第9話 竜骨都市には幾多の迷宮がある 〈5〉


 夜半。

 明が目を覚ますとハルの姿はそこになかった。

 シーツの海には明ただ一人が残され、燭台で揺れる蝋燭の火がその輪郭を仄暗い部屋に浮かび上がらせている。

「……ハル……?」

 身を起こした明はハルの姿を探して部屋を見渡したが、やはり彼女はいない。

 鏡台の前の椅子や机の上の書きかけの書簡などはそのままに、この部屋の主だけが姿を消してしまっている。

 まるで夢の中に置き去りにされたみたいな感覚だった。

 置き去り。実際、その通りだ。館の中で自分がどう過ごせばよいのか。そのルールを明はまだ知らない。

 それに明をここに連れてきたジャヤも別室へ行くと告げたきり戻ってきていない。

『下の部屋にはしばらく寄らぬほうがいいじゃろう』

 ハルはああ言っていたが、この場合はどうすればいいのだろう。大人しくハルが戻るのを待つべきか、それとも――。

 結局、明は自ら動くことを選んだ。

 シーツを体に巻き、小さな燭台を手にして館の回廊を歩き出す。

 庭園や湯殿らしき景色を望むように張り巡らされた回廊は古く、幻想的な雰囲気を醸している。予想に反し、声や物音が部屋部屋から漏れ聞こえることもなく、辺りは静寂に包まれていた。そこに息づくのは人々の秘密めいた気配だけだ。

 長い廊下を行く間、明は誰ともすれ違わなかった。あんなに賑わっていたのに、不思議だ。

 おそらく何らかの秘匿魔術――存在を他者の認識から切り離すある種トリックめいた魔術があちこちに張り巡らされているのかもしれない。ここはそれほどまでに魔術的配慮の行き届いた場所なのだ。

 たとえ一夜限りの共寝であっても、そこで共有される秘密はあまりに大きい。ましてやここは富や名声を得た一流の探索者や屠龍師も訪れる特別な場所である。機密保持には特段の配慮をしいているのだろう。

 ……それなら、ジャヤは一体どのようにここでのひとときを過ごしているのだろう?

 〈大喰らい〉の名をもつ彼の屠龍機。時折みせる激しい気性。そして、それらとも異なる明の知らないジャヤの一面を垣間見ることができたら――。

 そうなれば、少しはこんな体に貶められたことを赦せるかもしれない。

「……白檀の間。ここ……か」

 明はいつの間にかジャヤが用意しておくように言いつけていた部屋の前まで辿りついていた。

 辺りは相変わらず静まり返っている。

 心を決めると、一度ドアノッカーを打ち鳴らす。返事はない。もう一度。やはり反応はなかった。もしかすると眠っているだけなのかもしれない。

 明は蝋燭を吹き消し、意を決して扉にあてた手に力を籠めた。鍵はかかっていなかった。

 ほんの少し開いた扉の向こうに、白く、しかし逞しく発達した背中が見えた。見覚えのある鋼のような体つき。夜明け色の髪。

 最初、明にはジャヤが一人で背を向けているように見えた。だから、不用意にも声をかけてしまった。

「ジャヤ……」

 名を呼びかけた明の声を悲鳴のような嬌声が掻き消した。声には聞き覚えがあった。それに、わずかに覗く美しい相貌。

 寝台の上で体を開かされているのはハルだった。片足を高く持ち上げられ、空いた片方の手で首を押さえつけられる形で背後から覆いかぶさるジャヤに犯されていた。

「ッは、ぁ、ぅ……あぐッ」

 ゆっくりと首を絞められながら、体の中心を暴かれているハルの吐息は荒く弾み、甘い。明を相手にしているときにあった筈の余裕は今はないらしく、ジャヤが動くのに合わせて泣くような声を上げていた。高級娼婦というよりはまるでただの幼い少女のようだ。

 ハルが昂り、声を上げるとジャヤは彼女の首を締め付け、手酷く玩んだ。悲鳴を上げられないハルの反応をとくと味わうように。

 凌辱されるようなやり方で抱かれているというのに、ハルは耳まで赤くしてジャヤを受け入れている。その姿は自身の〈魅了〉の能力が反転し、その力が彼女自身の中に雪崩れ込んでいるかのようだった。

「……ハル、またイってるの? よっぽど、好き、なんだ、ね、ボクのが」

「ふあっ……らっ、だれ、が、なれ、などッ」

「そう? こんな、に、締め付けてる、のに?」

「んぅ……ッ、そ、れは、ちがっ、あっ、ぃ、あぁッ」

「なに? ちゃんといわなきゃ、わからない、けど?」

「ぅあ、ち、がぅ、妾は、ッあ……ッ」

 ジャヤはハルの黒髪に指を絡めて頭を掴み上げ、再び喉を締め付ける。潰してしまわないよう幾分かは手加減をして。

 堪えながらも悶えるハルの顔をとくと眺めると、少女を再び蹂躙していく。

 背後から組み伏せた体勢では口づけができない。その代わりなのか、ハルの口に指を差し入れ、舌を捏ね回しながら辱めている。その行為に情愛などまるで通っていないように明には思われた。

 こわい。それなのに、どうして。

 脚が竦み、立ち尽くす明の太腿を秘所からあふれた蜜が伝っている。

 こんなの、おかしい。ふつうじゃない。でも、いちばん狂っているのはオレだ。

 心も、体も。挿げ替えられ、変わってしまった。否、違う。今も昔もおんなじだ。

 無理やりに絶頂に導かれたハルが腰を震わせて善がる。もう見てはいられなかった。最初から、来てはいけなかった。どこかで分かっていたはずなのに。

 扉を閉ざす寸前、こちらを視たジャヤがひどく残酷な笑みを浮かべた気がしたが、定かではなかった。

 明はそのまま半ば走るようにして立ち去ると、ハルの部屋に駆け込み、寝台に潜り込んだ。

 息が上がっていた。鼓動がうるさいくらいに響いてやまない。

 先ほど垣間見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 部屋に立ち込めるハルの残り香が明の胎の奥で燻っていた疼きを煽り立てた。昂った体。その中心に恐る恐る触れ、明は自分で自分を慰め始めた。



 瞼の裏。自分だけの赤黒い闇が、急に色づいた気がした。

 いつの間にか、また眠っていたらしい。すべて夢ならばいいのに。この世界にきてから、何度そう思ったことだろう。

 目を開くのも億劫だが、それでもずっとそうしていられないことだけはもう分かっていた。明はゆっくりと瞼を開く。柔らかな朝の光が溢れるように視界を染め、そして。

「……おはよう、アキラ」

 紫水晶の瞳がこちらを見つめていた。美しい花びらのような黒髪がシーツの上にこぼれている。

「え……あ……、ハル……?」

「おはよう?」

「えと……お、はよう、ございます?」

 状況が飲み込めないまま、辛うじてそう返した明の方へ手を伸ばし、ハルが髪の毛を撫でてくれた。

「ふぁ……ようやくお目覚めなのじゃな。まったく。起きる気配がなかったから心配したのじゃよ?」

 欠伸をし、猫のように体をのばして、ハルが微笑む。どうやらしばらく前から寝顔を見られていたらしい。途端に恥ずかしくなり、明はシーツに顔をうずめようとする。しかしハルの動きの方が素早かった。明の鼻先をハルの指がやさしく摘まんでいた。

「ひゅえっ、ゆひ、はなひてくらはい!」

「むう。反省の色がないの? このまま鼻をもいでしまうぞ?」

「はへ?」

 話の展開についていけない明を見て、ハルは苦笑いしてみせた。しかしすぐに挑戦的な瞳になる。

「昨晩。汝は妾とあやつがいたすのをみていたであろう?」

「あ……、え、ハル、あなた気づいて……」

「気配駄々洩れ、動揺しまくりの気を乱しまくり! むしろ屠龍師ならずとも気づいてあたりまえじゃろうが!」

「えっひどいよ!?」

 明は思わず本音で叫んでいた。

「それはこっちの台詞じゃ、この覗き魔めが。あれだけ来るなとアピールしたではないか」

「だってそんな……無茶苦茶だ!」

「まあ、それは確かにの」

 結局ハルはさもおかしそうに相好を崩す。

「なれど、アキラ。ここはそういう場所なのじゃ。探索者や竜相手にやりあう戦士が日頃の憂さを晴らし、気を養う場。それに昨日のあれは演技などではない。妾も本気で受けている。ぬしの言う通り無茶苦茶だし、気持ち悪いじゃろ? だが、これが妾の仕事なのじゃ……どうじゃ、嫌いになったかえ?」

 そう言って、ハルは少し悲しそうに笑う。明の心を揺さぶるに足りる愛くるしい表情だった。これこそ演技かもしれない。わかっている。ハルはこの道のプロなのだ。それとも〈魅了〉の効果かもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。

「……今更……嫌いになんて、なれませんよ」

「……すまぬ。すこしあざとい質問じゃったな」

「それは……たしかに?」

 明が肯定してみせると、一拍をおいて二人そろって吹き出した。まるで悪戯の共犯者の気分だった。

 ひとしきり笑い合ったあと、ふと不安そうな顔に戻ったハルが訊ねた。

「……アキラ、妾のもとで働いてくれるかや?」

「はい。わたしの意志に変わりはないです」

 頷いて見せると、今度こそハルは花開くような笑みをみせてくれた。心を蕩かすような笑顔だった。たとえ魔術などなくても、きっと彼女はひとをそうさせるのだろう。

「ところで……ジャヤ、お師匠さまはこのこと……」

「もちろん知っての上じゃ。それどころかこうなるよう誘導したのはあやつじゃよ。本当に邪なやつじゃの。アキラもたいへんなやつを師に選んだものじゃ」

 どうやらジャヤは相当歪んでいる。明が認識を改めるには十分だった。

「……それで、お師匠さまはどこへ?」

「知らぬ。明け方に飽きたから別の部屋に行くと言って出ていった」

「はあ……もうめちゃくちゃだな」

 先が思いやられる。

 修行と仕事。両方の約束をとりつけたものの、明には自分の行く先が暗澹たるものに思えてならなかった。


 §


「おかえりィ、アキラちゃん。初デートで朝帰りたァ隅に置けないねェって何その表情っ!? 虚無っ!? 虚無なのォ!?」

 医院の扉を開けると、音と気配を嗅ぎつけたのか、早速湧いて出たトワイライトが明の表情を見るなり顔色を変えた。ドン引きだ。ドン引きしている。あのトワイライトが。

「え……なんか、その……平気ィ?」

 この男が戸惑うほどに自分はひどい顔をしているのだろうか。

 それともなにか悟ってしまったかのような筆舌しがたい表情でも浮かべているのだろうか。

 だが、そんなこと知ったこっちゃなかった。オレがどのような顔をしていようとこの男だけには関係ない。明は眉間の辺りに力を込め、結果的に余計に凄惨な表情を形作った。

「あのォ、それ……いったいなに……アー、ジャヤと何かあった? 館でエグイもんでも見たァ? ハルに何かされたとかァ?」

 全部だ。

 だが、答えてやる必要はない。

「どうだ、バカ。仕事と修行、の……約束を、両方……取り付けたぞ」

「あ? そう、そう……なの? アキラちゃんの当面の問題がほとんど片付いて良かったねェ? えっと……良かったンだよね……?」

「見ろ。おまえの……ちからなんか借りなくても、オレは、この世界でいきていけ、りゅ………………少し寝る、から……あとで、起こせ……バカ……」

 最後のほうはもう殆どなんと言ったのか分からなかった。

 ずるずると倒れてしまった明の体を支えて抱えると、トワイライトは黙って寝室へと運び、寝台に横たえた。シーツを掛けると、明の前髪を一撫でして、頬からどけてやる。

「今日のところはゆっくりおやすみィ、アキラちゃん」

 トワイライトが部屋を後にする際、自分に掛けられた存外優しい声を、明は夢うつつで聴いた気がした。




 第二話 了


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