鈍色炭鉱
第10話 鈍色炭鉱 〈1〉
11
明が新しい生活の基盤とリズムを構築するのに、およそ三週間を要した。
基本はトワイライトの医院で寝泊まりし、房中術という名目でセクハラを受けつつ、日の出と同時に鍛錬を始め、昼間には迷宮に赴く。そういう流れだ。
そのうち、週に二、三日はジャヤが基礎から指導してくれた。
呼吸法、足運びに、剣捌き。あるいは必要性のよくわからない基礎訓練の類。イメージトレーニングのようなもの。
「メイくん、それでは集中しているフリにすぎない。もっと本気でやって。ボクとすることはすべてが実戦だと思って」
「……はい」
だが、実際にジャヤを相手に組み合えば、ほぼ一撃で引き倒された。十二分に手加減をされていることは明とて承知の上だが、十回に一、二回は余裕でお釣りが返ってくるほどで、慌ててトワイライトの医院に担ぎ込まれる始末だった。あるときは折れかけの木の枝で頭をかち割られて、緊急手術を受ける羽目になった。
ジャヤはあくまでも穏やかに「君は相変わらず弱い。ボクの想定よりも上達が遅いのが悪い」というようなことを言っただけだった。確かに陽炎はまだ斬れてはいなかったが、あんまりといえばあんまりな対応だった。
ジャヤが自分のことをどう思っているのか、明は量りかねていた。
ジャヤの内面は極めてわかりにくい。一見朗らかでさわやかな好青年に見えるが、それは表面的なものにすぎない。それだけはわかる。だけど、そのほかのことはまださっぱりだった。
しかし、時折ジャヤは明をどこか寂しそうな眼で見ていることがあった。あの眼。遠くをみるようなあの視線は一体何なのだろう。わけを聞くことはできなかった。明を弟子として以来、ジャヤは修行のこと以外をめっきり話さなくなってしまったからだ。
また、週三日は約束通りハルの元に通い、身の回りの世話をした。身支度の手伝いや、外へのおつかい、部屋の掃除に洗濯、お茶や酒を出し、その相手も務める……など、やることは沢山あった。
ハルは本当に特別なようで、あらかじめ予約を受けた特定の客しか相手にしなかった。時には短い談話だけをして客が満足し、帰ることもあった。
それでも、疲れ切った少女が眠るまで傍で付き添うことが何度かあった。それも明に与えられた仕事の一つだった。
「……アキラは本当に優しい子じゃの。つい甘えたくなってしまう。……なんだか狡いのじゃ」
「そんなこと言われても……。それにわたしは優しくなんかないよ。臆病なだけ」
「なるほど、臆病……か。だが、それも悪いとは限らぬぞ?」
ハルには初日に自分の恥部をすべてさらけ出してしまったせいか、もう何も隠そうという気にはなれず、そのために比較的早く打ち解けることができた。
「妾とおぬしは雇用関係さえなければ姉妹のようになれたかもしれぬな。もちろん妾が姉でおぬしが妹じゃ」と告げてハルは胸をはったが、「姉妹」という女扱いも不服だし、どちらかと言えば妹はハルのほうではないかというのが明の見解だった。ただ、それを口に出してとやかく言うことはしないでおいた。
給料の一部を前借りする形で受け取り、明は自分にも扱える短剣と防具を揃えた。
「お下がりじゃ」といって、ハルが刀身のうねった不穏な形をした一対の短刀をくれたが、今のところはまだ使いこなせていないのが現状だ。
片方が
そして。
トワイライトは明の修行や仕事に干渉することはせず、がめつく医院を営み、昼夜問わず怪しい研究に打ち込んでいた。
どうやら医院の地下には相当な設備を備えた研究スペースが設けられているらしいことを明は後で知った。明が〈転生〉する際に手術を受けたのも地下研究所であるらしかった。
「おまえ、地下でいつも何をしているんだ?」
「ン~? 内緒ォ」
房中術……共寝の際にそう訊ねたことがあるが、さらりとはぐらかされて終わりだった。単純に明にはわからないと判断しただけかもしれなかったが、気にならないと言えば嘘になる。
「アキラちゃんこそ、修行は順調? ジャヤとはどうなの?」
「……内緒だ」
「またァ意地悪だなァ。でもそういうとこもかわい~からヨシ!」
そんな調子でトワイライトは夜ごと明を抱き、その心身に気を巡らせた。
男に――それも自分をこの女の姿に変えた男に抱かれるのは相変わらず最低最悪の気分だった。けれどそれとは裏腹に体の相性はこの上なくいいらしく、触れられるたびに明の肉体はそれをひどく悦んで受け入れてしまうのだった。
もう自分たちはふたつでひとつなんだ――トワイライトはそう言っていたが、果たして本当にその通りになりつつあることが明には辛うじて憎らしく思えていた。その憎しみがほかでもなく明が修行をやり通す一番の支えになった。
こんな風に、ジャヤとハル、そして認めたくはないがトワイライトも含め――周囲の助力を得ながら過ごすことさらに四週間と二日。
「……斬れた……陽炎……!」
鈍色迷宮、第二坑道。
その中間部分にて、明は初めて陽炎を斬ることに成功したのであった。
§
「――ふッ!」
鋭い呼気と共に蠢く闇に刃を突き立てる。同時に自分の気を解放し、陽炎の陰気を陽気で拡散させる。
確かな手ごたえ。
不可視の傷口を深く抉るように一気に斬り裂けば、闇は霧散し、陽炎が消え去った。
「これでまた、ひとつ」
今日はこれで十二。十二体――そう数えてよいものかはよく分からないが――それだけの数を二時間ばかりかけて屠った。
今の明には陽炎狩りのコツが完全に掴めていた。ただ闇雲に刃を振るっても陽炎は斬れない。それどころか数を増やしかねない。大切なのは、たった一撃だ。その一撃に気を込めることが重要だった。
呪医のトワイライトと交わり、ジャヤと撃ち合うことでそれを体感してきたことが大きかった。気を練り、あるいは発散し、受け渡すこと。あるいは一点に集中させて発すること。知らず知らずのうちに身をもって学んできたことが、陽炎退治に役立った。
否、もしかすると、彼らは意図的に明に教えていたのかもしれない。……トワイライトに限っては違うだろうが。
ともかく、自分が、この肉体と魂魄が知っている――持っているものを出しきること。自分の意思で力を操る術を明は身につけつつあった。
額の汗を拭った明は、闇が蟠っていた箇所に薄い絹のような布が落ちていることに気づいた。これは陽炎が消え去る瞬間、うまく気を中てると実体化して残されるものだ。所謂ドロップアイテムというやつで、二層の市場で買い取ってもらうことができ、今の明には貴重な収入源のひとつになりつつあった。なんでも普通の絹よりも上等で、女性の衣服を作るのに重宝されるらしい。
素早く布を回収し、腰吊図嚢にしまい込む。地道といえば地道な稼ぎ方ではあるが、ないよりははるかにマシだ。ハルにばかり頼ってもいられないし、金はあるに越したことは無い。
昼間から潜って、回収できた分は七。約半分といったところか。
……今日はもう地上に戻ろう。
踵を返し、坑道を出口に向かって引き返そうとしたときだった。
「さもしいな」
冷たく、やや金属味を帯びた声が洞窟の中に反響した。
「なにより、みすぼらしくてみみっちい行為だ。反吐が出る。それに見てくればかり可愛らしいだけで、ひどく弱そうだ」
聞き間違い、ではないだろう。実際、行く先に立ちはだかる形で此方を睨む女がそう吐き棄てたのを目撃してしまったわけで。
女――というのは、たわわな乳に、細く引き締まった腰から満月のような尻を強調するような、なんとも魅惑的なボディスーツ姿から判断できたことだ。
眼前の人物の相貌。肝心のそれはどういう理由があるのか、厳ついガスマスクによって覆われ、男女の別すら判別不可能であったのだから。
「どうした、雑魚めが。これだけ煽られて、かかってこないのか」
無視……すべきだろう。うん、無視。無視だ。いくら自分の怒りを煽るような言葉ばかりを投げかけられたからといって、こんな絶対的危険人物は相手にすべきではない。
報告、連絡、相談。それが第一だ。地上に帰って誰か適当な人物に相談すべきだ。
明は目を伏せ、そそくさと立ち去るべく通路の隅を歩きだす。
どうか追いかけてきませんように。というか来ないで、ぜったいに――
「まるで去勢された豚だな。それとも、あの呪医に絆され、その魂の奥底まで女にされたというわけか? おまえ、元からついていなかったんじゃないか?」
「ン、だと……てめえッ」
限界だった。女。去勢された豚。その一言が明をブチ切れさせた。
鞘から剣を抜き払うが早いか、明は地を駆け、そいつに躍りかかっていた。
「――はッ、ようやくか」
がぃん――!
金属がぶつかりあう甲高く鈍い音が響き渡る。
受け止められた刃から振動が伝わり、明の手を痺れさせた。
壊される前に飛び退き、再び間合いをはかる。
「てめえ、訂正しろ。女と言ったな。オレのことを言うに事欠いて、おんな、と……ッ!」
「本当のことだろう。おまえは女だ。否、今はそれ以下、女にすら悦んで股を開く婢女だろうが」
思考が弾けた。言葉などもう必要ない。
分からせてやる。分からないのなら殺してやる。
気を集中させ、相手を〈視る〉。どこもガラ空きだ。守る気がないのか。これなら急所を抉るだけで終わる。
ジャヤから教わった通りの走法で間合いを詰め、気配を殺す。
明は渾身の刺突を繰り出した。
「――愚かな女」
転瞬。明の体は宙を舞い、叩き落とされていた。
「がふっ!」
それに気がついた瞬間に息が止まる。胸を思い切り踏みつけられていた。
倒れている、否、倒されたのか。オレのほうが?
「状況も把握できないのか。本当に馬鹿だな。脳味噌だけは男のままか」
「……ぐ、あッ……てめぇ……なんだ、と、コラ……ッ」
「喋るな。醜悪にすぎる」
喉元に刃が突きつけられた。輝きすらしない漆黒の刃が。
「この一カ月余、おまえは何を学び、盗み、殺した? 教えられた通りの型をなぞるだけの攻撃、気の練り方も単調だ。功夫がまるで足りない。おまけに己の感情の制御もできないときた。ただ与えられるだけ。奪おうともしていない。おまえ、どこまでやつらに甘える気だ? 吾輩はあいつらが可哀想だよ」
刃が閃く。斬られたわけではなかった。が、腹部に爪先が食い込み、明の体は地面を転がった。
うつ伏せになり、そのまま堪え切れずに嘔吐する。
「がっ……はっ……あ、ぐ……ッ」
蹴られた箇所が、全身がひどく痛かった。
でも思考だけが燃えている。燃え滾っている。怒りと恥辱、そして今まで必死に抑え込んできた自己嫌悪。せり上がってきたその感覚に、明は再び嘔吐いた。それでも上半身だけ支えもたげて、相手を激しく睨めつける。
「……さ、ない……てめ、え……だけはッ……絶対に許さない!」
「それでけっこう。吾輩は許されようなどとは思っていない。明日、また来る。おまえはどうだ? アキラ」
マスクの下。不可視の相貌が歪んだ笑みを浮かべたように見えた――。
女は漆黒の刀を鞘に収めると、そのまま踵を返して歩きだした。
その姿は迷宮の出口、そこから差し込む光の中に灼けるように消えていった。
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