第7話 竜骨都市には幾多の迷宮がある 〈3〉



 胡が紹介した店は、中華そばのような、あっさりとした味の麺類をメインに扱っている小さな食堂だった。店自体は小さいが、客が途切れることはなく、繁盛しているのだという印象を受けた。

 胡が勧めるままにメニューを決めた明の前に出されたのは、細い麺に刻みネギ、鳴門のような巻物、そしてこんがりと焼き目のついた叉焼肉が乗ったオーソドックスな中華そばに似た食べ物だった。

 ラーメン。そう、ラーメンだ。それと非常によく似ている。懐かしさと穏やかな香気、そして湯気の温かさが食欲をそそる。この体になって、自分から何かを食べたいと感じたのは初めてだった。

 羞恥心とほんの少し残る抵抗感から、眼前に差し出された丼にゆっくりと箸をつけ、一口を啜る。ジャヤと胡が、興味深げに明の様子を窺っていた。

「あ……コレ、おいしい……」

「そうでしょう、そうでしょう!」

「喜んでもらえてよかったよ。あ、ボクに替え玉ふたつください!」

 ジャヤは既に三玉目を平らげたところだ。贅肉などまったくない鍛え上げられた身体のどこに大量の料理が吸収されていくのか謎だが、大層な食欲であった。

 そういえば彼の屠龍機も〈大喰らいタオティエ〉という名がついているが、なにか関係があるのだろうか。

「ん? どうしたんだい、メイくん」

「……お師匠様の食べっぷり、すごいなと思って」

「ああ、これか。屠龍機に乗ると、すごくお腹がすくんだよ。今朝、たっぷり鍛錬をしてきたのもあるかもしれないけれど、どうにもボクは人一倍ごはんを食べてしまう体質らしい」

「……そうなのですか」

「でも、さすがに食べ過ぎかな……一緒にいて恥ずかしくない? へいきかな?」

 ジャヤは子供のような顔で訊ねてくる。

「大丈夫です。食べられないより、食べられるほうがいいと思うし。……それに、お師匠さまの食べ方は見ていて気持ちがいいものですから」

「……そっか。安心したよ。あ、叉焼き追加で! あと替え玉もうひとつ!」

「しかし、さすがに限度があると思いますけどね」

 そう言う胡は胡で猫舌ならぬ狐舌なのか、ふーふーと息を吹きかけ、麺を冷ましながらゆっくりと頬張っていた。本性である妖狐の姿のまま、はふはふと飯を喰らう姿は無条件に可愛らしい。向かいの席に座った狐の姿をまじまじと見つめて、明は小さく溜息をついた。

 ……撫でてみたい。出来るのなら、全身撫でまわしてみたい。

 まだ力で勝てるわけではないから、きっと随分先のことになるだろうが。いつかきっと、このひとのことを――。

 明の中でよからぬ欲望が膨らみ始めたその時、なにげなく胡が訊ねた。

「お二人はこの後、どこへ行かれる予定です?」

「……そうだね。迷宮入り口・蓋頚がいけい地区を見てもらったあと、館へ行こうと思っている」

「そうですか。今後修行を積まれるのなら、それがよいかもしれませんね」

 胡が意味ありげに頷く。

 食事を済ませて店を出ると、通りの向こうに人だかりが出来ていた。聞けば通りの向こう側は竜骨都市第三層と四層の境目にあたる場所らしい。

「もし。いったいこれはいったい何の騒ぎです?」

 無視して行こうとするジャヤとは対照的に、胡は適当な者をつかまえて訊ねた。

「新領域だよ。銀月ぎんげつ迷宮の空洞うつろから行けるようになったのを発見したパーティが出たらしい」

「ほう。それは興味深いね」

「新しい攻略地が出来りゃ、探索者どもが押し寄せて忙しくなるぜ」

「ガルド事務所のギルグリム兄弟が探索に名乗りをあげているらしい。あとは五層の屑鉄党、迷宮地図オタクのミカエラ・パニャーノがシェルパを雇って乗り込むとかなんとか……俺たちもこうしちゃいられねえや!」

 血気盛んな冒険者が多いのだろうか。血湧き肉躍る冒険、そのむこうにある富と名声を求めて、探索者たちが各々盛り上がっている。早くも己が属するパーティやクランの元に報告に戻ろうとしている者もいた。

 胡が待たせていた明たちを振り返る。

「ふむ。どうやら四層銀月迷宮奥の空洞で新領域が発見されたらしく、その話題がこの界隈まで持ち込まれて騒ぎになっていたようですよ。ジャヤ、どうみますか?」

「このタイミングで新領域、か。なんとも言えないけれど、たぶん先のジャオアオロンの巣だった可能性が高いね」

 その名に明の鼓動が一瞬跳ね上がる。刻み込まれた恐怖はまだ消えていない。傷は癒えていない。それを知ってか、ジャヤは眩暈を覚えた明の背に軽く手を添えて支えてくれた。

「では、新領域の主が竜である可能性は低いと?」

「……わからない。小龍や幼生体がいてもおかしくはないけれど、災害級のボスがいるわけではないと思う」

「ふーむ。それでは、探索は様子見――ですか?」

 胡は算盤でも取り出して計算を始めそうな勢いで何かを考え込んでいる。既存の――明の世界の狐のイメージと被るような行動だ。胡には失礼かもしれないが、彼は真剣に値踏みをしているのだと明は思った。

「胡。ボクとしては今焦って新領域に乗り込まなくてもいいんじゃないかと思うんだよ。十分に報酬は得られている。龍も倒した。しばらくは休息期間でお互いに好きにやるという形で。もっとも所長次第だけれどね」

「所長は貴方次第だというでしょう。では、僕はしばらく情報収集にあたることにします。地下でテトラが乾涸びていかねませんし、ついでに様子をみてきますよ」

「そうしてやってくれると助かるよ。……胡」

「なんです」

「ごめんね」

「……性分です。あなたのせいではありませんよ。でも、次に探索に出る時は声をかけていただきたい」

「もちろんだよ」

「それでは。アキラ、修行をがんばってくださいね。身を持って知るでしょうが、何事も最初が肝心です」

 胡は明に向かって微笑みかけると、踵を返し雑踏へと紛れていった。

 あの狐狸精はおそらく探索へ出るべきだと考えていたのだろう。しかし、ジャヤはそれをやんわりと断った。その理由は他ならぬ自分にある。それくらい明にも察しがついた。

「いいんですか。断ってしまって」

「どうして?」

「どうしてって……オレ、いや、わたしを弟子にしたから、身動きがとりにくくなったんじゃないですか」

「ああ、君はそういうことも気にするタイプだったか。けっこうめんどうくさいところ、あるね」

 ジャヤの読めないところは怒りのポイントと沸点の低さだ。明の言葉で、どうやらジャヤは少し怒ってしまったようだった。

「君はなにも気にしなくていい。この世界に生まれ変わった君が決断し、ボクがボク自身の意思でそれに応えたのだから」

「……はい」

「……ごめん。少しきつい言い方をしたね。ちょっと歩こう。次に案内したい場所はもう少し下層にあるんだ」

 午後の微風にあたりながら、第三層のジャンク露店通りを歩く。慣れないヒール靴では明の歩調もだいぶ遅い。それでもジャヤが離れず横を歩いているのは、明に合わせてくれているからだろう。言葉少なになりながらも、気遣いを忘れずにいてくれるのはほんの少し嬉しい……かもしれない。

 竜骨市骸区第三層の中心部であるという場所は昇降機乗り場で、下層に下る者、上に戻る者とで賑わっていた。明たちの世界に置き換えれば、小さな駅のようなものだろう。

「ちょうど下り便が来たところだね。これで下まで下って、迷宮入り口を見に行こう」

「迷宮……ですか」

 先ほど探索を断ったばかりだというのに、どうしてまた迷宮が出てくるのだろう。

 訝る明を伴ってジャヤは下り昇降機へと乗り込む。ごとん、と一度大きく振動し、昇降機が動き出す。

「胡はね、新領域をいち早く踏破することで得られる報酬に期待していたんだよ。彼は空狐だ。ああ見えて、抜け目なく利害を計算して暮らしている。なにが一番得かを常に念頭に置いているんだ」

「はい」

「たしかにボクは新領域の探索に賛成しなかった。けれど、なにも迷宮探索自体をしないと言ったわけじゃない」

 前を向いていたジャヤが明に視線を向けた。

「ボクはね、当面の修行として君に迷宮探索をしてもらおうと思っているんだよ。今から向かうのは、鈍色にびいろ炭鉱。もっとも初歩的な迷宮だ」

 その言葉に、明は小さく息を呑んだ。


  9


 三分ほど緩やかに下降したのち、二人は第四層で昇降機を降りた。

 広場からは古びた建物が互いを支え合うように聳える様子をぐるりと望むことができ、上層を飛ぶ白い鳥たちが遠く淡い陽光に輝いて映えた。かつてこの一帯に棲んでいた人々に時を告げていた鐘楼も今は朽ちて久しく、昇降機の駅舎と連結され、単なる待ち合わせ場所と化しているらしい。

 しかし昇降機乗り場として開けた一帯には相変わらず屋台やバラック小屋が立ち並んでいる。

「……鈍色炭鉱って、どんな場所なんですか」

 そもそも今日の明はワンピースにヒール靴という軽装だ。というか装備しているものなどないに等しい。スカートなんてただの布だ。そこいらのボロ雑巾よりも弱く脆いだろう。そんな状態で迷宮なんぞに立ち寄って平気なのだろうか。

「どんな場所、か。そうだね、あそこに曲がり角があるでしょう」

「……はい」

「あれを右に曲がればもう坑道だよ」

「……はい?」

「あれを右に曲がればもうこ」

「や、律義に言い直さなくていい。もう分かりましたから。でも、こんな……観光地みたいな場所にほんとうに迷宮が?」

「鈍色炭鉱はもうほぼ狩り尽くされた攻略済みの迷宮だからね。興味本位で見てみたいというお客さんのほうが多いくらいだ。だからこの状況も当然なんだろうけど……」

 ジャヤは肩をすくめて苦笑してみせる。確かに、周囲には探索者や冒険者というより、街行く人々――その恰好に近い者たちのほうが多いくらいだ。明の恰好も別に浮ついているようには見えない。

 二人は曲がり角まで歩き、右を向いた。

 ……地中へと繋がる道が確かに口を開けていた。一定間隔で支柱が埋め込まれ、灯りがともっているのが見える。

 人の手がある程度奥まで入っていることが明にも見て取れた。入り口には古びたフェンスがあるが、開け放たれたまま錆びている。

「ほら、ね。ちゃんとあるでしょう」

「はあ……」

 地下迷宮。竜骨都市の下に広がる未踏の領域。その第一印象は随分想像と乖離していた。

「うん。わかるよ」

「……なにが、です?」

「君の考えだよ。メイくんは、ボクが君を軽んじてこんな場所に連れてきたと思っているだろうね。どうせ初歩的な迷宮で鼠狩りやスライムを殺してこいなんていう、誰でもできそうな簡単な修行をさせる気なんだろう、って」

「……いえ、そんなことはないです」

 一呼吸置いて、明は至極真面目にジャヤの言葉を否定した。

「オレ、いや……わたしのような初心者が初期のダンジョンを軽んじてひどく痛い眼を見る、これいまどき常識というか踏襲されまくった流れです。スライムや大鼠やゴブリンを甘くみるとすぐに死ぬ。ほんとうに死ぬ。ものの見事に死にまくる。わたしは所詮その程度の……ううん、たぶんそれ以下、初心者はおろか駆け出しですらない凡人――非力な素人です。剣を握る力はおろか、おそらく今の体では箸すら転げ落とすでしょう。まちがいない。だからわたしに必要なのは努力と努力、さらに努力です。それと一パーセントの才能と運。それに他ならぬお師匠さまのご指導ご鞭撻、一挙一動一投足を見逃さず聞き逃さないことが肝心なんです」

「メイくん……ちょっと目がすわっているんだけど。落ちついて……。というか君なにをどこで聞きかじってきたの」

 無論、あちらの世界のフィクションからだ。

「さあ、何をどこから殺せばいいんですか。言って」

 明は真っ直ぐに問うた。瞳は揺らがず、声が震えることもなかった。自分がこんなに歪んだ言葉を――覚悟を、他人に告げることができるなんて、思いもよらないことだった。

「君は案外こわいことをいうんだね。もっとも、そうさせてしまったのはボクたち……いや、ボクのせいなのだろうけど」

 明の言葉を聞いたジャヤは困ったように笑うだけだ。だが、こちらもまた揺らがない。

「メイくん、君の意思がそこまで固まっているのなら、ボクはそれに見合うかたちで向き合うだけだ。そして当然、言葉だけで覚悟は証明できない。ついてきて」

 二人は鈍色迷宮、その坑道に足を踏み入れた。踏み固められた道は思ったよりもしっかりとしていて、さほど歩きにくくはない。

 足元から冷気が這いあがってくるが、まだこの段階であれば耐えられる程度だ。ほぼ等間隔にとりつけられた光源のおかげで、互いの輪郭を暗がりの中でもはっきりと確かめることができた。しかし、このような形で開かれた迷宮に、いったい何が出るというのだろう。

 その時だった。なにか悪寒めいたものを感じた明はふと足を止めて、行く先を見た。

 闇が……歪んでいる。

 明にとって、それは黒く霞んだ空間が蠢いているかのように――しかし、確かにそこに在るものとして感じられた。

「なにかが……いる?」

「そうだね。その通りだよ。でもよかった、トワイライトは君のことをきちんと〈視える〉ように編み上げたんだね」

 どこか安堵したようなジャヤの言葉は、明にとって妙に不安を煽るものでしかない。意味を測りかねているその隙を縫うようにして、ジャヤは短剣を抜き、蠢く闇の蟠りを斬り払った。そこに居た何かは霧散し、気配を失った。

「君に殺してもらいたいのは、この〈陽炎〉さ」

「かげろう……?」

 ジャヤは闇を切り裂いたばかりの切っ先をまた別の方向に向ける。と、そこにも同様に闇が蟠っている。

「あれは、瘴気のようなものだよ。悪い気の流れの滞ったもの、悪い気そのものといってもいい。地下迷宮というもともと水や金気の多い場所柄、陰気が渦巻きやすいのもあるけれど、ここは観光化して人も多く集まるようになった。その分、人の抱える恨みや妬み、嫉み、負の念が堆積しやすい場所になっているんだよね」

 すぅっと目を窄め、ジャヤは再び刃を一閃。斬られた闇が消失する。

「この瘴気は……〈陽炎〉と呼ばれるタイプのものなのだけれど、放っておくとこんな風に増えるんだ。瘴気に中てられれば、人は弱り、やがて病気になる。直接襲ってくるわけではないけれど、実は厄介なのがこういう存在なんだよ」

 ジャヤは明に今まで握っていた短剣を手渡してくる。おずおずと受け取ったくの字型の刀はそれなりに重く、しかし不思議と手に馴染む気がした。

 武器としてナイフを扱うのは初めてだった。そもそも包丁や工作用の小刀を除いて、ナイフなんか握ったこともなかった。

「さあ、斬ってごらんよ。メイくん」

 なおも坑道の片隅に蟠る闇に向かって、ジャヤは明をたきつけた。

 斬れと言われて斬れるものなのだろうか。それに構えも、使い方だって覚束ないのに、明にそれが出来るだろうか。

 けれど、後戻りはできない。絶対にしたくない。

 息を一度深く吐き出す。吸い込む。そして、「相手」を視る。

「――るぁああッ!」

 間抜けな咆哮だと思った。

 けれど、不格好ながらも踏み込み、闇を斬り払う――――果たして。

「……なんだ。才能ないね、君」

 闇はまだそこに蟠ったまま。というか、増えている。明が斬った分――否、斬れないことで明が動揺し、心を乱した分だけ、陽炎は増している気がした。

「それどころか、逆に引き付けてしまうとは。これは思ったよりもずっと殺りがいがありそうだ……!」

 湧きたつ悦びの焔を瞳に燃やし、さもうれしげに口元を歪めるジャヤはどこか異様だ。やはり戦闘が絡むと好戦的なあの一面が覗くのだろう。

 だが、それよりもこの男にはあんなに簡単に斬れた陽炎が、自分にはまったく斬れないことの方がよっぽど問題だ。あるいは簡単そうにみえた――それだけで、ジャヤの実力が凄すぎるのかもしれない。むしろ明が弱すぎる。現時点ではその可能性の方が高い。

 だが、どうすれば。どうすればこいつらを斬れるのだろう。

「安心しなよ、メイくん。君は本当に才能がない。でも、才能がないなら、徹底的にやればいい。幸い君には陽炎や他の不可視のものどもを〈視る〉ことができるようだ。それなら、斬れるまで徹底的にやればいい。必ず出来るようになる筈だ。彼らはいなくならない。どこにだっている。それならば、殺して殺して、殺しまくってやるまでだ」

「……はい」

「呼吸法や走法、剣の扱い方はこれと並行して教えよう。基礎からたっぷりと、ね」

 そう言ってさわやかな微笑みを浮かべるジャヤが、明には少し恐ろしく思えた。

 でも、必ずオレは全て身につけてみせる。そうして、少しでも早く眼前の男と殺し合うことができるようになるために。

 オレを生まれ変わらせたやつらを全員殺しきるために。

「君は毎日ここへきて陽炎を殺すこと。殺すために的確な努力をすること。そして基礎練習をしっかりやること。これが当面の課題かな」

「……わかりました。精一杯やります。だから……その、よろしくお願い、します」

 自分をまっすぐに見つめる紺碧の瞳には奥行きがあって、そしてとても眩しく見えた。

 目を逸らしてしまいそうになりながらも明は懸命に耐え、ようやくそれだけ紡いだ。

「うん、よろしく。君は本当におもしろい。弱いけど」

「最後のは、余計です」

「……でも、弱いのはきっと長くは続かないんだろうなぁ」

 ジャヤはそう言って、ひどく愉快そうに笑うのだった。



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