながら拓けた場所は上層と同様、待ち合わせに使われる憩い場になっている。

 ただ、今日は広場の忠魂碑前に沢山の献花や蝋燭、またそれぞれの種族なりの祈りの跡が残されている点でいつもと異なる様相を呈している。

 人影もまばらだ。探索者とシェルパによって構成されたの熟練のパーティがいくつか、それにアースカラーの制服に身を包んだ警ら隊の一団が見える。

 しかし、なにより目を引くのは悲嘆にくれる軽装の人々の姿だ。仲間や家族を失い、今はただ祈るしかない残された探索者たち。

 そして、憩い場にはすでに四名の見知った姿――龍討伐事務所〈紅燈籠ホンタンロン〉あるいは〈竜胆ロンダン党〉のメンバーの姿があった。

 少し遅れてやってきた明とトワイライトもその輪に加わった。

「よし。全員揃ったな?」

 〈紅燈籠〉所長のルシャテリエライトが一同の顔を見て頷きかける。猫頭人身をもつ獣人である彼女こそがこのパーティの頭目だ。つややかな灰色の毛並みに、翠玉を思わせる大きな瞳。凛として揺るぎのない芯の強さを感じさせる佇まいは、優美さすら感じさせる。

 彼女は、獣人特有の強靭でしなやかな体躯を活かした前衛の戦士としてパーティの中核を担うという。この一月余り、アキラは身をもってその業を味わった。瞬発力、胆力、そしてその功夫のなせる多彩な技は本当に恐ろしいものだった。けれど、本気の彼女を明はまだ見たことが無い。もしかすると、今回の探索でそれが見られるかもしれない。そう思うと、明の胸は自然に高鳴ってしまう。

「おはよう、みんな」

 ルシャの隣で爽やかに微笑むのはもちろんジャヤだ。精悍な顔つき。その相貌には彼の器量を引き立てる柔らかな微笑みが浮かんでいるが、別に楽しくて笑っているわけではないらしく、素の顔がこうなのだ。これまで行動を共にし、ジャヤについて分かった数少ないことのひとつがこれだ。おまけに、穏やかそうでいて沸点は意外に低い。

 陽光に夜明け色の髪が照らされ、曙光のごとくに輝いて映える。今日のジャヤは最初の日に見た屠龍師としての装備よりだいぶ軽装だが、前衛として前線に飛び込む用意を整えてきているらしい。腰の吊り革には短剣を佩き、背中には大剣を背負っている。獣のような獰猛な体躯と合わせてみると、戦神のような姿だ。彼が〈緋色の勇者〉と呼ばれる所以の一端を垣間見た気がして、明はこくりと喉を鳴らした。このパーティの要は間違いなくジャヤだろう。

「おはようございます。昨夜はよく休めましたか?」

「……あ、はい。おかげさまで?」

「今日はよろしくお願いしますね、アキラ」

 明の隣に立つのは胡。胡青児。仙弧を目指し、竜骨都市の地下迷宮で修行をしている狐狸精だ。彼もジャヤと同じく〈紅燈籠〉の所員であるが、ワケあって屠龍機には乗らないという。

 今日は本性である狐の姿のまま、肩からサコッシュを下げ、ごく軽装備でこの場に現われた。明よりもふた回りは小さい――ちょうど明の腰丈ほどの矮小な体躯でとてとてと歩きまわる様はやっぱりいつ見ても可愛らしい。トワイライトを師として医術も学んでいるというが、妖狐の彼はいったいどのような立ち回りをしてみせるのだろうか。

「心配ですか?」

「……いえ。緊張、していますけど。いまのところ大丈夫、です」

「その通り。なんの問題もありませんよ。アキラの仕事はふたつ。自分が生き残ること。そして後衛の二人を守ること、です。つきつめれば単純なことだ」

「……はい。わかります、けど……でも、あの……って……」

「ああ……いいたいことはわかりますよ……」

 明と胡は遠い眼になる。見たくない光景がすぐ背後で繰り広げられているからだ。

 そう。何の問題もないというのは、ちがうと思う。なぜなら――

「久しぶりィ、ハル。会えない間もおれを恋しくて愛しくて切なくて堪らなかったンだろォ? 分かるゥ、超絶分かるゥ。だからちょっとあっちの廃墟の影でいっぱつぶぎゃるッ!?」

 突如、トワイライトの右頬が爆ぜた。ハルの魔術による一撃だ。ところが、トワイライトはめげない。爆ぜて顔面燃えながらも器用にハルを押し倒しにかかっている。

「このゲスっ、いい加減に……死に腐れなのじゃっ!」

「おっと!」

 抑え込まれた華奢な体をフルに使って、ハルは思い切り急所を狙った刺突を繰り出して暴れている。刺されたトワイライトの肩から血が噴き出した。ハルを抑え込むために、急所を狙った一撃をわざと肩で受け止めたのだ。トワイライトは怯んだハルの両手を片手で抑え、もう片方の手で羽衣のような衣装を引き剥がしていく。

「ひゃあぁっ!? や、やめ――」

「ククッ、相変わらずおれ相手には甘っちょろい抵抗しかできないんだねェ? 嫌がってみせるのもおれのことが好きでどうしようもないからなんだろォ? とっくに知っているけどさァ!」

「やめるのぢゃ! ヴァカ! 皆が見ておろうがっ、このクソ狒々ざる! 色情狂! 変態闇医者! ペド野郎! 不埒もの……ッん、や、めッ……そんなところを触るでない阿呆ぅっ、ぅあ、あぁッ、ん……っ!」

「ククッ。よォくなってきたじゃないのォ。ほォれ、どうせなら皆におれたちの熱くて深い情交を見せつけぐぼえあッ!?」

 ジャヤが峰打ちでもってトワイライトを気絶させ、だらりと伸びたその体を軽々と持ち上げた。

 手を伸ばした胡がトワイライトの爆ぜた頬にぺちぺちと白粉のようなものを塗すと、みるみるうちに傷が癒えていく。狐の霊薬か何かだろうか。

 迷宮探索用の黒い特殊手術外套に着替え、迷宮用非合法手術器具ブレードを佩いたトワイライトは軽装備の部類に入る。しかし、その装備を身に付けた成人男性の体重も、ジャヤにとっては何の負担にもならないらしい。

「トワイライトはボクが迷宮へ持っていくよ。適当なところで目覚めさせれば大丈夫だよね。きちんと目が覚めるかはちょっと分からないけれど」

「なんなら持ち込み禁止にしたほうがよくないか、それ」

 もはや無機物扱いですか。明はそのやり取りに内心でツッコミをいれながら、押し倒されていたハルを助け起こした。

「はっ……はぁっ……くぅぅ、あんな色情魔、早く魂魄消失してしまえばいいのぢゃ!」

 泣きそうになりながら、ハルは襟元を正してなんとか立ち直ろうとしている。処女雪のように白い頬に朱がさし、紫水晶の瞳を潤ませた様は……ひどく色っぽい。自身の脳裏をよぎった不謹慎な考えを明は慌てて追い払う。

「大丈夫?」

「アキラ。おぬしも最早分かっておるじゃろうが、あやつはトンチキ医者の皮を被ったキ●ガイ野郎じゃ! 妾を会うたびかような目に遭わせおって、とにかく万死に値するっ!」

「落ちついて。それ何の皮も被ってないのと一緒だから」

「うう……すまぬ、ついな。同じ竜胆党の人員とはいえ、あやつとは昔の昔からこうなのじゃ」

 昔の昔からこう、とは……何とも不幸な廻り合わせである。同情の言葉も特に思いつかないので、明は黙ってハルの背中についた土を払ってやった。

 ハルの出で立ちは他の者と明らかに違っている。バニラ色の羽衣を纏い、やはり隠すべきところを隠せていないドレスを身につけているのみだ。

 ハルは高級娼婦であるが、屠龍師としての裏の顔をもつ。しかし、彼女の存在はジャヤやルシャとは明らかに異質だ。彼女は屠龍を行う者のなかでも〈魔術師〉の称号を持つ者なのだそうだ。そのため、このような極力余計な装備を省いた恰好になるのだという。彼女に手を貸す異貌の存在が彼女の血を求めやすいように――。

 この世界の陰の側――幽世に半身を捧げ、妖しき術を使う者を〈魔術師〉と呼ぶらしい。

「ハルも迷宮に潜るんだね」

「心配かえ? それなら必要ない。このような事態のために日ごろから精気をしっかり溜めておる」

 良質な精気を集める。館に身を置き、客をとっているのは、半分がこのためだという。

 残りの半分の理由を明はまだ知らないままだ。いずれハルのほうから教えてくれるかもしれないし、語られずに終わるかもしれない。どちらにしろ、無理に聞こうとは思っていない。

「アキラ。おぬしもなかなか様になっているではないか。そうぢゃろ?」

「そんなこと……全然ないよ」

 明の出で立ちを一瞥し、ハルはそれを褒めてくれた。

 様になっている……かどうかは明自身では分からないが、いちおう精一杯吟味して装備を選んだつもりだ。柘榴色の円外套に、動きやすくて伸縮性にすぐれた黒いレギンスを合わせ、シンプルな戦闘用編み上げブーツで足元を覆っている。ハルから貰った一対のナイフ〈涅姫くりひめ〉と〈猩々花しょうじょうか〉を吊革に納め、使い慣れた短刀を腰に履いている。

 この一月余りで初心者丸出しの所作も装備も少しはマシになったと思いたい。だが、所詮はその程度である。

 床に零れるほどの長さの銀髪は、邪魔になっても困るので最近は三つ編みに結わえている。髪型は勿論トワイライトの仕業だ。明が髪を切ろうとするのを、トワイライトは猛反発して嫌がった。

「妾からすれば外見もそれ相応に大事なのじゃよ、アキラ。害獣……否、害虫以下のトワイライトは除くが。きやつはどんな恰好をしていてもただの害悪、着られる服というか布がこの上なく可哀想なのじゃ!」

「……そうだね」

「そうじゃろ」

 頷き合う明たちの横に、ルシャテリエライトが立った。

「やれ、潜る前から先が思いやられるが……。銀月迷宮地下三階の空洞うつろから件の新領域に入る。行くぞ」

 ルシャの合図に気絶中のトワイライトを除いた全員が返事をし、一行は銀月迷宮へ向かってバラック街を歩きだした。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る